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Chapter 3 : Scene 2

「悪いな、急に呼び出しちまって」 「いや、全然。ちょうど俺らも一息つこうって話してたからさ」  学内のカフェテラス。プラスチック製のテーブルを挟み、悠也は野々村と、その恋人である笹原 香苗(ささはら かなえ)に向かい合っていた。  野々村の隣で、香苗が柔らかく微笑む。 「はじめまして、だよね? 笹原です」 「秋吉です。学部事務でお見かけしてました。いつもお世話になってます」 「こちらこそ。野々村くんから、いつも話は聞いてるよ」  私的に言葉を交わすのは初めてだが、その穏やかな物腰は、人を自然とリラックスさせる不思議な力を持っていた。黒縁の丸眼鏡の奥の瞳が、優しく悠也を見つめている。  しばらく当たり障りのない会話が続いた後、野々村がコーヒーカップを置き、じっと悠也の顔を覗き込んだ。 「で? どうしたんだよ、悠也。電話の声、めちゃくちゃへこんでたぞ。前もなんか元気ない時あったろ」  単刀直入な問いかけに、悠也はわずかに言葉に詰まる。  それを見て、香苗がすっと身を引くような仕草を見せた。 「私、席外そうか? 男の子同士の話もあるでしょ」  そのさりげない気遣いに、悠也は無意識にため息をついた。圭とは違う、他者を自然に受け入れ、相手のテリトリーを尊重するような、大人の女性ならではの空気感。 「いえ、大丈夫です。かまいません」  そう答えてから、悠也は自嘲気味に笑った。 「……というか、むしろ、笹原さんのアドバイスがほしい、かも」  ぽろり、と本音が零れた。香苗が少し驚いたように目を丸くする。 「わかった。私でよければ」  その小さな頷きを見てから、悠也は一度、深く息を吸った。  圭の名前はもちろん、准教授という立場も、何もかもすべてを厳重にぼかしながら、慎重に話し始める。 「実は最近、年上の社会人の人と付き合い始めたんですけど……」 「はあ!? お前、いつの間に!」 「智樹くん、静かに」  素っ頓狂な声を上げる野々村を、香苗が優しくたしなめる。その光景すら悠也には眩しく見えた。 「相手が、その……すごく真面目な人で。仕事とプライベートをきっちり分けるタイプっていうか。二人きりになっても、恋人らしい雰囲気に全然ならなくて。連絡してもそっけないし」  話しているうちに、また胸が苦しくなる。圭の冷たい無表情、無機質なLINEの返信が脳裏をよぎる。 「……これって、本当に付き合ってるって言えるのかな、って」  情けなく声が沈む。  俯いた悠也に、野々村が意外な言葉をかけた。 「あー……わかるわ。俺らも最初はそんな感じだったよな、香苗さん?」 「え?」  顔を上げると、香苗が苦笑しながら頷いていた。 「うん。智樹くんは学生で、私は職員だから。やっぱり周りの目も気になるし、ちょっと気を遣ってたかも。だから、そのお相手の方の気持ち、わかる気がする」  悠也の手が、カップを持ったまま止まった。  圭が、自分に気を遣っている? あの鉄壁の態度の裏に、そんな感情が隠れている可能性が? 「でも、今はすごくラブラブなわけですよね。野々村、いつから付き合ってるって言ったっけ?」  先月そのへんを軽く聞いた覚えがあるが、思い出せない。 「今、確か四年とかそれくらい」 「四年? え? 入学してすぐってこと?」 「そうなんだよ。運命の出会いってやつ?」  おちゃらけて笑う野々村を、思わずまじまじと見直してしまいながら、自分と野々村と笹原、そして圭の年齢を考えてみる。  入学直後、十八歳の自分が、大学院生よりもさらに年上の圭と付き合おうと思えただろうか? なかなか高いハードルに思えて、悠也は野々村に感心した。そして、野々村を受け入れた笹原にも。 「どうやって最初の壁を乗り越えたんすか?」  