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Chapter 4 : Scene 3

 夜。  自宅へ帰る道すがら、圭は、朝方に聞いた言葉を反芻していた。 『一時の感情で特定の学生に過度に肩入れをするのは、指導教員として望ましくない』 『雰囲気が、柔らかくなった』  意味も内容も、表面上は共通点はない。しかし圭には、そのふたつの言葉の根底に、同じひとつの種が埋まっていることを知っていた。  ――秋吉。  その名を胸に呟くだけで、あたたかな何かが胸の裡をくすぐる。  研究室で秋吉と日常的に共に過ごすようになってから、ひと月が経過していた。そして今朝方、松原と笹原それぞれから向けられた言葉は、そのひと月の間の変化を言い当てられているような気がした。  まさか。  ぞくり、と背筋に氷を滑らされたような悪寒が走る。足が止まりそうになる。  ――秋吉との関係に、気づかれているのか?  いつものリズムでアスファルトを踏む靴の音を響かせながら、深く息を吸って、吐く。最近すっかり深呼吸が癖付いている。  ――いや、待て。落ち着け、藤堂圭。  松原が口にしたのは、ただの一般論だ。笹原の言葉は、野々村とのやりとりを目にした時の言葉だ。そこから、二人が圭と秋吉の関係に気づいている、などという結論にまで至るには、あまりに論理が飛躍しすぎている。証拠不十分だ。  ただ、安心するわけにはいかない。  何より、誰よりも圭自身が自覚している。秋吉を意識したときの、自らの制御不能な反応を。  そう、今も。  ――秋吉、悠也。  強く跳ねる鼓動。こうしてただその名を思い出すだけで、顔どころか全身が熱くなる。  真剣に画面を見ている横顔。他の学生と楽しそうに会話をしている快活な声。圭を見つめるひたむきな熱い瞳。  思い出すだけで思考が乱れる。集中できなくなる。研究室でその気配を感じるだけで視線が向いてしまう。――ずっと、見つめていたい。  そんな邪な感情に蓋をして、無表情で平常心を取り繕うことに、毎日どれほどエネルギーを使っているだろう。  そうして何とか取り繕えても、先日待ち伏せされたように不意を突かれれば、平常心の鎧などいとも簡単に崩れてしまう。  ――そうだ。返事をしなければ。  ――『二人でどこか出かけませんか』。あのまっすぐな言葉に、どう応えるのが正解だ?  ――歩いてみたい。秋吉と二人で。どこでもいいから。  ――私にその資格があるのか? 恋人としての正しいふるまいを知らない私が?  ――でももう三日も待たせている。これ以上、彼を傷つけたくない。  ――しかし指導教員として、節度を保った関係を保たなければ。  ――節度。恋人として適切な「節度」とは? そもそも本当にこの選択は――  駄目だ。  圭は、目を閉じ、大きく、深く、息を吸った。冷たい夜気が、肺腑にしみわたる。  駄目だ。論理が破綻している。感情に振り回されて客観的な判断ができていない。これでは、何も解明できない。  幾度目かの深呼吸をしながら、圭はゆっくりと瞳を開いた。 「まず、データを取る」  声に出す。五感を使ったアウトプットは、思考の整理に有用だ。  止まっていた足を再び動かす。規則正しい靴音。  まず、秋吉と二人きりの状況下において、自らの感情がどの程度コントロール可能なのかを確かめなければならない。制御不能な感情は、一体どのくらい外部に漏れ出てしまうのか。再現性のある避けられない事象なのか。その状況がもたらす感情の振れ幅は、圭の許容範囲(エラーバー)の内側にあるのか、外側にあるのか。 「そして、検証する」  観測で得られた結果が圭の許容範囲を超えるとしたら、二人の関係は、互いの人生や将来にとって、無視できない「危険因子」となる可能性が高い。  ――では、「危険因子」だと結論付けられたらどうする?  再び、圭は足を止めた。  街灯に照らされた夜道。人気のない、初夏の過ごしやすい夜気が頬に触れる。暗い夜道を瞳に映し、暫し圭は呼吸を止めていた。 「……仮定に仮定を重ねるべきではない」  声が、かすかに喉に絡んだ。  まだその先を考える時ではない。今はまだ、客観的なデータをひとつでも多く収集することに集中すべきだ。  結論が出た。進むべき道筋が見えた。  圭は、ブリーフケースからスマートフォンを取り出した。迷いのない手つきで操作する。トーク画面ではなく通話履歴を開き、一番上にある名前を躊躇なくタップした。  数回のコールの後、スピーカーの向こうから、動揺と期待が入り混じった弾むような声が聞こえてきた。 『せ、先生!?』 「藤堂だ」  できる限り事務的な平坦な声の出し方は、秋吉と話すときにいつの間にか癖付いたものだ。ただ普通に話をするだけなのに、みっともなく声が上ずるなど、指導者としても研究者としてもあってはならない。 「この前の件だが」  息を飲む気配が、電話越しにも痛いほど伝わってくる。 『……は、はい』  返る声は緊張で掠れていた。スマートフォンの向こうで固唾をのんで次の言葉を待つ、張り詰めた緊張が伝わってくる。  圭は、一瞬だけ言葉を区切った。小さく喉仏が上下する。 「提案を受ける。――『デート』に行こう」  無機質な声で実験開始を宣言しながら、圭の瞳は冴え冴えと冷たい光を浮かべていた。

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