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皇太子と世捨て人9
「後でストレスだと言われました。父親への恐怖と兄に隠し事をしてる後ろめたさと、……されたくない事をされているという」
味覚障害もその1つ。残飯のようなものばかり食べていたから分からなかったけれど、その症状は恐らく随分前から……それこそ最初に父親に嬲られた日辺りからあったのだろう。
自分でも気が付かない内に幼い心には過度のストレスがかかっていてそれが表に出たのだ。
「……、それで?」
「兄は医者に、って言ってましたけど……」
スリの常習犯である兄の言葉を聞いてくれる医者がいる筈もなく、目が合うと鍵を閉める者も多くて。
「……死ぬのかな、って思いました」
相変わらず腹は痛く、食べても吐く日が続いていて。兄が懸命に医者を捜して駆けずりまわっている間にも父親は関係なしにリョウを嬲り続けた。
「でも、まあ……隠し続けられる訳なかったんですよね」
「……っ、に、やってんだよてめぇ!!」
父親に組み敷かれボロボロ涙を溢していたリョウはその怒声にビクリと体を跳ねさせた。
「お兄ちゃん……」
怒気を孕んだネイビーの瞳が父親を睨み付けている。
「あぁ?何でいやがんだグズ。とっとと金稼いで来やがれッ!」
「何してんだって訊いてんだよジジイ!」
「ダメ、お兄ちゃん……っ」
一瞬剣呑な光を宿した父親がふと厭らしく笑う。
「てめぇの稼ぎがしょうもねぇから弟がこうして頑張ってくれてんだろ?感謝しろよ」
「……何?」
「こいつは良く稼ぐんだぜ?なぁおい、チビ」
「きゃぅ……っ」
体を動かされた所為で熱の当たる位置が変わり洩れた悲鳴を慌てて押さえたけれど。
「リョウを離せよクソジジイ!!そんな子供に何やってんだ!」
「おーおー、威勢がいいなぁ。てめぇだってガキのくせによ。まあてめぇのその生意気な口塞いでやりてぇと思ってたし丁度いい」
ズルリ、と引き抜かれた事でまた悲鳴を上げかけて、今度は塞ぐ事に成功する。父親の前にも散々に犯し尽くされた体は火照り言うことを聞かない。それでも何とか体の向きを変えてガシャンと酒瓶の割れる音がした方を見た。
「くそ、離せ!離せよ!!」
「うっせぇ、暴れんじゃねぇ!!」
数回殴打の音が聞こえて、布を裂く音が聞こえた。
「お兄、ちゃん……っ!おとうさん、やめて。お願い、やめて……っ」
父親は尚も暴れる兄の首を絞める。
このままでは兄が死んでしまう。そう思ったリョウは果物ナイフを手に取った。
「お兄ちゃんを離して!」
所詮は子供の力。多少傷をつけられたものの致命傷になる筈もなく、父親が怒りに染まった顔で振り返る。
「てめぇ!!舐めてんのか!」
「リョウ!」
殴り倒されて頭が真っ白になる。手の甲を踏んだ父親がリョウの持っていた果物ナイフを振り上げて、次の瞬間
「な、何だ……!?」
業火に包まれた。
「あぁぁ!熱い!熱い熱い熱い熱い熱いィィィッ!!ぎゃあぁぁぁぁッ!」
「ひ……!?」
リョウは息を飲んで炎に包まれのたうち回る父親からズリズリと離れた。
兄は呆然としたままその光景を見つめている。
「お兄……ちゃん……?」
しかしその光景を作り出したのは紛れもなく兄だ。
兄の生み出した炎は父親の体を舐めるように包み、二人が見つめる中やがて炭へと変えた。
「……それから、近所の大人が来て」
流石に父親の断末魔に驚いたらしい大人が集まってきて、消し炭になった塊を見つけた。
握る手に力を込める。
「……町を追い出されました」
元々父親の素行の悪さは近所でも問題になっていて、その上兄はスリの常習犯。これ以上問題を起こされる前にと大人達はこぞってリョウ達を追い出しにかかった。
石を投げられ、言葉で詰られ、時に不当な暴力をふるわれて、とてもじゃないがそのまま暮らしてはいけなくて。
「……子供二人、町から追い出すって事は死罪と同義語です」
外は魔物だらけ。兄が咄嗟に使ったのは確かに魔法だったけれど、訓練をしたわけではない彼が毎回出せるかと言えば答えは否。
「……俺が最初から父に関わらなければ、とかあの時刺さなければ、とか……色々考えました」
そしたら兄は父殺しなんて汚名を着ずに済んだかも知れないし、町を追い出されるなんてなかったかも知れない。いつかは同じ道に辿り着いていた可能性は高いけれど、その時にはもう少し頭を使える年になっていたかも。
そんな事ばかり考えていた。
「でも俺達は運が良かったんです」
通りすがりの傭兵に助けられ、彼らはそのまま二人の面倒を見てくれた。
