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Chapter 2 : Scene 1

 静寂に満ちた無人の研究室で、圭はただ時間を数えていた。  研究室内の自分のデスク。目の前のディスプレイに流れる文字列はまったく頭に入ってこない。  傾きかけた冬の陽が、カーテン越しに薄く揺れる。時刻は十五時四十五分。  ――あと十五分で。  ――秋吉が、来る。  そう思うと、喉がきゅっと締まり、呼吸が浅くなる。  落ち着け。  深く息を吸って、吐く。昨日から何度そうして深呼吸を繰り返したことか。  ――昨日。  思い出すだけで息が詰まる。  昨日まで、何も気にすることはないと思っていた。一月末のあの夜、思いを確かめ合った後も。秋吉が、圭の研究室に配属申請をしたことを知ったときも。  教員として、一人の社会人として、公私を明確に区別できる理性的な人間だと、自分のことをそう思っていた。むしろ呑気に、四月からの研究室を楽しみにしてすらいた。  ――昨日、偶然、秋吉に出会うまでは。  高瀬の研究室で秋吉と視線を交わした瞬間、すべてが変わった。まさかあの時間にあんなところにいるとは予想もしていなかった。完全に隙を突かれたせいもあるだろう、秋吉を見た瞬間、圭はひどく動揺した。――いや、動揺どころか、恐慌に陥る一歩手前だった。  秋吉の吸い込まれそうに美しい大きな瞳が、圭だけをまっすぐに映していた。あれほど近くで見詰められたのは本当に久しぶりで、瞬間、あの冬の夜の記憶が圭の脳裏に爆発するようになだれ込んだ。  泣き崩れる自分を抱き締めてくれた体温、力強い腕。  初めて知った抱擁の幸福感。全身を満たすあたたかな鼓動。  激しく高鳴る鼓動とともに、「しあわせ」が圭の胸の奥から全身へ一気に駆け抜け、圭の隅々を満たし――みっともなく赤面し緩みきった顔を晒してしまいそうになったが、それだけは寸前で食い止めた。おかげで表情筋が死んだような顔になっていたかもしれないが、気遣う余裕などかけらもなかった。  逃げるように立ち去った圭を、秋吉はどう思っただろう。あの後、思考を落ち着かせるまで、デスクで頭を抱えたきりしばらく動けずにいた姿など、到底誰にも見せられない。  思えば、多忙のせいでろくに連絡を取ってもいなかった。LINEのメッセージに気づいてはいたものの、返事をしようとスマホを取り上げるたび別件の連絡に阻まれる、という繰り返しだった。  落ち着いたらきちんと謝ろう。そして、改めてゆっくり話をしよう。  その程度に楽観視していた自分は本当に浅はかだった、と圭は思う。  ただ顔を合わせただけで、暴れそうになる感情を制御することすら難しくなる。視線が合うだけで、声を聞くだけで、心拍数が一気に跳ね上がる。秋吉以外の何も見えなくなる、聞こえなくなる。教員としての理性など瞬く間に溶け去ってしまう。  自分がそんな浅ましい人間であることを、昨日の偶然の遭遇で心底思い知らされた。  それでも、四月から、秋吉が、圭の研究室に入ってくる。その現実から逃げることはできない。  圭は、何よりもまず指導教員として、秋吉の将来に責任を持たなければいけない。  そう言い聞かせたそばから――昨夜遅く、つい秋吉からかかってきた電話に出てしまった。いや、あれはただの業務連絡で、余計な感情を持ち込んだわけではない。  何度も自分に言い聞かせながら、それでも思い返さずにはいられない。慌てたような声、落ち着きを取り戻そうする声、真面目な声。言い淀んだ間も、微かな呼吸の音まで。  ――浅ましいことを考えるな。  デスクの上に置いた両手を握り込み、浮ついてしまう思考に喝を入れる。深く呼吸する。  ――十五時五十五分。  控えめなノックの音。小さく三回。去年の秋口から何回も耳にするようになった、少し急くような軽いリズム。 「どうぞ」  ディスプレイに顔を向けたまま、短く告げる。少しだけ間を置いた後、静かにドアが開かれる。 「失礼します」  聞こえた声に、肩が微かに跳ねる。 「来たな」  いつも通りの声を発したつもりだった。微かに喉に絡んだような掠れは、気取られるほどではなかったはず。  視線を動かすと、そこに立っていた。  秋吉悠也。目の前にいる。今、この部屋に。  ――私の、こいびとになってくれたひと。  駄目だ。考えるな。指先が白むほどきつく手を握り込む。  秋吉は、どこか緊張しながらゆっくりと圭のデスクに歩み寄った。