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Chapter 8 : Scene 3
息を切らして、藤堂研究室のドアを開ける。
スチールラックの左手、部屋の奥の見慣れたデスクに、圭はいた。
パソコンのモニターに向かうその横顔はいつもと変わらない無表情だ。しかし今の悠也には、その静かな横顔が、一人で苦悩を抱え込む、孤独な城壁のように見えた。
――もう大丈夫です。俺がついてますから。
悠也は、強い足取りで、まっすぐに彼のデスクへと向かった。
「先生」
呼びかけると、圭はゆっくりと顔を上げた。ここ一週間、悠也に氷のような視線を向け続けていた瞳は、今はガラスのように何の感情も浮かんでいない。シルバーフレームに隠れてはいるが、目の下のクマの濃さが気になった。
「松原先生から、全部聞きました」
端的に告げる。ガラスの瞳が、大きく見開いた。直ぐに元に戻り、小さく息を吐いて悠也から逸れる。小さくチェアを軋ませ、元のようにディスプレイへ向かう。
「なぜそんなことをした」
乾いた声。
思わず戸惑った。理由? 考えもしなかった。
「先生の様子がおかしかったからですよ。デートではあんなに楽しそうだったのに、不自然すぎます」
そうだ。もっと早く、こうして話すことができていれば。もっと早く、苦しみを取り除いてあげられたのに。
「私は何も頼んでいない」
ディスプレイを向いた身体は、記憶よりも薄くなっているように見えた。
悠也の胸が締め付けられる。――抱きしめたい。そう思うのに。
「俺が勝手にしたことです」
「迷惑だ」
冷たい横顔。「氷の藤堂」という異名どおりの。それでも悠也は知っていた。その氷の仮面の下の素顔が、どれほど優しく、あたたかな情に溢れているか。
「先生。大丈夫ですから」
しっかりと、芯のある強い声で断言する。
圭の横顔が、かすかに揺らいだ。ゆっくりと、顔が悠也の方を向く。
「先生が俺の将来とか、リスクのこととか、色々考えすぎてるのもわかってます。でも、そんなの俺は気にしません」
真剣な表情で、まっすぐに圭を見つめる。
「松原先生にも言いました。俺は、大学辞めたって、研究できなくなったって平気です。どこでだって生きていけます」
ガラスの瞳に、悠也が映っている。壊れそうなほどに濡れた光を湛えて見えた。
「だから、先生はもう何も心配しなくていいんです。俺がついてますから」
悠也が口を閉ざすと、部屋には静寂が降りた。部屋の隅で、冷却ファンが回るサーバーの低い唸り声だけが、沈黙を埋めるように続いている。
圭は、じっと悠也を見上げたまま、動きを止めていた。シルバーフレームの奥の瞳には何の感情もなく、人形のように見えた。
初めて、悠也の胸に不安がよぎった。――予想していた反応ではなかった。
せめて手を握りたくなった。あのデートの日に初めて触れた、冷たい手。
手を伸ばそうとするのと、ふと圭が立ち上がるのが同時だった。悠也と向かい合うように身体を向ける。手を伸ばせば届く位置。しかしなぜか悠也は動けなかった。抱き締めたいと思っていたはずなのに。
まっすぐに向かい合う。
圭の瞳は、今はどこか優しさすら湛えて見えた。
「……何もわかっていないな」
それは、ミーティングの時のような冷たく厳しい声ではなかった。むしろ、優しい、静かな、静かな声だった。
その穏やかさが、逆に悠也の胸の奥をざわつかせる。違和感の波紋が、徐々に大きくなっていく。
「無理もない。秋吉はまだ学生だ。社会を知らない。だからそんなに前向きでいられる。――ずっとそのままでいてほしいと思うが」
「……先生?」
何を言っているんだ?
思考が追いつかない悠也の前で、薄い唇が滑らかに言葉を繋いだ。
「松原先生の言ったことは、すべて事実だ。私と秋吉が今の関係であり続ける限り、お互いにリスクを抱えたままになる。……私は、自分のキャリアを失いたくはないし、秋吉の将来を潰したくもない」
「だから俺はそんなの平気だって!」
「私が、平気じゃない」
圭の唇が、小さく戦慄いた。
「聞こえなかったか? 私は、自分のキャリアを失いたくない。秋吉の将来を潰した張本人だと誹られるのも真っ平だ」
「嘘だ」
意識するより早く、口が勝手に動いていた。
「先生はそんな人じゃない! 違うでしょ。俺のためなんでしょ?」
おかしい。理由のわからない焦りに炙られる。自分は、圭を励ましにここに来たはずだ。何も心配することはないと、元気づけようとしているはずだ。
なぜ、圭に縋り付いているような気持ちになっているのだろう。
圭が、じっと悠也を見つめた。それから視線だけを少し下げ、ふ、と笑った。――確かに、口端が上がった。しかしそれは、デートの日に悠也が目にしたのとはまったく違う、柔らかさも温度もない乾いた笑いだった。
「重いな」
頭が真っ白になった。
「私には無理だ、秋吉。そんな重い愛情は受け取れない。…窒息しそうだ」
血の気が引いた。何か言おうと開いた口から、言葉は出てこない。
圭がかすかに俯いた。白い指が、シルバーフレームを静かに押し上げる。いつも見惚れていた、眼鏡を直す端整な所作。
再び悠也を見つめた顔には、悠也があまり目にしたことのない静かな表情が浮かんでいた。
「私の浅はかな決断で、秋吉を惑わせてしまった。――本当に、申し訳ない」
「……なんで、謝るんですか」
声が、震えた。
「先生は、なにも悪いことなんて…」
「終わりにしよう」
静かな一言。
――違う。
――俺は、そんな言葉を聞きに来たんじゃない。
「短い間だったが、本当に楽しかった。ありがとう」
圭の視線が下がった。まるで頭を下げるように。表情が、見えなくなる。
「……不甲斐ない、こいびと、で、すまない」
囁くように届いた声は、聞き間違いかと思うほどか細かった。
「もちろん、引き続き指導はする。――秋吉が望むなら、だが」
最後の言葉は、悠也の耳を素通りした。
悠也が信じていた光が、音を立てて消えていく。
悠也を支えていた、自信も、愛情も、未来への希望も、すべてが足元から崩れ落ちていく。
何も言い返せない。
圭の目は、もう悠也を見ていない。俯くようにディスプレイに向いている。もう話すことはないと、言葉ではなく拒絶する白い横顔。
勝手に、身体が動いた。
油の切れた機械のようにぎこちなく、踵を返す。悠也の視界の端を、圭のデスクの隅で影のようにうずくまる小さな箱が掠める。ネイビーとシルバーの色合い。かすかな既視感はすぐにどこかへかき消える。
すべての色が消えた世界の中、悠也は、よろめくような足取りで扉へと向かった。
背後で、彼の愛した男が、どんな顔をしていたのか。それを確かめる術は、もう、永遠に失われた。
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