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Chapter 5 : Scene 3
プラネタリウムのドーム内は、宇宙を思わせる深い静寂に包まれていた。上映開始を待つ人々のひそやかな話し声だけが、ドームの高い天井に吸い込まれていく。
悠也は、隣の席に座る圭の横顔を、盗み見るでもなく自然に視界に入れていた。
近い。
科学館の展示を見ていた時とは、比べ物にならないほどの距離。ひじ掛けを共有し、肩と肩が触れ合うか触れ合わないかのもどかしい隙間しかない。圭のまとう清潔なシャツの香りが、悠也の感覚をじわじわと侵食してくる。心臓が、さっきからずっと落ち着きなく跳ねている。
ふかふかと心地よいリクライニングシートに身を預けながら、悠也は、なんとか平静を装ってプログラムのパンフレットに目を落とした。
「へえ、『宇宙のハイウェイ、光と重力』か。面白そうっすね」
「……ああ」
圭からの返事は短く、どこか上の空だった。展示を見ていた時のリラックスした雰囲気はすっかり消え失せ、その横顔には再び硬質な仮面が貼り付いている。
しかしその仮面の存在を認識しても、今は不思議と不安はなかった。むしろ、胸の奥が期待で温かくなる。
――緊張、してる?
この距離の近さ。体温や呼吸まで伝わってしまいそうな、今日一番の近さ。ひょっとしたら圭も、悠也と同じように緊張しているのかもしれない。だとしたら。
――それって、俺のこと、ちゃんと意識してくれてるってこと……だよな?
その可能性に行き着いた途端、口元がだらしなく緩みそうになる。まだ上映前で、薄暗いが照明は点いているので、慌てて表情を引き締めた。
やがて、場内アナウンスが流れ、照明がゆっくりと落ちていく。完全な闇が訪れてひと呼吸置いた後、ドームの天頂に、吸い込まれるような満天の星が広がった。あちこちから小さな感嘆の溜め息が漏れる。
悠也も、その圧倒的な光景に一瞬我を忘れた。ナレーターの穏やかな声が、星々の成り立ちや銀河の構造について語り始める。
しかし数分もすると、悠也の意識は、すぐ隣に座るたった一人へ集中した。
視線だけをそろりと動かして盗み見る。
圭は、身じろぎもせずスクリーンを見上げていた。暗闇に目が慣れてくると、その端正なシルエットがぼんやりと浮かび上がってきた。
整った横顔、生真面目にきゅっと引き結ばれた唇。ガラス玉のようにきらめく切れ長の瞳。シルバーフレームが星々の光を不規則に弾く。
――きれいだ。
その顔色は、やけに白く見えた。暗いからだろうか。いや、それだけではない。精巧な石膏像か何かのように完璧すぎるほど整っている。その非現実的な美しさに、悠也は完全に心を奪われていた。
ナレーションが、重力と引力の話に移る。頭上のスクリーンが大きく回転するように動いて、星々が頭上でゆっくりと弧を描くように流れはじめた。
――いける、かな。
心臓の音が周囲に聞こえてしまいそうだった。悠也の視線は今や、スクリーンどころか、圭の横顔どころか、更にその下方――圭の膝の上に生真面目に置かれている、白い左手だけを窺っている。
――だめ、かな。
ひじ掛けを越えて手を伸ばすのは、さすがにやりすぎかもしれない。もっと自然なタイミングを待った方がいいか。
上映そっちのけで逡巡していると、ふと、悠也の視線の先で、先刻から狙っている圭の左手が緩く動いた。まるで何かに縋るように、境界線に――ひじ掛けに、白い指が絡む。きゅ、と木製の滑らかなそこを掴む指先の動きすら鮮明に見て取れた。
鼓動が跳ねた。期待で頬に熱が昇る。
――ひょっとして、待ってくれてる?
悠也にとってその動きは天啓に等しかった。
自分の右手を、圭の左手の指先へと伸ばす。そっと。驚かせないように静かに。
触れ合った瞬間。びくっ、と。
圭の手が、まるで感電したかのように、大きく跳ねた。
まずい、やりすぎたか。そう思った悠也が手を引こうとする。
しかし圭の手は逃げようとはしなかった。硬直したまま、ただそこに在る。
嫌なら手を退けるはず。
――いける!
その事実が悠也の背中を強く押した。
今度はもっと大胆に、白い手の甲を自分の手のひらでそっと包み込む。ひやり、と、悠也より低い体温が伝わる。
一瞬、重ねた手が強張った。しかし次の瞬間には、ふっ、と、糸が切れたように、その力が完全に抜け落ちた。まるで、悠也の手にすべてゆだねることを決めたかのように。
悠也の胸が歓喜でいっぱいになる。壊れ物を扱うように、それでいて決して離さないという意志を込めて、その手をしっかりと包み込んだ。
視線はスクリーンに向け、平静を装うのに全神経を集中させる。もちろん上映内容などこれっぽっちも頭に入ってない。
異常に速い脈拍が、掌に包んだ圭の手に伝わってしまうかもしれない、そんな心配をしていたそのとき。
悠也の右肩に、ぽす、と、何か温かいものが凭れた。
――え。
一瞬、何が起きたか分からなかった。
視線だけをゆっくりと右に向ける。限界まで悠也の瞳が瞠られる。声を上げなかった自分を褒めたかった。
圭が。
あの、藤堂圭が。
悠也の肩にくたりと頭を預けていた。
悠也の思考は、完全に停止した。
――え、え、え、何これ!?
心臓が、爆発しそうだった。一気に頬と頭に熱が昇る。
そうなったらいいなと夢想していた光景。しかしまさか現実になるとは。
――確かに周りは真っ暗だけど……! 先生、意外と大胆……!!
悠也の掌の中で、圭の手は相変わらず脱力して悠也にゆだねたままだ。
興奮と、ときめきと、どうしようもないほどの愛おしさ。ぐちゃぐちゃになって胸の中で渦を巻く。
息がかかるほど近くに、さらさらの髪があった。
触れたい。指先で梳いてみたい――そんな衝動に駆られたが、悠也は、奥歯を噛みしめて必死に耐えた。この奇跡の時間を、ほんの一秒でも長くこのままにしておきたかったからだ。
しかし現実の時間は容赦なく過ぎていく。
やがて、壮大な音楽と共にプラネタリウムの上映が終わった。
満天の星がゆっくりと消え、ドーム内に、徐々に薄明かりが戻り始める。あちこちで、人々が身じろぎをしたり、ひそやかな話し声が聞こえ始める。
それでも、悠也の肩にかかる重みはぴくりとも動かなかった。
最初は、ただ照れていて起き上がれないだけなのだろうと微笑ましく思っていた。ただ、本格的に人が立ち上がり始めても、圭はまったく動こうとしない。
さすがに悠也も不審に思い始めた。
「……先生?」
そっと、声をかけてみる。返事はない。
「先生、終わりましたよ」
もう一度、今度は少しだけ、肩を揺すってみる。
その瞬間だった。
圭の頭が、くらりと揺れた。まるで糸が切れたようにがくりと倒れ、白い首筋と顎の線が無防備にさらされる。
固く瞳を閉じたまま、眉はきつく寄せられ、薄い唇は蒼白で——血の気が、完全に失せていた。
意識が、ない。
「……え」
一瞬、硬直した。何が起きているのか、理解できなかった。
理解した直後、心臓が跳ね、背筋に冷たい汗が滲んだ。
「先生!? しっかりしてください!」
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