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Chapter 2 : Scene 2

 週に一度、木曜日の十五時から行われる藤堂研の定例ミーティングは、春休みだろうと年度末だろうとお構いなしに開催される。  昨今の風潮からすると、「ブラック研究室」というくくりに入るのかもしれないが、決して学生一人一人の事情を軽視しているわけではない。研究の精度を上げて成果を得るために必要なステップだということは、藤堂研究室に所属している学生はわかってくれている――と、圭は信じている。  現に、定刻が近くなり、集まってきた学生たちの表情に、倦みや疲れは見えなかった。藤堂研に所属する学生は、現時点で五名。やるべきことに取り組む頼もしい表情に、圭は小さく口端を緩めた。  微かに聞こえるサーバーの駆動音、冷却ファンの周期的な呼吸音。ホワイトボードに書き殴られた数式。そのすべてが、あるべき場所に収まっているという安心感を圭に与える。  秋吉との、恐怖に近い動揺をもたらしたひと時から数日。この慣れ親しんだ環境に身を置くことで、圭はようやく正常なリズムを取り戻しつつあった。 「センセ、紅茶どーぞ。今日はアールグレイっす」  ミーティング開始の五分前。博士課程二年の院生、水島 楓(みずしま かえで)が、ごく自然に白いマグカップを圭の傍らに置いた。ショートカットに眼鏡の、少年のように見える女性で、研究室の中で一番紅茶を上手に淹れる。ふわりと立ち上る湯気と共に、ベルガモットの落ち着いた香りが鼻腔をくすぐる。 「ありがとう」  礼を述べると、水島はサムズアップを向けてから自席に着いた。指導教員に対していささか砕け過ぎた態度かと思うが、場をわきまえることのできる女性だということは知っているので、とやかくは言わない。  徐々に整えられていくミーティングの場。いつもの場所にいつものように座る五名。見慣れた顔。見慣れた画角。すべてが圭のコントロール下にある、圭のテリトリー。 「始めよう」  定刻通りに声をかけると、雑談に興じていた学生たちの空気が引き締まる。  プロジェクターが壁に光の四角を投影し、最初の発表者である野々村が、少し緊張した面持ちでノートパソコンの前に立った。  野々村は、この研究室のムードメーカー的な存在だった。残念ながら一年留年しているが、本人は大して気にしていない。快活で物怖じしない性格は、友人である秋吉ともよく馬が合うようだ――危うく逸れかけた思考を密かに慌てて引き戻す。小さく頭を振り、スライドに視線を戻した。 「野々村。そのシミュレーション結果には、前提条件のパラメータ設定に論理的な飛躍がある」  プレゼンテーションを遮り、レーザーポインターでグラフ上の一点を指し示す。室内の空気が一瞬、張り詰める。 「仮説を立証したいという意図は理解できる。だが、希望的観測に基づいてデータを歪めてはならない」  学生たちが圭を「氷の藤堂」と評していることは知っている。その評価を覆すつもりも、媚びるつもりもない。圭の役割は、彼らを研究者として自立させることであり、そのためには冷徹なまでの客観性が必要だ。 「うわ、マジかー……完全に見落としてました。すみません、修正します」  大げさに頭を抱えた野々村の所作に、学生たちの間に軽い笑みが広がる。凍った空気が緩む。  野々村のこうした振る舞いは、恐らく本人は無意識なのだろうが、周囲にプラスの影響を与えている。秋吉と同じだ――と思いかけて直ぐに思考を打ち切った。なぜ、こうも容易く秋吉の名前を思い出すのか。自己嫌悪に似た感情が胸の奥で燻る。  圭は平静を装い、淡々と指摘を続けた。 「それから、そのグラフの縦軸のスケールが不適切だ。視覚的なインパクトを狙う手法は、研究者らしい誠実さに欠ける」  追い打ちをかけたつもりはなかったが、野々村は「ひえっ」と情けない声を上げた。ただ、おどけて肩を竦める様子から、まだ余裕はあるようだ。 「野々村、どんまい」 「さっすがセンセ、今日もツッコミがキレッキレ」 「他の先生ならもうちょいオブラートに包むとこだと思うけどねえ」 「だから『氷の藤堂』なんでしょ。学会でもどこでも誰に対してもあの調子よ」  見守る学生たちの軽口も含めて、藤堂研のミーティングではこの程度のやりとりは日常茶飯事だった。