けれどリョウは兄に父殺しという汚名を着させてしまった後ろめたさに加え、他人という存在が恐怖の対象へと変わってしまって成長するにつれてそれは煩わしさへと変化した。
何とか独り立ちできる年齢に達した彼は兄を残し一人森へと籠ったのである。
「兄は何度も様子を見に来てくれました。……でも」
結局きちんと話ができたことは殆んどない。自分の殻に閉じ籠ったリョウを暫く何とかしようとしていた彼はやがて稀にしか来なくなった。
仕事が忙しい、と言うのは渡される金を見る限り本当の事で。毎回受け取れない、と返すのだけれどそれをそのまま取ってくれてるようで金額はどんどん増えていく。
「疎ましく思ってるかも、と不安になるくらいなら何故素直にならない」
「……素直になって、拒絶されたら?そんな事怖くて試せませんよ」
「……お前は積極的なのか消極的なのか良くわからないな」
心底不思議がるカツキの手にリョウは反対の手をのせる。
「疎ましく思っていても、きっと兄は優しいから来てくれます。でもカツキさんの手を離したら……」
二度と会えない気がして、と言うリョウの言葉に苦笑するしかない。
「その積極性をお前の兄に示してやるんだね。きっと……」
疎ましく思っている筈はない。ただ、リョウが殻に閉じ籠った状態では自分の声が届かないと向こうも手探りなのではないか。そう思う。
「……喜ぶ」
「そうでしょうか……。……って、違います!それも大事だけど、カツキさんの事ですよ。俺、手を離したくないです。いなくならないで下さい」
「……お前の話を聞いて、何故俺がお前の側に残ると思うんだい?言っただろう?俺は、」
お前の父親と同じ事をしたんだよ、と言いかけた唇は今度は手じゃない温もりに止められた。両手でカツキの右手を握っていたからだろうか。
フニ、と柔らかい唇にふと悪戯心が疼いて軽く噛みつく。
「……っ!?」
驚いて顔を離すリョウの頬が月明かりの下赤く染まっている。
「俺に触れるからそういう目に遭う」
このまま離れないと言うなら何をするかわからないよ、と囁けばリョウは肩をびくりと強張らせながら言った。
「……いい、です。それでも俺は……カツキさんにいてほしい」
瑠璃色の瞳が真摯な光を湛えてカツキを見つめる。
「何故そこまで俺に執着するんだい?人恋しいなら……」
「言ったでしょう?他の人といたいとは思いません。……カツキさんじゃなきゃダメな理由は……好きだから、じゃあいけないんですか?」
「だから俺の何を見て好きだと言っているのかが良くわからない」
「そんなの俺だってわかりませんよ。……でも好きなんです。俺といてください」
「……何度も言わせるな。何故俺が……」
「……あなたは父とは違う」
あの男はきっと後悔なんてしなかった。子供相手に、なんて苦しみもしなかっただろう。
父親を結果的に死に追いやった事への罪悪感は存在しない。あるのはただ兄への罪悪感だけ。血の繋がった相手を殺してしまった彼の苦しみへの罪悪感。
「何度も言わせないでください。後悔してるあなたが父と同じわけない」
「……後悔して、許されるものでもないだろう」
お前は父親が後悔して謝ってきたら許せたのか、と酷な問いを投げ掛ける。案の定黙ったリョウにため息をついて立ち上がろうとしたけれど。
「……わかりません。あの頃の俺は子供でしたから」
強く手を引かれて腕の中に閉じ込められる。
「傷は一生消えない。……けどちゃんと罰を受けて償ってくれるなら……許したかも知れません」
だからその罰を受けに行くつもりなのだと言いかけた唇はまた塞がれた。ちゅ、と離れる温もりを思わず見つめる。
「……せめて兄が来てくれるまで……いてください」
来たら来たでまたこうしてウダウダ言うくせに、とカツキは内心思ったけれど返事の代わりに一度唇を押し当てた。
骨折が治っている事にリョウが気付いたのは、カツキからのキスにアワアワ動揺して真っ赤になって布団に潜り込んだ後の事。気付くのが遅いな、と笑ったカツキはリョウの隣に潜り込み未だ動揺冷めやらぬ彼と共に眠りについた。
夜明け前不意に目が覚めてスースーと子供のような寝息をたてているリョウの整った顔を見つめる。寝る前、リョウはカツキに何故そんなことをしたのか、と訊いた。答えてやる義理はない、と返してしょんぼりさせてしまったが。
(語った所でどうなるものでもない)
そう思いながら、思い出した過去を脳裏に思い描いてチクチクと痛む心を持て余し再び目を閉じた。
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