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Chapter 9 : Scene 1

 世界から色が消えた。  圭に、完全な終わりを告げられてから数日が経っていた。  藤堂研究室の、いつもの自席。窓の外では、梅雨入り前の鈍色の雲が重く垂れ込めている。  悠也は、ぼんやりとパソコンのモニターを眺めていた。  複雑な数式と解析途中のデータが表示されたディスプレイ。身体はいつもと同じように研究室に来てデスクに向かっている。指は慣れた手つきでキーボードを叩き、マウスを操作する。話しかけられれば返事をする。笑いが起これば同じように笑いもする。  しかし、そこに心はなかった。  いつもなら一瞬で解ける方程式を、もう十分以上見つめている。数式の文字が、ただの記号の羅列にしか見えない。学生たちの話し声も、機器の作動音も、すべてが遠い。マグカップを取り上げて口をつける。コーヒーの味がしない。  生きている、という実感がない。悠也という人間の、中心にあるべき核が、ごっそりと抉り取られてしまったようだった。  その核が何なのか、悠也にはわかっていた。  研究室の奥、スチールラックの向こう側。  あの日以来、悠也は、「先生」と呼ぶことすらできなくなっていた。  姿はラックに隔てられて隙間からしか窺えない。それでも気配は常に感じていた。デスクで静かに作業をしている気配。他の学生に声をかけられ、静かに指示を与える声。誰かと席でディスカッションしている会話の断片。  時折、学生エリアに現れる凛とした姿は、悠也の知る優秀で冷静な准教授のまま。  何も変わらない。  変わってしまったのは、悠也と圭の関係だけだった。  ふと、近くの席の水島が、声を潜めて佐伯に話しかけているのが聞こえた。 「ねえ、センセ、最近ちゃんと寝てないんじゃない…? 目の下のクマ、やばいよ?」 「だよねえ。なんか顔色悪い。だいじょぶかな」  悠也は、モニターから目を離さずにその会話を聞いていた。  ――知っている。  あの人が無理をしていることくらい。でも、もう自分の知ったことではない。  ――俺の腕の中でなら、きっと安心して眠れるのに。 『重いな』  短く告げられた乾いた声が、悠也の耳の奥にずっと残っている。伸ばした手を拒絶したのは、圭の方だった。  虚ろな瞳がディスプレイを映している。  時計の針が午後を指し、週に一度の個別ミーティングの時間になった。  悠也は、空っぽの頭で書き上げた中身のない進捗レポートを手に、圭のデスクへと向かった。心臓は不思議なくらい静かだった。以前は、何よりも楽しみな、緊張と期待で張り裂けそうな時間だったのに。 「……失礼します」 「ああ」  圭は、悠也の顔を見ない。悠也も、圭を見ない。二人の視線は決して重ならない。 「ここ。考察が浅いな」 「……はい」 「先行研究との比較が不足している。やり直せ」 「……はい」  会話は、それだけだった。  以前は、悠也の発想を褒めてくれた。未熟な考察を叱ってくれた。鋭い問いで新たな閃きへ導いてくれた。指導教員と学生というより、共同研究者のように息の合った応酬。刺激と興奮に満ちたきらめくようなやり取りは、もうどこにもない。 「ありがとうございました」  空虚な時間。空虚な会話。終わっても、空しいとすら思わなかった。  そのまま踵を返しかけたとき――ふと、視界の端に細長い箱が見えた。  圭のデスクの、キーボードの奥。影に隠れるように置かれた、上質なネイビーのラッピング。丁寧に結ばれたシルバーのリボン。  ――俺が贈った、万年筆。  あの日、別れを告げられた日も、そこにあったのだろうか。気づかなかった。いや、見る余裕がなかった。  ラッピングは解かれていない。リボンも、綺麗な形のままだった。  ずきり、と、心が痛んだ。 『重いな』  蘇る、乾いた声。  ――そっか。重かったのか。  ――先生の指に、似合うと思ったんだけどな。  使う気にもならないほど、迷惑だったということか。  視線を切る。  何も言わずに、自分のデスクへ戻った。

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