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Chapter 6 : Scene 3
黄昏を過ぎた街には、徐々に夜の帳が降り始めていた。涼やかな夜風が肌に触れて心地よい。
圭は、一歩半先を歩く秋吉の広い背中を黙って追っていた。歩道を、リズムの違うふたつの足音がゆっくりと辿っていく。
「てっきり、電車で遠出でもするのかと思った」
「でしょ。ここらへんで星なんてほとんど見えないですもんね」
「光害だらけだからな」
だから圭も、ここしばらく星を見ることなどすっかり忘れていた。歩きながら見上げた空は、濃い群青から夜の色へ変わりつつある。星は見えない。
やがて秋吉が足を止めたのは、意外にも、二人が毎日通っている敬信大学の正門前だった。
「……秋吉?」
圭は困惑した。
守衛に軽く会釈をして慣れた様子で構内へと入っていく秋吉の背中に、思わず問いかける。
「うちの大学で、星の見える場所なんかあるのか?」
確かに敷地は広いぶん、市街地に比べればマシかもしれないが、それでも商業地域に隣接した立地だ。まともに星を観測することなど不可能なはず。
すると秋吉は、してやったり、とでも言いたげな、悪戯っぽい笑顔で振り返った。
「あるんですよ。今だけ、限定で」
楽しそうにそう言ってから、「足元、暗いんで」と、ごく自然に圭の手首を掴む。先導するように歩き出すその仕草に、圭の心臓が大きく跳ねた。
プラネタリウムで手を重ねられたときはあんなに混乱したのに、今、抵抗できないのはなぜだろう。掴まれた手首から伝わる、自分より少しだけ高い体温のせいか。
理由はわからないまま、圭は、その力強い導きに飲まれたようにただ黙ってついていく。
やがて秋吉は、南の外れにある古い講義棟に辿り着いた。普段はほとんど使われることのない、寂れた建物。今にも切れそうな常夜灯の頼りない光の下、非常階段をゆっくり上っていく。
「カギ、壊れてるの見つけちゃって」
誰にともなく言い訳するように呟きながら、秋吉がそっと門扉を押し開けた。
真っ暗な屋上と、遮るもののない夜空。
「下、気を付けて」
秋吉がスマホのライトで足元を照らしながらゆっくりと先導するのも、もう圭は気づいていなかった。
ぽかん、と口を半開きにしたまま、頭上に広がる夜空を見上げる。周囲からの光がうっすら届いてはいるが、南側だけがぽっかりと暗く、ばらまかれた光の粒がはっきり見えた。
「なんで、こんな……」
呆然と呟いた声に、秋吉が小さく笑った。スマホのライトを、南側に向ける。
「ほら、あそこのビル」
秋吉が指差した先に視線を向けると、大学の敷地に隣接する中層ビルが巨大な防音シートで覆われ、黒い塊のように立っているのが辛うじて見えた。
「今、改修工事やってるみたいで。おかげでこの一角、今だけすっげー空が開けて見えるんですよ」
既に誰かがこの隠れスポットを堪能済みなのか、南の空がよく見える場所に古びたベンチまで置かれていた。
秋吉は、ベンチの表面を軽く手で払い、まず圭を座らせた。その間もずっと、圭は空を見上げていた。
「――……」
半開きのままの口から、無意識にため息が零れる。
宵の濃藍から夜の漆黒へゆっくり染まりつつある空に、無数の星が瞬いていた。まだ完全な闇ではない夜空に、都会では見ることのできないほどの星々が輝いている。
「先生が子どもの頃に見てた星空とは、たぶん、比べ物にならないと思いますけど」
隣に腰を下ろしながら、秋吉が少しだけ申し訳なさそうに言った。
「……いや」
圭の声は、自分でも驚くほど穏やかに響いた。
「ちゃんと星を見たのは、本当に、久しぶりだ」
南の空にひときわ明るく輝く、いくつかの星。その形が、名前が、古い記憶の扉から溢れ出る。気づけば圭の口は勝手に動いていた。
「うしかい座、おとめ座、しし座……さそり座のアンタレスも見えるな。――まさか、うみへび座も見えてないか?」
「よく知ってるなあ」
秋吉の声も楽しそうだ。黒い夜空に、圭のものではない指が一点を指す。
「あれ、何でしたっけ? あの青白くてキレーな星」
ひときわ強く、凛とした光。
「スピカだ。おとめ座の一等星」
「スピカ、かあ……」
うっとりとその光を見つめる秋吉の隣で、圭も同じ星をじっと見上げた。
「スピカは、連星だ」
子どもの頃、何度も繰り返し眺めた図鑑に載っていた説明文。もう二十年近く前の記憶なのに、今でもありありと思い出せる。
「ごく近い距離にあるふたつの星が、互いの重心を中心に公転している」
「ふたつの星がひとつに見えてるってことですか?」
「そうだ」
静かに頷いた。
その時、ふと、隣の秋吉の気配が変わった。
沈黙が落ちる。気まずいものではなく、しかしひどく密度の高い特別な――静寂。
圭は、ゆっくり振り向いた。すると、まっすぐに圭を見つめている秋吉の黒い瞳と目が合う。
――ああ、まただ。
胸の奥が甘く苦しくなる感覚。
