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Chapter 8 : Scene 1

 藤堂研究室のミーティング。ぴん、と張り詰めた空気は、いつもよりずっと厳しい。  悠也は、緊張した面持ちで、プロジェクターが投影するスライドを指し示した。 「――以上より、前回の課題だったノイズの低減は一定の成果が見られました。次のステップとして、異なる条件下での……」 「待て」  冷たい声が切り裂くように悠也の声を止める。  声の主は、一番奥、発表者から最も遠い席で、腕を組んでスクリーンを射抜くように鋭く見つめている。 「思考のプロセスが短絡的すぎる。他の可能性は考慮したのか?」 「っ、それは、……」  悠也がわずかに口ごもる。圭はその逡巡すら許さなかった。 「返事は明確にしろ。他の可能性は考慮したのか、と聞いている」 「――していません」  ため息。手元で資料をめくる紙の音が、やけに高く響く。 「考えてないなら最初からそう言え。もっともらしく繕うな」  悠也の喉仏が小さく動く。クリップボードを持つ手に無意識に力が籠った。口の中はからからに乾いているが、懸命に反論の糸口を探す。 「……でも、前のミーティングでは、方向性は間違ってないって」 「方向性が正しくても、その道のりが杜撰であれば何の意味もない」 「俺のやり方は杜撰ってことですか」 「そうだ」  圭の表情に温度はない。ガラスのような瞳がまっすぐに悠也を射抜く。 「一番楽な、見栄えのいい道だけをなぞろうとするな。そんな薄っぺらいやり方を教えた覚えはない」  悠也の手の中で、クリップボードが小さく軋んだ。視界の端で、他の学生が気まずそうに視線を逸らすのが見えた。小さく息を吸う。 「違います。俺は」 「言い訳か? 甘えるな。――もういい。次、水島」  空気が凍りついた。  いつもなら軽口を叩く学生たちも、息を飲むように黙り込んでいる。指名された水島が立ち上がり、準備を始める気配。  悠也は席に戻りながら、圭の横顔をそっと盗み見た。いつものように資料に目を落とし、ペンを走らせている。何事もなかったかのように。まるで、悠也という存在そのものが、そこにいないかのように。  異様な雰囲気のミーティングが終わり、言葉少なに学生たちが解散する中、自席に戻った悠也の肩を野々村が叩いた。 「お疲れ。今日もなんかめちゃくちゃ厳しかったな、先生」 「んー……」  さすがに悠也も力なくデスクにぐたりと崩れる。 「……大丈夫か?」  大丈夫じゃない、と答える力もない。基本的に楽観的な悠也だが、ここ数日の状況はさすがに堪えていた。 「最近ちょっと変じゃないか、藤堂先生」  そんな悠也に向けて野々村が緩く顔を寄せ、声を低めた。視線は、スチールラック越しに細く垣間見える圭のデスクへ向いている。  むくりと起き上がって頬杖を突きながら、悠也も同じ方向を一瞥した。チェアの背もたれの上にぴんと覗く小さな頭。それだけは、いつもと変わらない。  最近、という野々村の単語を、悠也は具体的に言い換えることができる。圭の様子がおかしくなったのは、正確に言うと、デートの翌日。つまりもう一週間前からだ。 「特に悠也に当たりキツくね? 今日も怖かったー……お前よく平気だよな」 「平気じゃねえよ」  さすがにそこは反射的に言い返す。まったく平気ではない。正直、体重がいくらか減った気がする。よく我慢している、と、自分で自分を褒めたい。 「悠也、お前、なんかしたのか?」 「俺が聞きたい」  それも本心だった。あの幸福なデートは夢か幻だったのかと思うほど、翌日から圭の態度は豹変していた。野々村の言うとおり、悠也への態度が特に冷たく厳しい。デート前よりも確実に状況が悪くなっている。縮めた距離の二乗ぶん、遠ざかられた気がする。  個別ミーティングで時折感じていた歓喜の瞬間すら、今は遠い。それどころか、圭のデスクに近付くたび、片隅で埃をかぶっているネイビーのラッピングが目に入る。あのプレゼントを見るたび、まったく集中できなくなる。  理由はさっぱりわからない。デート中に何かしたのだろうかと何度も記憶を反芻したが、思い出せば思い出すほど、別れる瞬間まで幸せそうだった圭の表情しか浮かばない。  カフェでの穏やかな横顔。