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Chapter 3 : Scene 3

 決行は、翌週の水曜日。  五限の講義を終えた学生たちが、一斉に教室から吐き出される。夕暮れ前のざわめきの中、悠也は一人、講義棟の出口が見える柱の影で息を潜めていた。  胸の中には、野々村たちと話したことで固まった決意と、それを上回りそうなほどの緊張が渦巻いている。  また、あの冷たい瞳で見られたら? また、無視されたら?  浮かび上がる恐怖を、悠也は奥歯を噛みしめてねじ伏せる。震える指を叱咤するように、ぎゅっと握り込む。  スマホで圭のスケジュールは確認済みだ。この講義が終われば、いつものルートで研究棟へ戻るはず。  数分後。雑踏の中から、見慣れた姿が現れた。  シルバーフレームの眼鏡。ぴしりと伸びた背筋。学生たちの流れに少しも惑わされない、淀みのない歩き方。  ――来た。  心臓が大きく跳ねる。  悠也は深く息を吸い、柱の影から一歩を踏み出した。  学生たちの波をすり抜けるように歩いていた圭の目の前に、まるで壁のように立ちはだかる。  完全に不意を突かれた圭の足が、ぴたりと止まった。その切れ長の瞳が、驚きに見開かれる。いつもの冷静な無表情が崩れ、隠しきれない動揺が走るのを、悠也は見逃さなかった。 「先生」  にっこりと、完璧な笑顔を向ける。圭は何かを言いかけて、しかし言葉を見つけられないように、薄い唇をわずかに開閉させた。  ああ、前にもこんなことがあったな、と悠也は思う。かつて、図書館で、閉架書庫から出てくる圭を待ち伏せした。 「ご相談したいことがあります。少しだけ、お時間よろしいですか?」  有無を言わさぬ口調で、悠也は圭の腕を掴もうとして――寸前で思いとどまり、代わりに手で進むべき方向を示した。  圭は一瞬抵抗するような素振りを見せたが、周囲の学生たちの視線に気づいたのか、諦めたように目を伏せた。  人気のない、古い講義棟の影。ここまで来れば、誰にも聞かれない。  圭はまだ動揺から立ち直れないのか、落ち着かない様子で眼鏡のブリッジを押し上げている。 「六月あたり、二人でどこか出かけませんか」  悠也はまっすぐに圭の目を見つめた。  圭の視線が揺れる。その瞳は、濡れたような光を帯びていた。 「デートしましょう」  圭が、一瞬息を飲んだのが分かった。  あえて、誕生日の日付は避けた。日にちを具体的に指定すれば、「その日は予定が入っている」と、交渉の余地なく断られる可能性が高い。だからあえて「六月あたり」という曖昧な期間で提案する。悠也なりの戦略だ。 「空いてる日、教えてください」 「――……」  沈黙が落ちる。  圭が俯いたせいで、その表情は前髪に遮られて窺えない。ただ、白い指が、持っていた資料の角を神経質に弄んでいるのが見えた。  ――断られる。  その可能性が、悠也の脳裏をひやりとよぎる。心臓が嫌な音を立て始めた。  永遠のようにも思える沈黙の後、消え入りそうな声が届いた。 「……考えておく」  その言葉を耳にした瞬間、悠也の世界に、光が差した。  「無理だ」でも「忙しい」でもない。「考えておく」。  限りなく肯定に近い、保留。  それだけで舞い上がってしまいそうになる。口元が緩むのを必死で堪え、悠也は最後の一押しをすることにした。 「わかりました。じゃあ、LINEでいいんで、都合のいい日、教えてくださいね」  念を押しながら、最高の笑顔になってしまう顔はどうしようもない。  圭は顔を上げないまま、小さく、ほとんど分からないほど小さく、こくりと頷いたように見えた。さらりと揺れた髪の隙間から覗いた白い耳の先が、真っ赤になっていたように見えたのは気のせいだろうか。  胸の奥で鼓動がうるさく脈打つ。先刻までは恐怖だった。今は、歓喜だ。 「じゃ、失礼します!」  落差に眩暈を覚えながら、悠也は踵を返した。  これ以上ここにいては、自分の喜びが爆発して、圭を追い詰めてしまいそうだった。

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