20 / 33

Chapter 7 : Scene 3

 重厚な木目調のドアを前に、圭は小さく息を吸い込んだ。普段、教授の部屋を訪れる機会などほとんどない。  ノックしようとした指先が、わずかに躊躇する。 「――入れ」  中から聞こえてきた声に促され、圭は静かにドアを開けた。  部屋の中は、図書館の閲覧室のように静謐で整然としていた。壁一面の専門書は、知識の誇示であると同時に、よそ者を拒む壁のようにも見える。  その部屋の主は、デスクの奥、重厚なレザーチェアに深く腰掛けていた。圭が入ってきたことに気づいているだろうに、視線は手元の書類に落とされたままだ。 「失礼します。藤堂です」  圭が声をかけると、松原はゆっくりと顔を上げた。感情を窺わせない表情はいつものことだったが、今はひどく警戒心を煽られた。 「まあ、そこに座りなさい」  顎で示されたのは、デスクの前に置かれた客用のソファだった。言われるがままに腰を下ろす。ソファのスプリングが、ぎしり、と小さく音を立てた。  沈黙。  松原は、ただじっと値踏みをするような目で圭を見ている。先に口を開けば負けだ、とでも言うように。  蛇に睨まれたような息苦しい時間に耐えきれず、圭の方が先に口を開いた。 「……ご用件は」  圭が切り出すと、松原は、待っていましたとばかりに、初めてその口の端をほんのわずかに歪めた。 「単刀直入に聞こう、藤堂くん」  低く響くその声は、遠雷を思わせた。 「昨日、どこで、何をしていた?」  圭の心臓が、氷の手に掴まれた。  昨日。日曜日。――秋吉との、デート。  まさか。ありえない。思考が空回りする。 「……ご質問の意味が、わかりかねます」  絞り出した声は、自分でも驚くほど乾いていた。ポーカーフェイスは圭の得意とするところだ。しかし今の自分は、果たして完璧な無表情を保てているだろうか。  松原は、ふ、と低く笑った。すべてを見透かしたような目。 「昨日、郊外の科学館の近くで、見慣れた顔を見かけたものでね。私の研究室にいた優秀な学生と、その彼をことのほか『可愛がっている』准教授の二人だ」  血の気が引く。  見られていた。どこで。いつから。  頭の中で、警鐘がけたたましく鳴り響いた。危険だ。何を言っても墓穴を掘る。沈黙を保て。思考を悟られるな。  圭が黙り込むと、松原は静かに続けた。 「……まあ、今回は私の胸にしまっておくつもりだが」  もったいぶった口調に、反射的に反感が込み上げる。しかし、この状況で下手なことを言うわけにはいかない。  膝の上に置いた手を握り込む。静かに息を吸う。 「目的は何ですか」  硬く響いた声に、松原は感情の読めない瞳を向けた。 「穿った見方をするものではない。私はただ、君たちを心配しているだけだ」  松原は、デスクの上でゆっくりと指を組んだ。その目はまるで過去の亡霊でも見るかのように、どこか遠くを見ている。 「昔の友人の話だ。君のように優秀な研究者だったが。……一人の学生に特別な感情を抱いてしまって、結果、すべてを失った」  どくりと鼓動が跳ねる。一気に口の中が干上がる。 「最初は純粋な指導だったのだろう。だが、いつしか二人は一線を超えた。結末は、破滅だ。彼は大学を追われ、二度と研究の世界には戻れなかった」  松原の視線はもう圭を見てはいなかった。実際に悲劇を目撃した者だけが見せる、生々しい表情がそこにあった。  圭の喉仏が小さく上下する。松原の語る内容を、今の自分と秋吉の状況を切り離して聞くことなど不可能だった。彼の語る「友人」の未来は、そのまま圭の未来に重なる。  ――いや、それでも。もし自分が研究をできなくなったとしても、秋吉の未来だけでも守れるのなら。 