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Chapter 6 : Scene 2

 秋吉に案内されてたどり着いたのは、科学館から少し歩いた路地裏にひっそりと佇む喫茶店だった。蔦の絡まるレンガ造りの外観。アンティーク調の木の扉を開けると、カラン、と心地よいベルの音が鳴った。  店内は、外の喧騒が嘘のように静かで、落ち着いた時間が流れている。磨きこまれたマホガニーのカウンター、壁一面に並べられた様々なデザインのティーカップ。  店内に満ちる芳醇な紅茶の香りが鼻腔に触れ、圭は、強張っていた全身の力がほんの少しだけ解けるのを感じた。  案内されたのは、窓際の二人掛けのテーブル席。秋吉は、圭を奥のソファ席に座らせると、自分は向かいの木の椅子に腰を下ろした。  メニュー表を受け取りながら、どうしてこの店を知っているのか、と尋ねようとしてやめた。恐らくこの日のために下調べをして見つけてくれた店なのだろう――プラネタリウムのチケットを用意してくれたように。  その事実に思い至ると、また胸の奥がざわついて、うまく言葉が出てこなくなる。  メニュー表を二人の間に開きながら、秋吉はわくわくと瞳をきらめかせていた。 「紅茶専門店って初めてです、俺」 「秋吉はコーヒーのほうが好きだろう。この店で良かったのか?」 「もー。そういうのを野暮っていうんですよ、先生」  秋吉の表情が変わらず楽しそうなので、文句を言われていることに気づくのが少し遅れた。 「先生の好きな味、俺だって知りたいです。どれがオススメですか?」 「――……」  礼を言えばいいのか謝罪すればいいのかわからないまま、メニュー表に視線を落とす。専門店らしい品揃えを目で追い、ある一点で視線を止めた。 「私もそこまで詳しいわけじゃないが。――この時期なら、これだろうな」  通りがかった店員を呼び止め、ダージリンのセカンドフラッシュをふたつ注文する。カフェでの小休憩にしては少々値が張るが、許容できないほどではない。 「先生、何で紅茶好きになったんですか?」  メニュー表を片付けながら、秋吉が圭を見つめる。そのたび小さく鼓動が跳ねるのにも、少しずつ慣れてきた。 「大した理由はない。強いて言えば、祖母がコーヒー嫌いだったから、か」 「祖母?」  目を丸くした秋吉に問い返され、自然に口端を綻ばせた。生い立ちを語るときは自然にそんな表情をするのが習い性になっている。 「両親を早くに亡くして、祖父母に育ててもらったんだ。小学校の時は、山と田んぼに囲まれていたな」 「そうだったんですか……」  落ちた沈黙の間を埋めるように、ちょうど店員が純白のティーセットを二組、運んできた。お待たせしました、とテーブルに置かれた陶器のティーポットから、甘く爽やかな香りが立ち上り、圭の表情がゆるむ。 「いい香りだな」  秋吉の視線が再びまっすぐに圭に向いていた。見詰め返す余裕もようやく生まれてきた。 「秋吉は? コーヒーを好きになったきっかけがあるのか?」 「そう聞かれると……確かに、理由ってないですね。あ、でも、学生の頃はコーヒーに憧れてたかも」 「憧れ?」  意外な単語に軽く目を瞠りながら、もういいだろう、とポットを取り上げた。まず秋吉の前にあるカップに琥珀色の液体を注いでいく。 「コーヒー、ブラックで飲むのって、なんか大人の男っぽくないですか? ――あ、ありがとうございます」  続いて自分のカップにも同じように紅茶を満たすと、マスカットのような、芳醇で華やかな香りが二人の間に広がった。 「大人の男に憧れていたのか。……秋吉らしい気がする」 「どういう意味ですかそれ」  ふわりと漂う香りは先刻よりもずっと強く、濃い。悠也の言葉を聞きながら、圭の双眸が柔らかく細くなる。 「秋吉は、どんな子どもだったんだ?」  カップを取り上げ、その表情のまま秋吉を見遣った。  秋吉は何かに驚いたようにわずかに動きを止めたが、すぐに静かにカップに口を付けた。おいしい、と零れた声が、圭の聴覚を心地よく揺らす。 「そうだなあ……好奇心すごかったですね。ほら、俺も地方出身でしょ。山と田んぼと海と川、近くに全部あったから、外で遊んでばっかりで。恐竜も、星も、昆虫も、なんでも好きでした」  紅茶を静かに嚥下しながら、秋吉の語る子ども時代を想像してみる。きっと、今、圭に向けているこのきらきらした表情と同じ顔をしていたのだろう。そう思うと、自然に唇が綻ぶ。 「小学校の頃は野球もやってたんですよ」 「野球か。意外だな」 「よく言われます。本当はずっと続けたかったんですけど、親が厳しくて。中学からは勉強一筋です。