――本人に聞こえる場所でする話ではないのでは、と思いつつ、圭はマグカップを口に運ぶ。  発表者交代のためにノートパソコンの接続を解除しながら、野々村が茶々を入れた。 「藤堂先生、カノジョとかできても全然ブレなさそうですよね。研究に使う資料とかデスクとか絶対触らせないでしょ」 「あー、わかる。『デスクの上、配置が変わってる』とか言いそう」 「掃除とか食事とか、身の周りに干渉されるの、めっちゃ嫌がりそうっすよね」 「……うるさい」  なぜかかすかにざわめいた内心に蓋をし、短く答えた。くだらない話だ。 「私は私生活ではそこまで几帳面じゃない。ただ、整理整頓は思考の整理に繋がる。ワークスペースの乱れは研究内容の乱れと同義だ」 「え、じゃあ、先生の部屋、実はめっちゃ汚いってこと?」 「デスクあんなキレイなのに?」  野々村と水島がひそひそと囁きを交わす。一応声を落とす配慮はしたようだが、残念ながらテンションの高さがその配慮を完全に裏切っていた。丸聞こえだ。  心底ため息を吐きたくなりながら、圭は手にした資料をめくった。 「清潔さは人並みに心がけている。雑談は終わりだ。次」  ――干渉されるのが苦手、というのは当たっているかもしれない。  ふと過ぎった考えを振り切るように小さく頭を振ったとき、入り口からノックの音が聞こえた。一番近い席に座っていた水島が小走りでドアへ向かう。 「おー、久しぶりじゃん。そっか、あんたも結局、藤堂研入ったんだっけ」  明るい水島の声に、学生たちが振り向いた。  圭も視線を向ける。と、水島がにっこり笑ってドアを大きく開いて見せた。 「センセ、秋吉来ましたよ。見学したいんだって」  大きく鼓動が跳ねた。目を見開きそうになった反応を辛うじて堪える。 「お邪魔します」  張りのある、快活な声。ひたむきな黒い瞳がまっすぐに圭を見詰めている。圭の喉仏が小さく上下した 「お前は絶対ここ入るだろうなって思ってたよ」 「今日は見学? さすが熱心だなあ」  学生たちが秋吉を歓迎するざわめきが、まるで遠い世界の出来事のように聞こえた。  ――ついに、秋吉が、来た。ここに。この研究室に。私のテリトリーに。  そう思うだけで鼓動が乱れる。息ができなくなる。 「ほら野々村くん、イス出したげて。秋吉くん、こっちこっち」  指示された野々村が、あろうことか、圭が座るテーブルのすぐ隣のスペースに椅子を置いた。  圭の隣へやってくる秋吉と視線が合う。きらきらと光る瞳に、隠しきれない喜びの色が滲んでいるのが見えた。きゅ、と胸が詰まる感覚。そんな目を向けられることすら耐えられない。熱くなる頬をごまかすように慌てて俯く。 「失礼します、先生」 「――ああ」  視線は向けないまま、圭は無表情に顎を軽く引いた。平坦な声に聞こえてくれただろうか。  椅子に腰を下ろす瞬間、ふわりと、清潔な柔軟剤の香りが圭の鼻腔をくすぐった。鼓動が一気に跳ね上がる。  ――隣に、いる。腕を伸ばせば触れられる距離に。  ペンを握る手に無意識に力が籠る。  空気の揺れがわずかに残っているのを感じながら、圭はあえて断ち切るように声を発した。 「では、再開する。次、佐伯」  努めて乾いた声を装い、圭は意識の全てを目の前の発表へと強制的に向けた。  佐伯 玲奈(さえき れな)は、水島と同じ博士課程二年。一見研究者らしくない、柔らかな雰囲気をまとった女性だ。そのプレゼンテーションは常に論理的で、データも整理されている。指摘すべき点はほとんどない。普段ならば、彼女の淀みない説明に知的な満足感を覚えるはずだった。  しかし、今日は違った。  秋吉がわずかに身じろぎするたび、小さく聞こえる、布地の擦れる音。椅子の軋み。ノートに何かを書き付ける音。  普段なら気にするはずもない、そんなかすかな音が、圭の神経をざわめかせる。勝手に秋吉の音を拾う貪欲な自分の聴覚が、ひどく煩わしい。  まったく集中できない。  ――少し距離を取ろう。不自然でないように、そっと。  そう思い、離れる距離を測るために視線だけを動かし――固まる。  スクリーンを見つめる真剣な眼差し。生気に満ちた黒の瞳を縁取る、長く艶やかな睫毛。