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Chapter 8 : Scene 2

 松原研究室のドアは、藤堂研のそれより一回り大きい。  重厚な木目調のそれに向かい合うのは、ずいぶん久しぶりのことだった。しかも、アポなしで来るのは、松原の指導を受けていた時にもなかったことだ。  少しだけためらったが、一瞬だった。  ――中にいる男が、先生を苦しめてるんだ。  その一点だけで、悠也の心は既に決まっていた。分厚いドアを短く、強めにノックする。 「失礼します。秋吉です」  返事を待たずにドアを開けると、予想どおり部屋の主はデスクにいた。部屋の配置は、悠也が出入りしていた去年とほとんど変わっていない。  松原は椅子に座ったまま、ペンを置いて悠也を一瞥した。 「相変わらず礼儀を知らんな。――何の用だ」  指導教官だった頃とまったく変わらない、感情の窺えない表情だった。  悠也はまっすぐに部屋の中央まで進み、強い意志を瞳に込めて松原と対峙する。 「単刀直入にうかがいます。藤堂先生に何を言ったんですか」  声に怒りが自然と滲む。  香苗から聞いた話と、圭の豹変。点と線は、この男の前で繋がっているはずだった。  松原が納得したように軽く頷いた。感情の読めない瞳が悠也を見据える。 「何か勘違いをしているようだが。私は彼に忠告をしただけだ」 「忠告?」  冷静を装った口調も、無表情も、何もかもが悠也の神経を逆なでする。 「日曜日、科学館の付近で偶然見かけてね。――もしや、特定の学生に過度に肩入れをしていないか、と、藤堂くんに確認をした」  意味深な言い方。試すように値踏みするように悠也を見つめる瞳。  見られたのか。悠也の胸の奥で鼓動が不吉に跳ねる。しかし次の瞬間には、それがどうした、ときつく拳を握る。  悠也が口を開こうとするのを制するように、松原は静かに言葉を繋げた。 「それから、私の知っている、とある研究者の話をした。――私の、昔の友人の話だ。指導していた学生と一線を超え、ことが明るみになった結果、大学からも研究の世界からも追われた」 「――……」 「学生の方も、実績を正当に評価されることは二度となかった。倫理観に問題のある学生。一度その烙印を押されれば、アカデミアで生きていくことはできない」  ――そういうことか。  悠也の胸の奥で、重苦しい納得が広がる。ひどく不快で不吉なものを帯びていたが、納得は納得だった。 「なんでそんなくだらないことを、わざわざ藤堂先生に言ったんですか」 「彼なら、私の危惧を正確に理解するからだ。『くだらない』などとは、絶対に言わない」  言い返そうとした。が、言葉が出てこない。  跳ねる鼓動が速度を上げていく。自分が焦燥を感じていることに悠也は気づいた。握り締めた拳の中で、掌にじっとりと汗が滲んでいる。 「指導する立場の者が、特定の学生と特別な関係を持つ。そのリスクを、君は本当に理解しているのか?」  リスク。確かに、考えたことがないわけではない。それでも悠也にとって、そのリスクは遠い未来の話でしかなかった。圭が想いに応えてくれた幸福にしか、目が向いていなかった。 「……っ、そんなの、」  喘ぐように、みっともなく声が掠れる。 「そんなの、仮定の話でしょう。まだ何も起きてない未来の可能性の話だ」 「そうだ。可能性の話だ。――藤堂くんは、気づいたんだよ。君の輝かしい未来と才能を潰し、取り返しのつかない汚点を残す『可能性』に」  その言葉は、信じたくないのに、嫌な説得力を持って悠也の心に染み込んできた。  そうだ、あの人はそういう人だ。常に最悪の事態ばかり想定して勝手に壁を作ってしまう。  悠也の表情に浮かんだわずかな動揺を、松原は見逃さなかった。 「どうやら、少しは冷静になったようだな。君の今の行動も軽率極まりない。私が藤堂くんのことを告発することもできるんだぞ」 「――! そんなことをしたら絶対許さない!」 「落ち着け。今回は私の胸にしまっておく、と藤堂くんにも伝えた」  礼を言うべきなのかもしれないが、悠也は到底そんな心情になれなかった。状況さえ許せば、今すぐにでも松原を殴り飛ばしていただろう。残酷な現実を突き付けられた圭の苦しみを思うと、腹の底から煮えたぎるような怒りが込み上げてくる。 「いいか。藤堂くんは何より、君の未来を案じている。そのことの意味をよく考えろ」 「意味?」  松原の言い方が、悠也の怒りを煽った。到底教授に向けるものではないかもしれないが、喧嘩腰に視線を返すのを止めることができない。 「何があっても、俺はかまいません。大学辞めたって研究できなくたって、どこでだって生きていける。スキャンダルでも何でも、俺には関係ありません」  言いながら、悠也の内心で不吉に暴れていた鼓動が徐々に落ち着きを取り戻していく。そうだ。自分にとっては、松原の語る「可能性」など何の意味もない。  ――先生を守る。先生とずっと一緒にいる。目指す未来は揺らがない。 「……君は、そう言うだろうな」  松原がため息を吐いた。その表情を見ながら、悠也の中に、怒りと共にある理解が広がっていく。  ――そうか。先生は、勘違いしてるんだ。  ――二人の関係がバレて大学を辞めることになったら、俺が挫折して立ち直れなくなるって思い込んでる。  ――俺の将来のことまで考えて、一人で勝手に壁を作ってる。 「先生は、不器用で、お人好しだから」  ふ、と悠也の口から、笑みが漏れた。  場違いなその言葉と表情に、松原が眉を寄せる。  まっすぐに、悠也は松原を見返した。 「ご心配いただかなくても、何があっても俺たちは大丈夫です。だから、藤堂先生に変なこと吹き込むの、やめてください」 「――……」  松原が何か言うより早く、踵を返す。ドアを開け、出て行く前に、「失礼しました」と恭しく礼を残す。  研究室へと駆け出す悠也の表情は、晴れ晴れと輝いていた。  ――先生がどんなにくだらない心配をしようと、俺の気持ちは少しも揺らがない。  ――俺がその勘違いを解いてやればいいだけの話だ。  悠也の胸には、もはや一片の迷いもなかった。

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