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Chapter 5 : Scene 2
目指す科学館は、駅から少し歩いた緑豊かな公園の中にあった。都心の大型の科学館とは違い、そこそこ賑わってはいるが大混雑というほどではない。親子連れや学生グループの賑やかな声も、今の悠也にとっては心地よいBGMのように聞こえた。
圭は、悠也の少し斜め後ろを、つかず離れずの距離でついてくる。その横顔はまだ少し硬い。たぶん自分も似たような表情なんだろうな、と悠也は、自動ドアに映る自分の顔をさりげなくチェックした。
「先生、こういうところ、来たりします?」
「いや、学生の時以来だ。ずいぶん久しぶりだな」
「俺もです。なんか、童心に返るっていうか、ワクワクしますよね」
「……そうだな」
答える声がいつもよりほんの少しだけやわらかい。それだけで緩みそうになる顔を懸命に引き締めつつ、入場券売り場へ向かう。
当然のように二人分払おうとすると、それは止められた。
「教え子に奢らせる教員はいない。スマホをしまえ」
「いや今日は俺がプラン立てたんで!」
「それとこれとは別の話だ」
「えー。でもデートって普通そういうもんでしょ?」
「……秋吉の『普通』は、私には難しい」
ぽつりと零れた言葉そのものより、その声の複雑な響きに驚いた一瞬の隙に、圭はさっさと支払いを終えていた。ほら、と渡されたチケットを、礼を言いつつ不承不承受け取る。
エントランスホールに進むと、巨大な恐竜の骨格標本が、荘厳な照明の下で入場者を威嚇していた。
「うっわ、でっか!」
ティラノサウルスの全身骨格を見上げ、悠也は素直な感嘆の声を漏らした。隣に立つ圭も、声こそ出さないものの、悠也と似たり寄ったりの表情だ。その切れ長の瞳は、純粋な好奇心の色を帯びているように見えた。
「レプリカだろうが、よくできているな。特にこの大腿骨の構造。力学的に見て非常に効率的だ。最小限の質量でこれだけの巨体を支えるための、最適な解の一つと言える」
始まった。研究室で時々聞く、テンションが上がっているときの早口。悠也は内心でガッツポーズをした。
「恐竜の骨格って、現代にもいろいろ応用されてるって聞いたことあります」
「ロボットや建築の構造だな。バレンシアの科学博物館が有名だ」
楽しそうにうなずく圭を、自然にエスコートしながら中へ進んだ。
最初は「地球と生命の進化」のフロア。巨大なアンモナイトの化石や恐竜の模型が、薄暗い照明の中で整然とディスプレイされていた。
ひとつひとつ圭はしっかりと足を止め、展示品をじっくりと眺めた後、細かいところまで文章を熟読している。眼鏡の奥の瞳は、悠也ももう知っている、「きらきら」と光を湛えた瞳だった。
「先生、恐竜とか化石も好きなんですか?」
「あまり詳しくはない。でも、こういう展示を見ると惚れ惚れする」
圭が向けた視線の先には、様々な哺乳類の前肢の骨格模型が並んでいた。
「全部、もとは同じパーツでできてるんですね」
「ああ。同じ構造からここまで多様な機能が生まれている」
悠也の言葉にうなずきながら、圭は飽くことなく模型を眺めている。その瞳は、どこか恍惚とすらしていた。
「自然は恐ろしく洗練されている。――実に見事だ」
――めちゃくちゃ楽しそうだな、先生。
ガラスケースに触れんばかりに顔を寄せて、模型を、説明文を、じっくり堪能している。その横顔は、圭の向こうで同じ展示を見ている小学生ぐらいの男の子と同じ表情だ――そう言ったら気を悪くするだろうか、と思いつつ、密かに笑いをかみ殺す。
さりげなく、半歩、いや、四分の一歩だけ圭と距離を詰めながら、ふと思ったことを口にした。
「ホントすごいですね。自然って、すごい倹約家で、しかもめちゃくちゃ頭いいエンジニアみたいだ」
圭が、ほんの少しだけ目を見開いて悠也を振り向いた。二人の距離が少しだけ近付いたことには気付いていない。
「面白い喩え方だ」
悠也の発言に、圭のアンテナが反応した瞬間の表情。悠也の心臓が、とくん、と心地よい音を立てる。
見つめ合ったまま、しばし言葉を失った。圭の瞳が見開かれかけたとき、
「どうぞ。本日の来館者様限定の特別プレゼントです」
スタッフのユニフォームを着た女性が、横から小さなキーホルダーを差し出していた。いくつかのデフォルメされた恐竜が描かれた愛らしいデザインだ。
「いや、私は」