そして圭の視線を受け、息を吹き返したように表情を輝かせた。 「お久しぶりです、先生」  きらきらと生気に満ちて輝く、ひたむきな黒の瞳。疑いようのない親愛と期待に満ちた表情。その眩しさに、圭は目を細めそうになるのを必死で堪えた。 「そこへ座れ」  断ち切るように短く言い、秋吉から視線を逸らして立ち上がる。平坦な声を装うので精いっぱいだった。  デスクの手前に置かれた一人用のソファに腰を下ろす。事務的な手付きでテーブルに書類を広げると、秋吉も自然に向かいのソファに座った。 「この書類に目を通せ。上から三枚が学生用の誓約書と守秘義務関係。四枚目以降は過年度の履修者向け導入資料。内容を確認したら、付箋のところに日付と署名を」 「わかりました」  指示すると、秋吉は冷静に頷き、並べられた書類に視線を落とした。その反応を見て圭の胸の奥がわずかな違和感でざわつく。  秋吉が手に取り出したペンを見て、今度こそどきりと鼓動が跳ねた。  元は圭が使っていた、樹脂製の濃い紫色の――秋吉が「ダサい」と笑ったペン。いつの間にか秋吉が持っていた。そしてあの夜。「いいじゃないですか。ペン一本ぐらい、俺にくれたって」。秋吉の声が、自分のことしか頭になかった鈍い圭にすべてを気付かせてくれた―― 「先生?」  いけない。我に返る。小さく咳払いをして立ち上がり、デスクへ戻ってPCのロックを解除した。 「研究室アカウントは?」 「まだ取得していません」  静かな声。  今度こそ無視できない違和感が込み上げる。  ――なぜ、これほど落ち着いている?  昨日、自分がひどい対応をしたことを秋吉は覚えているはずだ。それなのにさっき、あんなに輝くような笑みを向けてきた。  そして今、圭がその笑もも無視して事務的に接しているのに、秋吉は少しも動揺していない。  それは、圭の望んだ姿のはずなのに。胸の奥のざわめきは膨れ上がる一方だ。  震える手を抑え、淡々とマウスを操作する。 「では、後日申請書を提出しろ。承認後にLMS経由で研究室用のリソースへアクセスできる。メールは最低一日一回は確認するように」  必要なことだけを端的に。上擦りそうになる声を制御する余り、声音が単調になるのはどうしようもない。 「それから、研究室への正式な参加は来月からだが、三月中もミーティング等へ参加を求めることがある。詳細は追って連絡する」  返ってくるはずの返事が、なかった。  緊張で口の中はからからに干上がっている。鼓動が割れそうなほど鳴り響いている。  深呼吸。なぜ振り向くだけでこれほど覚悟が必要なのか、圭自身にもわからない。  表情を完全に取り繕い、ゆっくりと視線を向ける。 「――返事は?」  秋吉は、深い湖のように静かな表情で圭を見返していた。 「わかりました」  短い、普通の返事。しかしなぜか胸を鷲掴まれたように息が詰まる。慌てて眼鏡のブリッジを直しながら俯く。 「……し、質問がなければ、今日は以上だ。帰っていい」  椅子に座り、再びパソコンに向かう。もう秋吉に視線を向けることもできなかった。先ほどまでとは違う理由で鼓動が乱れている。自分が何を思い何を考えているのかすら把握できなくなりそうだった。 「質問していいですか」 「!」  びく、と指が跳ねた。マウスが滑ってデスクから落ちる。慌てて拾い上げながら、その動きのおかげで表情が隠れることに安堵する。 「――なんだ」 「三月中も勝手にここへ来ていいですか。先輩たちの研究とか、見学したくて」 「まだ席はないぞ」 「かまいません」  思わず視線を向けてしまう。変わらない、落ち着き払った黒の瞳がまっすぐに圭を見返していた。  断りたい、と思っている自分に圭は気づいた。眉を寄せて視線を逸らす。 「……なら、好きにしろ」 「ありがとうございます、先生」  入室した時と変わらない、穏やかで柔らかな声。マウスに置いた指が震える。滑らかなプラスチックをぎゅっと握り込む。  心臓はずっと変わらず暴れ続けている。この感情が恐怖に近いことを、ようやく圭は自覚した。  ドアを開ける音。反射的にまた視線が向いてしまった。 「これから、ご指導よろしくお願いします」  静かな笑みと丁寧な一礼を残して、秋吉の姿が消えた。  乾いた音を立ててドアが閉まった。圭は、しばらく呆けたように、閉ざされたグレーのドアをただ見詰めていた。

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