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Chapter 3 : Scene 1

 四月末。  満開の桜が風に舞い、新入生たちの浮かれた声もそろそろ落ち着き始めた季節。  悠也は、喧騒から切り離された静かな研究室で、圭と二人きりで向き合っていた。 「このパラメータだと、結果にノイズが乗りすぎる。別の条件下での再検証が必要だ」  研究室の中に用意された悠也のデスクと、悠也専用のパソコン。そのディスプレイの一点を指し示しながら、圭は平坦な声で言った。  圭の視線は悠也の顔ではなく、画面に映し出されたシミュレーション結果のグラフに固定されている。切れ長の瞳は、怜悧な光を宿してデータの僅かな揺らぎも見逃さない。 「はい。ただ、このノイズ自体に何らかの相関関係がある可能性も考えたんですが……」 「根拠は?」 「まだ仮説の段階ですけど、先行研究で似たような非線形振動が報告されてて」 「どの論文だ」 「去年の10月だったかな、JPSJに載ってた大岡とHirschbergerのやつです。リスト、あとで送ります」  矢継ぎ早に飛んでくる質問に、悠也はテンポよく答える。圭の口元にかすかな感心の気配が浮かぶ。脳が心地よい緊張感に満たされていく。  三月のあの日、悠也が決意を固めて以来、こうして圭と二人きりでディスカッションする機会は格段に増えた。藤堂研究室の正式メンバーとなった今、指導教員である圭との個別ミーティングは、悠也に与えられた当然の権利だ。  しかし。  ――まただ。この感じ。  内心で、悠也は誰にともなくつぶやく。  目の前にいるのは、指導教員としての『藤堂准教授』。悠也が焦がれ、恋人になったはずの『藤堂圭』の姿は、厚い氷の仮面の下に隠されている。  もうひと月以上、この状況は変わらない。  二人きりになれば、少しは雰囲気が和らぐかもしれない。ほんのわずかでも、想いを確かめ合ったあの冬の夜のような恋人らしい顔を見せてくれるかもしれない。そんな悠也のささやかな期待は、圭がまとう『指導教員』という名の分厚い氷の鎧の前に、跡形もなく消え去った。  興味が向けられるのは、研究者としての悠也の能力だけ。投げかけられる言葉は、研究に関する指示と質問だけ。悠也の個人的な感情が入り込む隙間などどこにもない。  それは、他の学生がいる前では、さらに顕著になった。  研究室の他のメンバーがいるとき、圭は、決して悠也に近づかない。ミーティングでは、必ず悠也から一番遠い席に座る。まるで悠也の周囲にだけ見えない壁があるかのように。  挨拶をしても、返ってくるのは無言の会釈か、「ああ」という相槌のみ。悠也が笑顔を向ければ向けるほど、視線を逸らされる。  もちろん、圭の立場もわかっている。二人が恋人同士だということが周囲に露見するメリットは残念ながら皆無だ。だから隠す必要がある。それは理解しているが、それにしても、そこまでしなくても、と思う。  表面では気にしていない風でやり過ごしながら、内心では少しずつ、何かが削られていくような感覚があった。  ただ。  そうして削られていく悠也の心が、ふとした瞬間に柔らかな慈雨を浴びて、再び鮮やかに花開くことがある。 「秋吉。仮説は興味深いが、論理の飛躍がある。その先行研究のモデルは直接適用できるものではない」 「でも先生、この部分の数理モデルを応用するって手はないですか」  食い下がると、圭の眉がぴくりと動いた。初めて、その視線がディスプレイから悠也の顔へと、ほんの一瞬だけ向けられる。  ぞくり、と背筋が震えた。恐怖ではない。歓喜だ。 「……面白い。その発想はなかったな」  圭の唇の端が、ほんのわずかに緩んだ。凍てついていた表情に、微かな熱が灯る。切れ長の瞳が、探るような、試すような光をたたえて、今度こそはっきりと悠也を捉えた。 「どういうアプローチを考えている?」 「はい、まずこの方程式の相関構造を見直して、先生のモデルをベースに変数を――」  頭の中で組み立てられたロジックが、言葉になって一気に溢れ出す。脳細胞がフル回転し、思考が加速していく。  楽しい。最高に、楽しい。  研究者として、これほど波長が合う人間はいなかった。悠也の突飛なアイデアを、圭は決して頭ごなしに否定しない。その核心にある論理の種を見つけ出し、的確な指摘で、より洗練された仮説へと導いてくれる。  この人だ。俺が一緒に研究したいのは、この人しかいない。  