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Chapter 5 : Scene 1
六月十三日、日曜日。十三時十五分。
悠也は、待ち合わせ場所である駅のコンコース、大きなステンドグラスの前に、少しだけ緊張した面持ちで立っていた。
早めに着いたのは言うまでもなかった。恋人を待たせるなんて、万が一にもあってはならない。
どきどきと高鳴る自分の鼓動を聞きながら、行き交う人々の波を眺める。家族連れ、友人同士、そして、恋人たち。誰もが楽しそうで、街全体が幸福な空気に満ちているように見えた。
悠也も気を抜けばへらへらと締まりなく笑い出しそうで、意識してきりっと背筋を伸ばす。しかしすぐまた表情筋が緩みそうになる。
無理もない。初めての、恋人との「デート」の日だ。
すべての始まりは、約二週間前の夜。
三日間の沈黙を破ってかかってきた電話越しの声は、いつもどおり体温を感じさせない平坦なものだった。
『提案を受ける。――『デート』に行こう』
その言葉を耳にした瞬間、世界がまばゆい光に包まれた。喜びのあまり、危うくスマートフォンを落としそうになった。
「ほ、ホントですか!? いつにします!?」
『いつ? ――そうか。日付を決める必要があるのか』
ややがくりと脱力しそうになったが、すぐに気を取り直した。
「先生、忙しいでしょ。合わせますよ」
『希望の曜日はあるのか?』
「曜日っていうか、もし先生が空いてたら、ですけど。……六月十三日、とか、どうです?」
密かにどきどきしながら、高瀬から事前に聞き出していた日付――圭の誕生日を告げてみた。
すると、電話の向こうから、ほんの少しだけ息を詰める気配が伝わった。
『……わかった。その日でいい』
「やった!」
思わず叫ぶと、「ただし、午前中は予定がある。午後からでもいいか」と、条件が付け加えられた。もちろん喜んで了承した。
ランチを各自で済ませてから十三時半に駅前で、という具体的な約束を取り付けた時には、悠也はもう、人生のすべての運を使い果たしたような気分だった。
結局、圭がその日をどういう日だと認識しているのか確認はしていない。気づいているだろうが、もし忘れているならそれでも良かった。サプライズにする絶好の口実ができるからだ。
あと、十五分。
スマートフォンを取り出して時間を確認するたび、心臓が大きく脈打つ。落ち着かない。研究発表前の緊張とはまた違う、もっと個人的で甘やかな高揚感。
準備は抜かりない。今日のプランは、電話が終わった直後から昨日の夜まで、何度も練り直しシミュレーションを重ねた。
服装も、いつも大学に着て行っている適当なプリントTシャツ&デニムではない。
ネイビーの半袖ニットにグレーのパンツ、同色のスエードスニーカーを合わせた、きれいめのコーディネート。何度も鏡の前で試着を繰り返し、野々村にまで写真を送って「オシャレじゃん。年上カノジョとだな?」と速攻で見破られた――いや、カノジョではないが――渾身の勝負服だ。
そして、斜め掛けメッセンジャーバッグの中の、丁寧にラッピングされた細長い箱。
「初デート」を思いついて以来、ずっとプレゼントのことばかり考えていた。悩みに悩んでようやく見つけた、最高の贈り物。
喜んでくれる顔を想像するだけで、また心臓がうるさくなる。顔がにやけてくる。
――落ち着け、俺。
深呼吸を繰り返し、少しでも冷静さを取り繕おうと努力しているうち、視界の端に見慣れた人影を捉えた。
――来た。
心臓が、口から飛び出しそうだった。
雑踏の中から迷いのない足取りでこちらへ向かってくる、ぴしっと背筋を伸ばしたいつもの姿勢。いつものシルバーフレームの眼鏡。
しかしその姿は、悠也の知っているいつものそれとは少し違った。
服装は、洗いざらしのような白のオックスフォードシャツに、チャコールグレーのカーディガンをラフに羽織り、黒のスラックスというシンプルな装い。大学で毎日目にしているものとほとんど変わらない。
ただ、髪が、違っていた。
きちんと整えられて寸分の乱れもない普段とは違う、何もしていないナチュラルな髪。さらさらの黒髪が、風が吹くたびに無防備にやわらかく揺れている。
――プライベート、なんだ。
頼りないほどの自然さが悠也の心臓を締め付けた。
そのまま声をかけることも忘れて見惚れていると、圭のほうが悠也を発見したらしく、ぴたりと足を止めた。その切れ長の瞳がほんのわずかに見開かれる。
すぐにいつもの無表情に戻ってしまったが、圭もまた悠也の私服姿に少しだけ驚いたのだ、と勝手に解釈して、悠也は胸を高鳴らせた。
「……待たせたか」
ようやく絞り出したような、低い声。
「いえ! 俺が早く来すぎただけなんで!」
慌ててとびきりの笑顔で返す。内心の興奮を悟られまいと必死だったが、きっと顔は真っ赤になっているに違いない。
「――そうか」
圭は、悠也の笑顔を正面から受け止めると、ふい、と視線を逸らした。その仕草だけで心臓がまた跳ねる。白い耳の先が、気のせいか、ほんのりと色づいているように見えた。
――ああ、反則だ。かっこいい。かわいい。きれい。好き。
溢れ出しそうになる感情を、ぐっと飲み込む。
「それじゃ、行きましょうか」
隣に並ぶように一歩踏み出す。
並ぶ横顔はいつも通りの無表情。しかし、スーツという鎧を脱いだ恋人の隣に立つだけで、心臓が特別なリズムを刻み始める。
――この人は、今、ちゃんと俺とのデートに来てくれている。
その事実だけで、何もかもが報われたような気がした。
「目的地は決めているのか?」
圭の問いに、悠也は悪戯っぽく笑いながら、今日のプランを弾む声で告げた。
「はい。行きましょ、先生。科学館!」
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