でもまあ、隠れてギター弾いたり友達の家でゲームやったり、好き放題してましたけどね」  中学でも高校でも、今と同じきらきらした表情で周囲を明るくしながら、期待に応えようと努力を重ねてもいたのだろう。茶化すような言い方の影に、口にはされない苦労があったことを、鈍い圭でも察することができた。そして圭は、秋吉の根底を形作る、真摯に努力を重ねる影の姿にこそ惹かれたのだ。 「先生は? どんな子どもだったんですか?」  わくわく、とタイトルをつけたくなるような瞳を向けられて、やや固まる。 「私は、秋吉ほど面白みはないぞ」 「またそういうこと言う。先生のことだったら何でも面白いですよ、俺は」 「――それは、褒めているのか……?」  首を傾げつつ、二杯目を、秋吉と自分のカップと、それぞれ丁寧に注ぐ。嬉しそうな秋吉の表情を見ながら、圭の口端も綻んだままだ。 「……子どもの頃は、星が好きだった」 「星、ですか」 「ああ。だから、プラネタリウムは嬉しかった」  それは本当だ。その中で発生した事態が予想を超えただけで。 「秋吉も見たことがあるかもしれないな。ここでの夜空とは全然違う、本当に真っ暗な夜空。降ってきそうなぐらいたくさんの星が瞬いているのを、ただ眺めているのが好きだった」  誰にも話したことのない記憶だった。なぜこんな話をしているのか、と困惑する自分もいたが、目の前で静かに圭を見つめている秋吉の瞳を前に、その声も聞こえなくなる。 「中学からは、祖父母の元を離れて全寮制の私立に入った。暇な時間はずっと本を読んでいたな。部活も何もしなかったし、友達らしい友達もほとんどいなかった。――ほら、面白みがないだろう」  軽く笑う。  が、秋吉は笑わなかった。 「俺、先生のそういうところ、好きです」 「――、」  不意を突かれた。カップを取り落としそうになって、慌ててソーサーに戻す。かち、と、かすかに固い音が響いた。 「こんなところで急に何を言い出す」  目元に熱が昇っているのが自分でも分かった。  秋吉がふっと笑う。いつもの笑みを見て、なぜか圭は安堵した。 「いや、なんか想像どおりだなって。人と群れないで黙々と読書してる中学生とか、めっちゃ先生らしいし」 「……あまり素直に喜べないんだが」 「俺、先生の同級生になりたかったな。先生の読書の邪魔したかった」 「なんだそれは」  そう言う秋吉の表情と口調が可笑しくて、思わず吹き出す。  すると秋吉が眩しげに瞳を細めた。 「――先生が笑ってるの、なんか、久しぶりに見たかも」  胸を衝かれた。どきり、と跳ねる鼓動を自覚する。 「……研究室では、あまり笑うことがないからな」  ひどくどぎまぎしながらカップを取り上げ、中が空だと気付いてまた元の位置に置き直した。  秋吉は、そんな圭の様子に気づいているのかいないのか、柔らかな表情で続ける。 「そうですね。でも、うれしいです」 「――……」  胸の奥が、きゅっと苦しくなる。目元どころか頬が、顔全体が熱くなり、何を言えばいいのかわからなくなる。速度を速める心拍音を聞きながら、視線だけは目の前の秋吉から離れてくれない。  まただ。理解できない身体の反応。圭の、圭というシステムがエラーを起こし始めている前兆。  そんな圭を静かに見つめた後、手元のカップから最後の一口を飲み、秋吉は小さく息を吐いた。そして、また圭を一瞥し、迷うように視線を揺らした後、何か言いかけるように小さく口を開く。  なぜか圭は、無意識に身構えた。  何か、核心に触れるような――あまり聞きたくない言葉が、その口から飛び出すのではないか。根拠のわからない予感。  しかし秋吉は、一度小さく開いた口を、結局また引き結んだ。  次に圭に向けられたのは、すべて吹き飛ばすかのような快活な笑顔だった。 「じゃあ、星、見に行きましょ」 「――は?」  拍子抜け。そんな言葉が胸を過ぎる。  呆気にとられた圭の顔を見て、秋吉が、に、といたずらっ子のような顔で笑う。 「いい場所知ってるんですよ、俺」  正直、しんどい。今日のデータ処理量は疾うに限界を超えている。さっさと帰宅して、一人で今日の観測データを整理したい。  なのに。  きらきらと輝く秋吉の瞳から、視線が離せない。 「……星?」 「はい。星です」  自分でも気づかないうちに、圭の瞳もまた、秋吉と似たような輝きを湛えていた。  秋吉は、悪戯が成功した子どものように、楽しそうに笑っている。 「……行く」  そしてまた圭も、無邪気な子どものように、素直にうなずいていた。

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