胸が熱くなる。純粋な尊敬と、知的な興奮。そして、その奥にある、どうしようもないほどの恋心。  だからこそ、苦しい。  議論が一段落すると、圭の表情からふっと熱が引く。再び氷の仮面を被った無表情で、ディスプレイへと視線を戻す。熱に浮かされていた悠也の心も、急速に冷えていく。  この落差に、いつまで耐えればいいのだろう。  ――俺が見たいのは、研究者としての顔だけじゃないのに。  そう落ち込んだのは、一度や二度ではない。  それでも、二人きりのプライベートなやり取りでは違う顔を見せてくれるはず。そう思って、LINEも何度も送った。  最初は、当たり障りのない内容から始めた。 『先生、今日もお疲れ様です! この前の論文、めちゃくちゃ面白かったです!』  翌日の夜になって、ようやく通知が鳴った。 『そうか』  たった三文字。  しかし、返信があったことそれ自体が奇跡のように思えた。スマホ自体あまり見ないということは本人からも聞いていたし、実際、今までずっと既読スルーされ続けていたから。この三文字でどれだけ悠也が笑み崩れたか、送った当人は知らないだろう。  小さな希望に背中を押され、悠也は会話を続けようと試みた。 『研究室の季節限定チョコパイ、楓さんの差し入れだそうです。美味しかったです』 『そうか』 『今週のゼミ、めっちゃ緊張しました。先生、途中で頷いてくれてたの、嬉しかったです』 『そうか』 『先生の論文、読み返すたびに発見があります。ほんとすごいです』 『そうか』 『明日の昼、学食で軽く一緒に食べませんか? 少しだけでも』 『忙しい』 『週末、何か予定ありますか?』 『論文の締め切りが近い』  やり取りを重ねるたび、胸の奥で灯った小さな希望の光が、少しずつかき消されていくのを感じた。  会話が続かない。  圭からの返信は、すべてが一方通行の報告に対する受領印のようだ。  それでも諦めたくなかった。核心に触れる言葉を送ってみる。 『会って話したいです』  今度こそ、何か変わってくれるはずだ。そんな祈るような気持ちで返信を待った。  数分後、返ってきた言葉に、悠也の心がはっきりと軋んだ。 『研究のことなら、いつでも時間を取る』  その返信を見たとき、悠也はスマホをベッドに放り投げた。  ――違う。そうじゃない。俺が聞きたいのは、話したいのは、そんなことじゃない。  本当に二人は「恋人」だと言えるのか。そもそも圭は、本当に自分を「恋人」だと思ってくれているのか。あの冬の夜の出来事は、すべて悠也が見た都合のいい夢で、圭にとっては学生の一時の気の迷いに付き合ってやっただけなのではないか。 「――では、修正したデータを明日までに提出しろ。以上だ」  圭の冷たい声が、悠也の終わりのない思考の迷路を打ち切った。  見れば、圭はすでに立ち上がり、自分のデスクへ戻ろうとしていた。議論が終わればもう悠也に用はないと、その背中が雄弁に語っている。 「……はい。わかりました」  絞り出した声は、自分でも驚くほど力のないものだった。  またこの繰り返しか。ため息をついてディスプレイに向かい合う。  二月に圭との関係を変えようと決めた時の決意は、一体どこへ行ってしまったのだろう。「『干渉』の始まりだ」と誓ったはずなのに、その意志が砂の城のように脆く崩れていくのを感じて、慌てて悠也は頭を打ち振った。  ――まだ二か月しか経ってないし。弱音を吐いてる場合じゃない。  気合を入れ直す。が、入れ直した気合は、すぐにため息になって口から漏れ出ていく。  圭がスチールラックの向こうの自席に座った気配を感じながら、悠也は怠惰に頬杖をついた。  そのとき、ふと窓の外に二つの人影を捉えた。  楽しげに言葉を交わしながら、夕陽の中を歩く男女。  片方は――野々村だ。ということは、隣にいるのは、野々村の「年上のカノジョ」である学部事務の笹原だろう。二人の間に流れる穏やかで親密な空気が遠目にも伝わってくる。  あの空気。俺と先生の間には、まったくない。  どうすれば、あんなふうになれるんだろう。  羨望と、焦燥感。ごちゃ混ぜになった感情に突き動かされるように、悠也はデスクに放置していたスマホを掴んだ。迷わず画面をタップする。  窓の外で、野々村が立ち止まり、ポケットから慌ててスマホを取り出すのが見える。 「……もしもし、野々村? 今、ちょっといい?」

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