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Chapter 7 : Scene 1
六月十三日、深夜。
圭は、冷たい水のグラスを片手に、自室のベッドの端に腰を下ろした。
シャワーを浴び、清潔なリネンのシャツに袖を通しても、まだ身体の芯にほわほわとした熱が揺蕩っているような気がする。秋吉と別れてからずっと感じている、地に足がつかないような浮ついた幸福感。
部屋の明かりは、ベッドサイドの間接照明のみ。静寂に満ちた空間で、圭は、ヘッドボードの上に置かれた一つの小さな箱をじっと見つめていた。
上質なネイビーの包装紙。丁寧に結ばれたシルバーのリボン。
秋吉がくれた誕生日プレゼント。
思い出すだけで、また胸の奥がきゅっと甘く締め付けられる。
グラスを置き、壊れ物を扱うようにしずしずと、細長いその箱を両手で持ち上げる。ベッドの上に座り直し、手の中に視線を落とす。口端はどうしても緩んでしまう。
リボンの結び目を傷つけないように、そっと解く。包装紙のテープを丁寧に慎重に剥がしていく。帰宅してから、もう何度もそうしていた。
ひとつひとつの動作がひどくもどかしい。早く中身が見たい。しかし、秋吉が自分のためにかけてくれた手間を、たとえほんのわずかでも傷つけたくない。もらったときのまま、ずっと大切に保管したい。
矛盾した感情に小さく苦笑しながら、ようやく包装紙の中から現れたベルベット地のケースをゆっくりと開く。
深い夜空の色をした美しいマーブル模様の万年筆が、静かに収まっていた。
「――……」
圭の表情が、勝手にだらしなくゆるんでいく。嬉しい。どうしようもなく嬉しい。締まりなくゆるむ唇を、一人片手で覆う。
『先生、いっつも適当なペンばっかり使ってるから。ひょっとしたら、いらないかもなって思ったんですけど』
秋吉の言葉が耳に残っている。よく見ている、と一人笑う。
周囲にはいかにも神経質そうに見えるらしい圭だが、その実、研究以外のことへのこだわりは薄かった。秋吉の言うとおり、使う筆記用具など圭にとっては「どうでもいい」の最たるものだ。
――それでも、嬉しい。
艶やかに光を弾く滑らかな軸を取り上げる。ひんやりとした心地よい重み。
万年筆が嬉しいわけではない。圭のために、きっと時間をかけてプレゼントを考え、用意してくれた。その気遣いが泣きそうなほど嬉しかった。
――大事に使おう。
生まれて初めて、圭にとって「こだわりの」一品になるだろう、万年筆。キャップに彫られた自分のイニシャルを、親指の腹で何度も愛おしげに優しくなぞる。
――私のための、もの。
その事実が、胸の奥の一番深いところをじんわりと痺れさせる。自分の名前よりも、秋吉の名前を彫ってほしかったな、とふと浮かんだ考えに一人で赤面する。
「……誕生日プレゼントを誰かからもらうなんて、いつ以来だ」
ぽつり、と、独り言が漏れた。
最後に、誰かに「おめでとう」と、祝ってもらったのはいつだったか。
幸福に浮ついた思考が、記憶の海をとりとめもなく漂い始める。
子どもの頃は、祖父母がケーキを買ってくれた気がする。プレゼントは何かもらっただろうか。図書カードか何かだったか。
中学校や高校では、誕生日を祝い合うような親しい間柄の友人はいなかった。
大学に入った後は。
そこで圭の思考は不意に、ひとつの記憶の断片に突き当たった。
――結婚した、最初の年。
表情が凍る。
妻だった女性から、何かをもらった。確か、もらったはずだった。
どこか照れたような、それでいて得意げな顔で、自分に何かを差し出してくれた妻の記憶が確かにある。そして圭は、それを受け取った。確かに「嬉しい」と感じた、その感情の動きも朧気ながら覚えている。
――何を、もらった?
背筋に氷が這うような焦燥。恐怖にすら駆られ、必死に記憶を手繰り寄せる。
時計か? ネクタイか? 財布か?
分からない。
どんなに思考を巡らせても、そこだけがまるで濃い霧に覆われたように、何も見えない。さっぱり思い出せない。
「嬉しい」と感じたはずの贈り物。その、形も、色も、名前さえも。
すう、と、先ほどまで頬を火照らせていた熱が、急速に引いていく。だらしなくゆるんでいたはずの顔に最早笑みはない。
手の中の万年筆に視線を落とす。滑らかな軸。圭のためだけに彫られたイニシャル。呼吸を整えようとしながら、ゆっくりと指先で撫でる。しかしその指先はかすかに震えていた。息を詰め、きつく指を握り込む。
強く頭を打ち振った。
手の中の万年筆を丁寧にケースに戻す。ラッピングも、剥がした時と同じように、丁寧にゆっくりと元通りに。
上質なネイビーの包装紙。丁寧に結ばれたシルバーのリボン。秋吉に差し出された時と同じ状態に戻った細長い箱を、改めて両手で大切に包み込む。
深く息を吐く。乱れた鼓動はまだ戻らない。
恐ろしい、と思った。
万年筆も、胸を満たすこのあたたかな幸福も、何もかもいつか忘れ去るだろう無慈悲な自分を、心底恐ろしいと思った。
『あなた、私のことなんか全然愛してないじゃない』
冷たい声が脳裏に蘇る。
ネイビーの包装紙を、ゆっくりと指先で辿る。時間をかけて考えてくれた、大切な贈り物。
優しくリボンを撫でる指が震える。握り込む。息ができなくなる。
――万年筆に込められた秋吉の想いを、結局は忘れてしまうのだとしたら。
――そんな人間は、こんな大切な贈り物を、受け取ってはいけないのではないか。
「、っ……」
胸が詰まる。
懸命に、秋吉の笑顔を、声を、思い出そうとした。
『先生が笑ってるの、なんか、久しぶりに見たかも』
『そうですね。でも、うれしいです』
あの、ひたむきに光る大きな黒の瞳。太陽のような笑顔。
思い出すだけで、胸の奥にあたたかな何かが灯る。しかし同時に、灯ったそのぬくもりが圭の罪悪感を炙る。
――駄目だ。
大きく、深く、呼吸する。立ち上がり、ラッピングされた細長い箱をブリーフケースに大切に仕舞う。
――明日、秋吉に会ったら、まず礼を言おう。
――きっと秋吉は笑い返してくれる。大丈夫だ。
未来の妄想に必死に縋り付くことすら、ひどく罪悪感を覚えた。
枕に顔を埋めながら、圭はきつく瞳を閉じた。
その傍らで、放置されたままのスマートフォンの画面が、ふっと、一度だけ明るく灯った。
『先生、今日は本当にありがとうございました! めちゃくちゃ楽しかったです! またデートしましょう!』
秋吉からのLINEが届いたことを知る由もなく、圭は一人、闇の中にいた。
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