「……残された学生は、どうなったと思う?」  圭の思考の推移を見透かしたような問い。  氷が這うような恐怖で、圭の背筋が粟立つ。聞きたくなかった。しかし、圭の瞳は松原から離れなかった。 「彼女は、大学には残った。『教授をたぶらかした問題児』という烙印とともに、な。――どの研究室にも入れず、提出する論文は常に色眼鏡で見られ、正当に評価されることはなかった」  息ができなくなった。  ――秋吉が。あの自由な発想と、きらめく才能が。 「結局、彼女は研究者の道を諦めて、大学から姿を消したよ」  ――潰れてしまう。  ――私のせいで。 「たった一度のスキャンダルで、何もかも破滅してしまう。私は実際にすべてを目撃した。……君たちには、同じ轍を踏んでほしくない」  深く、松原はため息を吐いた。  理解していたつもりだった。教員として、教え子と特別な関係になること。  それでも、覚悟を持ってその道を選んだはずだった。しかし、その関係が現実的にどれほどのリスクを伴うか、本当の意味で理解できていなかった。  ――浅はかだった。  思考が止まる。  秋吉の笑顔が、脳裏に浮かんで、掻き消える。科学館で、カフェで、変わらず圭を見つめていたひたむきに輝く瞳。太陽のような笑顔。 「よく考えろ。二人にとって本当に正しい選択とは何か。――過ちを正せるのは、君しかいない」  松原の言葉は、圭にとって死刑宣告にも等しい響きを持っていた。  膝に置いた手をきつく握り込む。そうしなければ、みっともなく震えていることが松原にも露見してしまいそうだった。 「……ご忠告、感謝します」  絞り出した声は、自分のものではないように遠く聞こえた。  重厚なドアを閉める。誰もいない静かな廊下を、ゆっくり歩き出す。  圭の内心など何の関係もないように、窓から差し込む光は爽やかに明るい。眩しい初夏の光がやけに目に染みた。  何も考えることができなかった。  一方、結論だけは氷のように冷たく明確に、圭の中に刻み付けられていた。  ――終わらせなければ。  足が止まる。喉が詰まり、息が吸えなくなる。  頭を振った。背筋を伸ばし、再び歩き出す。  ――秋吉が、私を諦められるように。忘れられるように。  ――最も冷たく、最も遠い存在にならなければ。  廊下の突き当たりを曲がる。階段をゆっくり下りていく。  ――彼が愛してくれた「藤堂圭」を、私の手で殺さなければ。  研究室のドアの前に立つ。  ドアの向こうから、聞き慣れた声が談笑しているのが聞こえる。あまりにも平和な、圭にとってかけがえのない日常の空気。  その中に、確かに聞こえる。秋吉の、快活で聞き取りやすい穏やかな声。  ――本当に、それでいいのか?  一瞬、心が揺らぐ。すぐに頭を振った。  これは、感傷ではない。論理的な判断だ。リスクを排除し、最悪の事態を回避するための、唯一の正しい選択。  深呼吸をひとつ。いつもの「氷の藤堂」の仮面を、慎重に被り直す。  ドアを開くと、一番に秋吉の顔が目に飛び込んできた。 「あ、先生! おかえりなさい!」  太陽のような笑顔。いつも目にするたび、圭の胸の奥にやわらかな熱を灯してくれる――大好きだった、笑顔。  直視することなど、もうできなかった。  昨日の礼を言わなければ、と、そう思っていたのに。万年筆の書き心地が最高だった、と伝えたいのに。 「先生……?」  足早にデスクへ向かう背に、戸惑うような秋吉の声が届いた。  夜。  静まり返った研究室で、圭は一人、細長い箱を見つめていた。  かけがえのない幸福の証。  二度と触れてはならない罪の証。  圭はただ、上質なネイビーの包装紙とシルバーのリボンを、じっと見つめていた。

ともだちにシェアしよう!