10 / 33
Chapter 4 : Scene 2
三階の学部事務室は、まだ始業前らしくほぼ無人だった。
先日提出した経費申請の件で、担当の職員と二言三言、言葉を交わす。最後に、学内で行われる合同研究発表会のチラシを「研究室で配布してください」と押し付けられた。面倒だなと思いつつ受け取り、踵を返そうとした、そのとき。
「あ、藤堂先生」
隣のカウンターから名を呼ばれ、振り返る。事務職員の笹原香苗だった。圭よりもこの大学での勤務歴は長く、圭自身も就職時から何くれとなく世話になっていた。
「笹原さん。おはようございます」
「おはようございます。すみません、お見かけしたのでついお声かけちゃいました。少しだけお時間大丈夫ですか?」
「かまいません。何か?」
招かれるまま、彼女の席へ歩く。笹原がデスクの上に資料を広げようとした。
「先日ご依頼いただいたコピーなんですけど、――」
「香苗さーん、おはよー!」
笹原の声に、明るい男の声が重なった。聞き覚えのある声。視線を向けると、カウンター越しに野々村の笑顔が見えた。
圭の位置はちょうど野々村からは死角になっているらしい。野々村はこちらに気づかず、笹原にだけ満面の笑みを向けている。
「今日、昼メシどうする? 俺、午後イチの講義まで暇だからさ、駅前まで行かね?」
あまりにもプライベートな口ぶりに、圭の思考がわずかに停止する。野々村は、藤堂研究室に所属する大学四年生だ。対して笹原は、大学の事務職員。立場が違う。距離感も、会話の内容も、不自然だった。
笹原が慌てて野々村に目配せをする。そこでようやく柱の影に立つ圭の存在に気づいたらしい。野々村の顔から満面の笑みがかき消え、見る見るうちに青ざめていく。
「と、藤堂先生……! お、おはようございます…!」
「……おはよう」
ばつが悪そうに縮こまる野々村と、顔を赤らめて俯く笹原。人の気持ちに疎い圭でも、二人の間に何かあることをなんとなく察してしまう。
「その……、えと、実は、俺ら、付き合ってまして」
野々村が、蚊の鳴くような声で告白する。
無表情の下で圭は困惑した。そんなことを言われても、と思う。応援するのも反対するのも、指導教員として出過ぎている。
結局圭は、無表情に「そうか」とだけ返した。すると今度は笹原が、その圭の反応をどう解釈したのか、顔を上げて必死に訴えてきた。
「だ、大丈夫です! 野々村くんの研究の邪魔は、絶対にしませんので!」
研究の邪魔。その言葉が、圭の胸に小さな棘のように引っかかった。恋愛感情は、研究を遂行する上で障害にしかならない。一年前の圭なら、迷わず断言していたはずだ。
それなのに今は、そう言い切ることがためらわれた。その変化に、圭は、抜けない棘のようなかすかな苛立ちを覚える。
「わかっています。野々村は優秀な学生ですから」
無表情のまま答えると、二人が顔を見合わせた。嬉しそうに笑い合う様子を、まぶしいな、と思う。
「あ、俺もう行かなきゃ。悠也に席取ってもらってんだった」
野々村が、この場から逃げるように話題を変えた。
「次、秋吉くんと一緒なの?」
「うん。数演。403教室」
「ちょうど良かった」
二人のやりとりを聞いて、圭は、先ほど受け取ったチラシを野々村に差し出した。
「秋吉にもこれを渡しておいてくれ」
「悠也にですね? わかりました」
自然な野々村の返事を聞いて、なぜか圭の胸の奥が、もや、とした。「悠也」と自然に返されたその口調が――うらやましい?
「でも悠也、怒るかもな。『何でお前が先生から預かってんだよ』とか言われそう」
悪戯っぽく笑う野々村の隣で、笹原が不思議そうに首を傾げた。
「そうなの? なんで?」
「あいつ、藤堂先生大好きだからさ。春先なんか、講義動画のアーカイブ何周もしてたって」
圭は驚きで目を瞠った。初耳だ。
笹原はそんな圭に視線を向けた後、柔らかく笑う。
「そっか、だからか。最近の秋吉くん楽しそうだもんね」
「それそれ。研究室も明るくなったって先輩が言ってた」
「先生も、なんだか雰囲気が柔らかくなったかも」
予想外に話を向けられ、圭は密かに動揺した。どう答えればいいのかわからず、軽く視線を下げて眼鏡のブリッジを指先で押し上げる。
「あ! マジやばい! ――先生、失礼します! 香苗さん、また後で!」
反応に窮している圭に構わず、野々村が大声を上げた。挨拶もそこそこに二人に向けて手を振り、慌ただしく駆け出していく。
「ホントに元気ですね」
呆気にとられて見送っていたが、くすくす笑う笹原の声で我に返る。
笹原は、圭にちらりと視線を向け、手の中の資料を改めてデスクへ並べ始めた。
「それで、さっき言いかけた続きです。この資料のコピーなんですけど――」
自然に話題を転換してくれた気遣いに密かに感謝しつつ、圭は、仕事へと頭を切り替えることにした。
ともだちにシェアしよう!