屋上で星を見上げた時の子どもみたいにきらきらした瞳。プレゼントを受け取ってくれた時の、どうしようもなく嬉しそうな顔。――嘘だったはずがない。  デスクの上に放ったスマートフォンを取り上げる。LINEのトーク画面も何度開いたことか。デート当日の夜から何度かメッセージを送っているが、一週間経った今も既読すら付かない。  もちろん、待ち伏せも試みた。過去二回、成功した手だ。講義棟の出口、図書館の隅、カフェテリアの入り口。圭のスケジュールを確認し、経路を予想して張ってみた。しかし圭は、まるで悠也の行動を予知したかのように、するりとその包囲網を抜けていく。さすがに三度目は通用しないらしい。  結果、デートのあの夜を最後に、二人きりで話す機会は皆無だった。  わけがわからない。  それでも、悠也には確信があった。 「絶対、なんかあったんだと思う」 「自信たっぷりだな。心当たりあんの?」 「ない。でも、理由もなくあんなに辛く当たる人じゃない。お前も知ってるだろ」  まっすぐに視線を向けると、野々村がはっとしたように目を見開いた。それから感心したように悠也を見直す。 「なんつーか……悠也、やっぱ違うよな、そういうとこ」 「何だよ。気持ち悪いな」 「素直に褒められとけよ。迷いがなくてうらやましいって言ってんだ」  よくわからなかったが、適当に礼を言いながら立ち上がる。  ――そうだ。迷ってる暇なんかない。 「? どこ行くんだ?」 「捜査開始」  きょとんとする野々村に軽く言い捨て、悠也は研究室を出た。  ――先生が自分から話してくれないなら、俺が原因を突き止める。  大股に廊下を進んでいく。胸の奥で、久しぶりに希望のようなものが灯っていた。  ――そうだ。あの不器用な人は、きっとまた一人で、何かどうでもいいことで思い悩んでいるだけなんだ。  まずは、聞き込み。  豹変したのは先週の月曜日から。デートの翌日だ。 月曜日の朝、悠也が研究室に着いたとき、圭は既に離席していた。そして昼頃帰ってきたときには、もう様子がおかしかった。つまり、何かがあったとすれば午前中、研究室の外でのことだ。  悠也は学部事務室へと足を向けた。こういう時に頼りになる情報源。誰とでも気さくに話し、顔が広い。事務職員として教員たちの動向にも詳しいはずの人物。  幸い、カウンターに目当ての人はいた。 「笹原さん、ちょっといいですか」  声をかけると、パソコンに向かっていた香苗がぱっと顔を上げた。 「秋吉くん、どうしたの?」 「ちょっと教えてほしいことがあって。――先週の月曜日、午前中、どこかで藤堂先生見ませんでした?」  あまりに唐突な質問に、香苗はきょとんと目を丸くした。 「え? 先週の月曜? 急にどうしたの」 「探偵ごっこみたいなもんです」  冗談めかして笑ってみせる。香苗は「何それ」と小さく笑ってから、記憶を探るように少しだけ天井を見上げた。 「先週の月曜……。ごめんね、一日中たくさんの先生や学生さんと話すから、はっきりとは…」 「たぶん、朝早い時間だと思うんです。どんな些細なことでも、何か覚えてないですか」  必死さが伝わったのだろうか。香苗は、もう一度、真剣な表情で記憶を探ってくれた。 「…ああ、そういえば」  何かを思い出したように、香苗が手をぽんと打った。 「一限目が始まる前くらいだったかな。松原教授の研究室の前で見かけた気がする」 「……松原先生の?」  その名前を聞いた瞬間、悠也の眉が険しく寄せられた。  元指導教官。自分を正当に評価せず、追い詰めた男。 「うん。思い出した。すごく難しい顔してた。松原先生に呼び出されたのかも」  ――それだ。  悠也の中で、確信が生まれた。  原因は松原だ。あの男が、何かろくでもないことを吹き込んだに違いない。  すべてのピースが、ぴたりとはまった。 「笹原さん、ありがとう! 助かりました!」  礼もそこそこに踵を返す。  スマートフォンを取り出し、大学のポータルサイトにアクセスする。慣れた手付きで画面をタップし、目的の人物の講義スケジュールを確認する。  ――松原教授。今は、空き時間。研究室にいるはずだ。  悠也の目に、迷いのない強い光が宿った。  行くべき場所は、決まった。

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