いつもこうして不意に気づかされる。自分が目を逸らしている間も、秋吉はずっと、ただひたむきに圭だけを見つめていてくれたことに。
圭の鼓動が、密やかに、しかし確実に速度を上げ始める。今日すでに何度も経験した鼓動の高鳴り。しかし今は、そのどれとも違う濃密な緊張を帯びている気がした。
「受け取ってほしいものがあります」
秋吉の声は、少しだけ掠れていた。
差し出されたのは、両掌に載る程度の大きさの細長い箱。上質なネイビーの包装紙とシルバーのリボンは、一目見てそれが「プレゼント」であることを主張している。
「誕生日、おめでとうございます。先生」
六月十三日。
この日を指定されたときに、その意味には気付いていた。
だから予想していたはずなのに。ある程度、心の準備をしていたはずなのに。
秋吉の祝福の言葉と、自分だけに差し出された「プレゼント」を前に、胸の奥に熱い何かが込み上げて溢れそうで、俄かに返事もできなくなる。
「――なぜ、」
笑おうとして吐き出した息が、かすかに震える。
「なぜ、知ってる? 誰から聞いた」
問う声は、自分でもどうしようもないほど柔らかく、笑みにゆるんでいた。
自然に手を伸ばし、箱を受け取る。掌に載せた小箱はずしりと心地よく重い。
「高瀬先生が教えてくれました」
秋吉の声も、笑みを滲ませながらどこか緊張に強張って聞こえた。
「あの人は、まったく」
笑い飛ばそうとしたが、成功したかどうか自信がない。声がみっともなく上擦りそうなのを制御するのに精一杯だった。ラッピングを解く指先も震えそうだった。
中から現れたのは、深い夜空の色を思わせる美しいマーブル模様の万年筆。そして、同じ色のインクの小瓶だった。
「先生、いっつも適当なペンばっかり使ってるから。ひょっとしたら、いらないかもなって思ったんですけど」
秋吉がやや早口で言った。
「でも、――似合うな、って思ったんです。……だから、もし良かったら、使ってくれたら…うれしいです」
その言葉を聞きながら、宝石を扱うように慎重に、ケースから滑らかな軸を取り上げる。
すぐに気づいた。キャップに彫られた、滑らかな筆記体。
『 K. Todo』
息ができなくなりそうだった。笑み崩れてしまう表情を抑えることなど、もはやできそうになかった。
筆記体を幾度も撫でる指先から、ゆっくりと熱が昇り、全身へ巡っていく気がした。横顔をじっと見つめる秋吉の視線からも。さっきからうるさく鳴り響いている鼓動からも。
その熱に名前を付けるとしたら、「歓喜」になるだろうか。しかしそれだけでは足りない。
圭のために心を砕いて準備された一日。圭のためだけに選ばれた、心のこもった贈り物。今日という日のすべて——秋吉が自分に向けてくれた言葉、気遣い、想いが胸の奥で温かく広がっていく。
――私は、ほんとうに。
――秋吉悠也という青年に、恋人として、大切にされている。
あまりにも甘い、抗いがたい実感。そしてその実感がもたらす、これ以上ないほどの幸福。限界まで涙が湛えられているのに、まだ零れずにいることが意外だった。
濡れた瞳を上げる。秋吉の瞳とぶつかる。
「……ありがとう。…大切に使う」
懸命に紡いだ言葉は、囁きほどの声音にしかならなかった。
見つめ合う。
吸い込まれそうに輝く、ひたむきな黒の瞳。
圭を魅了してやまない美しい黒が、ゆっくりと近づいてくる。
大きな瞳の中に、星の光と、自分の顔が映っている。
導かれるように、圭はそっと瞳を閉じた。
しかし——唇が触れ合う寸前、胸の奥底で何かが波紋を広げた。
「――、」
ふ、と瞳が開いた。
視線を逸らし、さりげなく顔を背ける。
鼓動が早鐘のように打っている。瞳を瞠ったまま動けない。自分の行動が理解できなかった。
「……先生?」
秋吉の声は当惑に揺れていた。
心の奥で波紋を広げた後、ざわりと落ち着きなく渦巻く感情の正体が、圭自身にも掴めない。
ただ。
二人の距離が、今夜これ以上縮まるタイミングを失したことだけは確かだった。
「……帰ろうか」
顔を背けたまま、そう言うまでにほんの一瞬だけ言葉を選んでいた自分に気づく。
わずかな間。
秋吉が、空気を換えるように元気よく立ち上がった。
「ですね。――帰り、コンビニ寄りましょ。アイス食べたい」
圭の行動を不可解に思っているだろうに、何も聞かずに話を逸らしてくれる気遣いがありがたかった。
万年筆を元通り丁寧にラッピングし、大切に仕舞う。
スマホのライトを用意しながら歩き出した秋吉について、ゆっくりと歩き出す。
圭の中では今も、名前のつかない感情がいくつも絡まり合っていた。
それでも、それらすべてを包み込んでなお温かく光る、一つの感情があった。――生まれて初めて感じる、この上ない幸福。
心の奥でざわめく想いも、その温かな光の前では静かに溶けていくようだった。
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