きりっと通った鼻梁とシャープな顎のラインは、こうして真面目に沈黙していると意外に精悍さを漂わせて見えた。圭が密かに気に入っている愛嬌のある目元のほくろは、この角度からは見えない――いや、何をがっかりしている。  いつの間にか磁石のように視線が引き寄せられていた。胸の奥が、分析することのできない感情で甘くざわめく。 「ここの相関関係について、先生のご意見を伺いたいです」  すべての感覚を断ち切る声。  頭が真っ白になる。何も考えられない。  激しい動揺を抑え付け、瞳に映っていたスライドと、ぼんやりと聞こえていた佐伯の発表内容を脳内で懸命に反芻する。  佐伯が少し不審そうに首を傾げかけたとき、ようやく口が動いた。 「……その解釈で問題ない。ただし、サンプル数を増やした場合の変動率も考慮に入れろ」 「ありがとうございます」  ほっとしたような佐伯の笑顔を見ながら、深く溜息を吐きそうになる。胸の鼓動が異常に速くなっていた。  終了時間まであとどのくらいだろうか。時計に視線を走らせながら、そんなことを気にした自分に暗澹とする。今までの圭にとってこのミーティングは、知的好奇心を満たす楽しい時間だったはずなのに。今は、暴れ馬のような自らの感情を制御するのに精一杯だった。  最後の学生が発表を終える頃には、圭の全身に、鉛のような疲労感が圧し掛かっていた。 「お疲れ様でしたー」  終了後の安堵したような空気の中、椅子を引く音や雑談を始める声が研究室に満ちる。  そんな中、椅子に深く身を沈めたまま指一本動かせずにいた圭の鼻腔に、清潔な柔軟剤の香りがふわりと触れた。おさまりかけていた鼓動がまた一気に跳ね上がる。 「先生? 大丈夫ですか?」  心配げに顔を覗かれていることは分かっていたが、視線を向けられない。視線を向けてしまえばきっと、言い訳できないレベルで赤面してしまう。それだけは避けなければ。 「心配ない。……すぐ回復する」  冷たく言い捨てて立ち上がる。視界の端を掠めた秋吉は、少し傷付いたような表情をしているように見えた。圭の胸の奥に鋭い痛みが走る。  呼吸を整える。それからゆっくりと秋吉に視線を向けた。ひたむきな黒の瞳が、嬉しそうに笑った。 「来週からは、秋吉にも参加してもらう。課題は追って連絡する」  指導教員として完璧な表情と声音。  視線を重ねたまま、やはり秋吉は嬉しそうにうなずいた。 「わかりました」  胸が締め付けられる。自分だけを映す黒の瞳。自分の言葉で他愛もなく輝く笑顔。ずっと見ていたい、ずっと見ていてほしい――そんな危険な衝動に、厳重に蓋をする。 「秋吉、こっちおいで。あんたが見たがってた実験、動画あるよ」 「あ! ほんとだ、楓さん、ありがとうございます」  水島の席へ呼ばれた秋吉の背を見送り、圭の肩が無意識に小さく下がった。  秋吉は、今日、ここへ来て、見学しただけだ。何もしていない。ただ「この研究室にいた」だけ。  たったそれだけで、圭のテリトリーはたやすく崩れ去っていた。  圭にとって、秋吉がいる限り、どこにも安全な場所はない。  その事実に動揺と恐怖を覚える一方で、秋吉がここにいることがひどく嬉しい――そんな自分に気づいて、頭を抱えたくなる。  不穏に乱れる感情を理性で押し込めながら、自席へ戻ろうと一歩踏み出したそのときだった。 「あ! 先生!」  背後から聞こえた、快活な声。小さく肩が跳ねたことは誰にも見られていないはず。  小さく呼吸を整え、肩越しに振り返る。 「どうした」  大きな黒い瞳がまっすぐに圭を見ていた。 「明日ちょっとだけ、これからの研究のこと相談したいんですけど。お時間いただけますか?」  思考が止まる。  相談。それはつまり。ふたりきりになる、ということ。  無意識に、圭は片手をきつく握り込んだ。  ――無理だ。耐えられない。  そう即座に叫んだのは感情なのか、理性なのか。どちらだろうと、指導教員として、断ることはできなかった。 「わかった。時間はあとで連絡しよう」  かすれた声で答え、背を向ける。  また乱れ始めた鼓動。これは動揺なのか、期待なのか。  このざわめきは、まだ終わらない。いや――これから、もっとひどくなる。

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