身を乗り出して尋ねると、香苗はわずかに首を傾げた。 「んー……乗り越えたっていうか、乗り越えさせられたっていうか……」  考えるように言葉を選ぶ香苗の隣で、野々村がはっと何かに気付いたように目を見開く。 「デートじゃね? ほら香苗さん、俺がしつこく映画に誘ったじゃないですか」  香苗がわずかに眉尻を下げて笑い、悠也を振り向いた。 「確かに。きっかけはそれかもね。最初は断ってたんだけど、何回もまっすぐ誘ってくれるから、根負けしちゃって」 「そうそう。香苗さん、SF好きだって言ってたから、SF大作の映画に誘ったんですよね!」 「うん。智樹くんがすごく楽しそうだったから、嬉しかったよ」  デート。  その一言が、悠也の頭の中で反響した。  圭と、デート。無意識に避けていた選択肢だった。さりげなく週末の予定を聞いて玉砕したのはつい最近のことだ。  でも、もし。  野々村のように、しつこく、まっすぐに誘ったら? 「職場とか、普段会う場所から離れて、二人きりでぜんぜん違う時間を過ごすのって、大事だと思うよ。そこで初めて、相手のいつもと違う顔が見えたり、自分の素直な気持ちを伝えられたりするから」  香苗の優しい瞳が、悠也を温かく見つめていた。  違う時間を過ごす。  いつもと違う顔。  ――そうだ。俺は今まで、研究室っていう「先生のテリトリー」の中だけでどうにかしようとしてた。だからダメだったんだ。  ――必要なのは、先生をそのテリトリーから引きずり出すことだ。  霧が晴れたように悠也が顔を上げると、野々村が、香苗の空になったカップを自然に自分のトレイに移しているところだった。 「香苗さん、コップもらいますよ」 「あ。ありがとう」  研究室では見られない、野々村の「恋人を自然に気遣う姿」に、悠也は目を丸くする。  なんだか、本当に仲のいいカップルだなと思う。 「二人も、五年目って長いよな。卒業後のこととかも考えてんの?」  ついでに、と他のゴミもトレイにまとめていた野々村が、ぱっと顔を輝かせた。 「そりゃもちろん、香苗さんとずっと一緒にいるよ」  きっぱりと言い切る野々村に、香苗は嬉しそうに目を細めた。 「そうね。でも今は智樹くん一番大事な時期だから。自分の将来を一番に考えてほしいかな」 「前もそう言ってくれたな、香苗さん。わかってる、ちゃんと考えるよ」  悠也の前で見交わす二人の視線は温かい。しかしふと、悠也の胸に小さなざらつきが生まれた。なぜだろう。 「でもまあ、お前も吹っ切れたみたいだな、悠也」  野々村の言葉に、そんな些細な違和感はすぐに消し飛んだ。  やや照れ臭くなりつつ、素直にうなずく。進むべき方向が、今度こそはっきりと見えている。  まず、きっかけを作る。圭が決して断れないような、それでいて、とびきりパーソナルなきっかけ。  ――誕生日だ。  高瀬が教えてくれた、六月十三日。マクスウェルと同じ日。  誕生日プレゼントを渡す、という名目なら。そして、そのついでに、とデートに誘えば。  いや、ついでではなく、それが本命だ。  誕生日プレゼントと、初デート。 「うん。二人のおかげで、やるべきことが見えた。マジでありがとう」  心からの礼を言うと、野々村と香苗は顔を見合わせて、嬉しそうに笑った。  二人と別れた後、悠也は一人、夕暮れのキャンパスを歩き始めた。  胸の中には、新たな決意と、ほんの少しの恐怖が同居している。  ――でも、何もしなきゃ、何も変わらない。  大学のポータルサイトにアクセスし、圭の講義スケジュールを画面に表示させる。 「……水曜、五限終わりか」  動線を予測し、待ち伏せする場所を頭の中に描く。  足を止める。暮れなずむ空を見上げる。ぐっと拳を握る。  作戦開始だ。

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