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Chapter 4 : Scene 1

 新緑の匂いが混じる、初夏の風。  爽やかな五月の朝の光の中、圭は、ゆっくりと大学への道を辿っていた。  いつもの無表情を保ってはいるが、正直休息が足りているとは言い難い。どこかうっそりと影を背負ったような足取りで正門を潜る。 『六月あたり、二人でどこか出かけませんか』  もう何度思い返したかわからない、真剣な声が、また耳の奥で蘇る。  思い出すだけで息が詰まった。全身が熱くなる。胸の奥がきゅっと苦しくなる。  あのとき自分がどうやってその場を取り繕ったのか、ほとんど記憶にない。ただ、最終的に自分の口からこぼれ落ちた、情けないほど弱々しい声だけは、やけに鮮明に思い出せた。 『……考えておく』  考えられるわけがない。  嬉しい。その感情は、否定しようもなく圭の胸の中心に居座っている。  秋吉が自分を求め、二人きりの時間を望んでくれた。その事実がもたらす純粋な歓喜は、圭の理性をたやすく麻痺させるほどの威力を持っていた。  しかし、それと同時に、あるいはそれ以上に、強い困惑と恐怖が圭を苛む。  ――二人で、出かける?  ――どこへ? 何をしに?  ――どんな顔で歩けばいい? 何の話をすればいい?  想像するだけで胸が張り裂けそうになる。  ――手を伸ばせば届く距離で、秋吉と、並んで歩く。  どうしようもなく心が躍る。しかし同時に、ひどく恐ろしい。  秋吉の誘いを受けてからもう三日が経っていた。この三日間ずっと、秋吉から無言の圧力を感じているような気がしていた。  なのに圭は、LINEのトーク画面を開いては何もできずに空しく閉じる、その繰り返しだった。焦りが空しく胸を焼く。  ――「恋人」とは、一体どう振る舞うのが正解なのだろうか。  秋吉が、圭に「恋人」としての役割を求めているのは、痛いほど理解していた。研究室で見せる期待に満ちた眼差し。二人きりになろうと様々な口実を作る健気な努力。そして、何度も送られてきた短いメッセージ。  圭は、ブリーフケースの奥にしまったままのスマートフォンを思った。昨夜も結局、電源を切ってしまった。  秋吉が送ってくれた他愛のないメッセージ。給湯スペースに置かれた季節限定のチョコパイが美味しかったこと。論文や講義、ゼミの感想。ランチの誘い、週末の予定。そのひとつひとつに、普通の恋人ならば、もっと気の利いた、甘やかな言葉を返すのだろう。  圭には、その「普通の恋人」がわからなかった。  だから、秋吉からのメッセージにも、どう返すべきか途方に暮れた。  自分なりに考えて返してはみたものの、その返事は到底秋吉の期待に応えるものではなかっただろう。  画面の向こうで秋吉が肩を落とす姿が目に浮かんだが、だからといってどうすれば良いのか、圭にはわからなかった。  そして、決定的だったのは、あのメッセージだ。 『会って話したいです』  そのあまりにまっすぐな要求に、圭は何時間も悩んだ。  ――わたし、も、  その言葉を、何度も入力しようとした。しかし指は動かなかった。「恋人」としての正解がわからない自分に、そう答える資格があるとは思えなかったからだ。  悩みに悩み抜いて、ひねり出した返信。 『研究のことなら、いつでも時間を取る』  圭なりの最大限の歩み寄りだった。秋吉との接点を完全に断ち切りたくはない。その一心で送った言葉だった。  しかし、今思えば、あまりに言葉が足りなかった。  秋吉が求めていたのは「研究」の話ではないことくらい、本当は気づいていたはずなのに。  自分のやり方では秋吉を傷つけるだけだと、あらためて思い知らされた。そしてその自覚が、圭をさらに臆病にさせた。  ――私は、恋人としてふさわしくないのではないか。  そんな不安が募るにつれて、圭の記憶が、あるひとつの言葉に繰り返しつまずくようになった。 『あなた、私のことなんか全然愛してないじゃない』  なぜそんな言葉をぶつけられることになったのか、契機はまったく覚えていない。しかし、かつての妻から詰られたその言葉は、彼女の表情も口調も含めてはっきりと思い出せた。  傷付いたからではない。図星だったからだ。その指摘はあまりにも的確で、一言の反論もできなかった。  何より、言われるまで気づきもしなかった。一度は妻として選んだ女性なのに。  ――私には、秋吉の求める「恋人」としての役割など、到底こなせないかもしれない。  圭は、小さくため息を吐きながら自動ドアをくぐった。頭を振って思考を断ち切る。  始業前の喧騒から切り離された静かな廊下。抜けた先のエレベーターホールでは、既に先客が一人佇んでいた。  圭と似たような堅苦しいスーツ姿。その顔を見て、圭は反射的にその場を離れたくなった。 「おはよう。藤堂くん」 「……おはようございます」  松原教授。圭と同じ理学部物理学科の教授。無論、圭よりもはるかにキャリアは長い。  元は秋吉の指導教官だったが、その優秀さに嫉妬して秋吉を追い詰めた。圭が秋吉と深く関わるようになったのは、昨年の夏、松原のフォローもなく一人苦しんでいた秋吉を偶然見つけたことが契機だった。  そしてその結果、今、秋吉は圭の研究室に所属している。あまり他者の感情に注意を払わない圭でも、松原から見て面白くない状況だろうという想像はついた。  あまり関わり合いになりたくはない。離れた位置で沈黙していると、エレベーターの階数表示を見上げたまま、松原が口を開いた。 「秋吉は元気でやっているかね」 「はい。病気や怪我はしていません」  無表情で答える。松原がむっとしたように沈黙したのがわかる。事実を言っただけなのになんだその反応は、と、無表情の下で圭もむっとする。 「まあ、君の下でのびのびやれているようで、何よりだ」 「――……」  返事を必要としているとは思わなかったので、無言を返す。階数表示の数字がひとつずつ下がってくる。 「……君なら心配ないとは思うがね。学生との距離感は、間違えないようにな」  胸の奥をざらりとした何かが掠める。理由はわからないが、不吉な口調だった。  松原へ視線を向ける。圭の視線に気付いているだろうに、その横顔は、相変わらず階数表示を見上げている。 「どういう意味ですか?」  平坦な声だったが、いつもより硬い響きがあった。  松原がゆっくりと圭へ視線を向ける。 「深い意味はないさ。一時の感情で特定の学生に過度に肩入れをするのは、指導教員として望ましくない。そう言っただけだ」  どく、と、圭の胸の奥で鼓動が不吉に脈打つ。呼吸が浅くなったことを自覚し、ブリーフケースを持つ手に力を込める。  チン、とエレベーターの到着を知らせる音が響いた。無人のエレベーターへ松原が乗り込む。圭も続いて入ろうとして、なぜか足が動かない。  ――動揺しているのか。まさか。  つまずきそうになりながら、箱の中へ入った。 「ご忠告、痛み入ります」  乾いた声で答える。ふん、と小さく鼻を鳴らし、それ以上松原は何も言わなかった。

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