困惑して断ろうとする圭の横から、悠也はさっと手を伸ばした。
「ありがとうございます、いただきます」
スタッフに笑顔を向け、改めて手の中のキーホルダーに視線を落とす。
「すげ、ティラノにプテラノドン、アロサウルス、……これモササウルスかな?」
「恐竜が好きなのか?」
視線を上げると、圭が目を丸くしていた。照れ臭くなり、慌ててキーホルダーをバッグの金具に付ける。
「子どもの頃、好きでした。――や、これもらったのは別に恐竜好きだからじゃないですよ?」
カラビナにくっつけたキーホルダーは、シンプルなバッグに似合っているとは言えなかったが、そのアンバランスさが逆にいい味を出して見えた。
「今日の記念です。初デート記念日」
悠也がそう言って笑うと、圭は一瞬きょとんとした顔をしてから、うろたえたように視線を揺らした。先刻まで冴え渡るように知的な光を湛えていた瞳に涙の膜が張り、目元がうっすら赤くなっている。
――かわいい。
研究室では決して見られない顔だ、と悠也は満足げに眺める。最終的に俯いてしまった圭の背にそっと触れ、行きましょう、と促した。
次に二人が足を向けたのは、「宇宙の科学」と題されたエリアだった。
フロア全体が深い藍色で統一され、足元には銀河を模した光の粒が瞬いている。中央には、太陽系の惑星たちの模型が、ゆっくりと公転していた。
「すっげ。キレー……」
幻想的な空間に、悠也は思わず息を飲む。
「先生、見てください。太陽、でかいなあ」
「太陽系の質量の99%以上を太陽が占めているからな。木星も含めて、惑星なんて誤差のようなものだ」
「誤差かー。俺ら、誤差の上で毎日四苦八苦してるんすね」
「そういうことだな」
悠也の言い方が可笑しかったのか、圭の表情が柔らかく綻ぶ。
――笑った。
見たことのない笑い方だった。胸がきゅっと甘く締め付けられる。なぜか慌てて模型に視線を戻す。頬が熱い。
そんな悠也の様子にはまったく気付かず、圭は、宇宙空間を意識しているらしい天井のデザインを「きらきら」と見上げている。
「そもそも、宇宙の質量のほとんどは、まだ人間には観測できないもので満たされている」
「ダークマターですね。結局、正体は何なんだろ」
「それが分かればノーベル賞ものだな。我々に見えているのは全体の5%程度。残りは全て未知の物質だ」
「なんか、人間の心みたいですね」
思いついたことを口にすると、圭が振り向くのが分かった。視線を合わせる。
「表に出てる感情なんてほんの一部で、その人の内側には見えない想いがたくさん詰まってる、みたいな」
一瞬、瞬いた後、圭は改まって身体を悠也の方へ向け直した。
「……興味深い視点だ」
きらきらとした瞳の光はそのまま、表情はひどく真面目だった。
「秋吉は本当に、柔らかい発想をする」
「そっすか? うれしいです」
研究室でもここまで真正面から褒められることは滅多にない。嬉しさのまま自然と笑みを零しながら、次へ進もうとして――圭の視線が、まだ自分を見つめていることに気づいて動きを止めた。
鼓動が高鳴る。視線が絡んだまま、また、わずかに沈黙が降りる。
「行くぞ」
ふい、と、圭が視線を外して歩き出した。
次の展示へ向かいながら、圭の視線がふと横に逸れる。フロアの隅にある大きな銀色のドア、「プラネタリウム入り口」と表示されたプレート。興味深そうに眺めながら、圭の足取りがわずかに緩やかになる。
――よし、狙いどおりだ。
もちろんプラネタリウムの上映時間はしっかりリサーチ済みだ。
「プラネタリウム、好きですか?」
圭が悠也を振り向いた。ややばつが悪かったのか、ほんの少し目元が赤くなっている。
「昔、好きだった」
「良かった。じゃあ、行きましょ」
二枚のチケットを取り出すと、圭の目の前で、ひらりとさせてみせた。
「ちょうどいい時間のやつ取っておいたんです」
「いつの間に買ったんだ……?」
「この間、下見に来た時に。プラネタリウムは当日枠すぐ埋まるって聞いたんで」
圭の目が、驚きにわずかに見開かれる。何か反論しようとしたのか薄い唇が小さく開いたが、結局何も言わず、観念したように小さな溜め息をひとつついた。
「……抜かりないな、秋吉は」
「これぐらいはいいでしょ?」
差し出された白い掌にそっとチケットを載せると、シルバーフレームの奥の瞳が、悠也を静かに見詰めた。
「ありがとう」
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