15 / 33
Chapter 6 : Scene 1
担架を呼ばれそうになったが、それだけは阻止した。
圭は、行き交う親子連れや若いカップルをぼんやりと眺めながら、壁沿いに並んだベンチにぐったりと腰を下ろしていた。
――なんという失態だ。
背後の壁にだらしなく凭れたまま、内心で自分を罵倒する。
完全に油断していた。科学館の展示が楽しすぎたせいだ。
いや——正確には、秋吉と一緒にいるのが楽しすぎた。
子ども向けの平易な展示でも、秋吉と眺めれば圭の知的な好奇心を満たす刺激的なやりとりが生まれる。圭が思い浮かんだままに言葉を並べれば、秋吉は子どもでもわかるような、それでいて的確な、圭には決して思いつかない発想で返してくる。その頭の回転の速さ、知性のきらめきは、今まで圭が感じたことのない高揚と充実をもたらした。
そして何より——秋吉が隣で笑うたびに、圭の胸の奥底で頑なな何かが音もなく解けていくような、甘やかな感覚。
だから完全に警戒を忘れた。
これなら大丈夫、普通に楽しんで一日を終えることができる――そんな甘い希望的観測に、一瞬でも身を委ねてしまった。
結果、このデートが「実験」だという最も重要な前提をうっかり忘れかけた。
そのツケは、すぐにやってきた。
「今すぐ帰りたい」――プラネタリウムの座席を見た瞬間、そんな言葉が脳裏を過ぎったが、事前に下見までしてわざわざチケットを準備してくれた秋吉の輝かんばかりの笑顔を前に、そんな無慈悲なことは言えなかった。
観念し、覚悟を決めて隣り合って座った。その瞬間から、圭にとって深刻な戦いが始まった。
近すぎた。
研究室の個別ミーティングでも、あれほど近くで秋吉を感じることはなかった。
わずかな身動きも、感嘆したように漏れる吐息の気配も、隔てているはずの体温すら、すべて鮮明に圭の五感が拾い上げる。
上映内容などこれっぽっちも頭に入らないのに、視界に映る全天型のスクリーンからの情報のせいで、平衡感覚までおかしくなった。自分の身体がぐるぐる回転しているような錯覚に、たまらず縋るようにひじ掛けを掴んだ。
すると。
忘れもしない。左手を包んだ、あたたかな、掌。
最初は何が起きているのかわからなかった。
秋吉の掌だ、と気づいた瞬間――手をつないでいるのだと自覚した瞬間、すべてのリミッターが爆発するように弾け飛んだ。よく悲鳴をあげなかったものだと思う。
驚愕、喜び、恐怖、ときめき、罪悪感、昂揚、興奮。
そのほか名前の付くものも付かないものも含めたありとあらゆる感情が、一気に圭の中に流れ込んできて――そして情けないことに、そこから先の記憶は途切れている。
「先生?」
は、と我に返った。
視界に映ったのは、差し出されたミネラルウォーターのペットボトルだ。
「大丈夫ですか? 飲めそうです?」
「……ありがとう」
のそり、と身を起こし、ペットボトルを受け取る。ぐらぐらと回転するように揺れ続けていた視界は、ようやく落ち着きを取り戻している。朦朧とした意識で担架を断りはしたものの、プラネタリウムの座席からここまでどうやって移動したのか記憶がない。恐らく、秋吉がどうにか運んでくれたのだろう。
暗澹としながらキャップを捻ろうとして、指先にまだ力が入らないことに気づいた。それを見て取った秋吉が、ごく自然な仕草でペットボトルを受け取り、代わりにキャップを開けてくれた。
「すまない」
「気にしないでください」
さらりと返された声に視線すら返せないまま、プラスチックのボトルに直接口をつける。常温の水が乾ききった喉を潤し、ほんの少しだけほっとした。
「俺のほうこそ、すみません。先生が三半規管弱いとかぜんぜん知らなくて」
「――……」
そういうことではない、と思ったが、訂正すると面倒なことになりそうだったので沈黙する。実際、巨大スクリーンのせいで目眩がひどくなったのは事実だ。隣に秋吉が座っていなければ、あまつさえ手を握ってこなければ、まさか気絶まではしなかったと思うが。
「秋吉が謝ることはない。心配しなくていい」
圭がそう言っても、秋吉は、納得できないというように小さく眉を寄せたままだった。
真摯に圭の身を案じる眼差しが、ひどく眩しくて、痛い。どうしようもなく胸の奥がくすぐられて、きゅっとする。その感情の正体が、圭には掴めない。
――駄目だ。考えるな。制御しろ。
圭は、懸命に、自分の内側で暴れ出しそうになる何かを理性の檻の中に押し込めた。顔の筋肉を、神経を、総動員していつもの無表情を保つ。
とにかく、これ以上の「実験」の継続は困難だ。そう結論付けざるを得ない。
今なら。この場で、「今日はもう帰る」と、そう告げることさえできれば、「実験」は失敗という形で終わりはするが、これ以上のシステムの崩壊は――圭がこれ以上の失態を見せる事態は、避けられる。
「本当にすまなかった」
言いながら、念のためそろりと立ち上がる。足元が少しだけふらついたが、何とかまっすぐに背筋を伸ばす。気遣わしげに伸ばされた秋吉の手には、軽く掌を向けて断った。
「……もう大丈夫だ」
「ほんとですか……? まだちょっと顔、白いですよ」
秋吉は、圭の顔色を窺うように少しだけ屈み込んだ。
近寄せられる気配に、落ち着いたはずの圭の心拍数がまた上昇し始める。慌てて顔を背ける。
するとその所作を見た秋吉が眉を下げた。
「やっぱり。まだしんどいでしょ」
その心配に乗じて解散を告げよう。そう思って視線を戻すと、心配そうに見つめる秋吉とまともに視線がぶつかった。
吸い込まれそうな黒の瞳、それを縁取る長く艶やかな睫毛、くっきりと刻まれた二重のライン。圭が密かに気に入っている左目尻のほくろ。端正な鼻梁も均整の取れた輪郭も、黄金比を体現したような完璧な美しさだ。
――かっこいいな。
見惚れてしまった。
わずかに空いたその間に、秋吉が口を開いた。
「休憩しましょう。この近くに、紅茶のおいしいカフェがあるんですよ」
何の裏もない純粋な好意と、優しさだけでできた太陽のような笑顔。
断れるはずがない。
圭は、ほとんど反射のように、小さくこくりと頷きを返してしまっていた。
ともだちにシェアしよう!

