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Chapter 9 : Scene 2
気づけば、夜だった。
悠也が抜け殻になっている間も、変わりなく世間は動いている。研究を進める気力があろうがなかろうが、小さなものから大きなものまで様々なタスクが悠也の上に降り積もる。何も考えずに済む忙しさに、悠也は初めて感謝した。
一緒に研究室に残っていた大学院生が帰宅し、悠也は一人になった。圭は、夕方から外出してそのまま直帰している。
そろそろ帰ろうか、と、カバンをデスクへ載せる。と、カラビナにぶらさがった、明らかに子ども向けのデザインのキーホルダーに視線が留まる。
科学館でもらった、恐竜のイラストが描かれたキーホルダーだ。
『今日の記念です。初デート記念日』
呑気に笑っていた自分の言葉を思い出す。そう言われた圭が、一瞬驚いた後、照れたように視線を逸らした反応も。
――あのときも、「重い」って思ってたのかな。
滑らかな丸い縁を指で撫でながら、かすかに心が軋んだ。幸せそうに楽しそうに輝いていた表情も、過去を語ってくれた穏やかな表情も、すべて偽りだったのか。
と、背後でドアの開く気配がした。反射的に振り返る。
「おー、悠也じゃん。まだいたの?」
「なんだ、野々村かよ」
ため息を吐いて向き直る。野々村は午後からずっと離席していた。
「誰だと思ったんだよ。てかまだいたの? 何してんだよ」
「帰ろうとしてたとこ。お前ももう出る? なら施錠するけど」
「……。あー…」
自分の席に置いたままだったカバンを取り上げ、野々村がふと止まった。悠也は、キーケースを取り出そうとして首を傾げる。
「どした?」
悠也の問いには答えず、野々村は椅子に腰を下ろすと、キャスターで悠也の隣へ滑るように移動してきた。
何やってんだよ、と笑おうとして悠也は止まった。野々村の顔がひどく真面目だったからだ。
「――野々村?」
「俺さ」
悠也のデスクに肘をついて、悠也を見遣る。
「香苗さんと、別れた」
目を見開いた。
「……いつ」
「おととい…じゃないか。火曜日」
野々村は、自嘲するように笑った。
「なんでだよ。あんなにラブラブだったじゃん」
驚きすぎてひどく平坦な声が出た。無意識に自分のキーホルダーに視線を落とす。
野々村はがしがしと頭を掻いた。
「なんでだろうな。なんか、原因はコレって言えねえわ。わかんねえ」
理由のわからない別れ。ずきり、と自分のことのように胸が痛む。
「…なんだそれ。ケンカでもしたのか?」
「まあ、そんな感じ」
煮え切らない返事をしながら、野々村の視線は下を向いている。考えをまとめているのだろう、と、悠也はおとなしく見守った。
やがて、ぽつ、と小さく言葉が零れた。
「将来どうすんだ、って話になってさ」
悠也も野々村も四年生だ。大学院への進学も選択肢にはあるが、香苗としては気になる話題だろう。
「ああいうときって、落ち着いて論点整理して議論するとか絶対無理なんだな。よくわかったわ」
「――……」
「香苗さんと一緒にいたい、って言ってんのに。まじめに考えろ、とか言われてさ」
頬杖をついた野々村の顔はどこか虚ろだった。最近、毎朝鏡の中で見るのと同じような、空虚な目。
「なんか勝手にヒートアップして、挙句、社会に出たらもっとかわいい子いっぱいいるよ、だってさ。…ひどくね? だから俺もつい、信じてないのか、って怒鳴っちゃって」
深いため息。デスクに突っ伏した野々村の後頭部を、じっと悠也は見つめた。
「香苗さんの言ったこと、絶対本音じゃねえじゃん? 俺は社会に出たってずっと香苗さんのこと好きでいたいし、香苗さんだってそれ望んでるはずじゃん? ……なのに、なんでそんなウソつくんだろ」
――『私は、私のキャリアを失いたくない。秋吉の将来を潰した張本人だと誹られるのも真っ平だ』
不意に、圭の声が脳裏に蘇った。そうだ。圭も、悠也に嘘を吐いた。
嘘を吐いた理由はわからない。ただ、「嘘だ」と見破った悠也に、圭は笑った。初めて見る乾いた笑いだった。
そして。
「……重いんだろ」
悠也の口から零れた言葉を聞いて、野々村が突っ伏した姿勢のまま、顔だけを上げる。
「重い? ずっと好きでいたいって言うのが?」
「わかんねえけど。たぶん」
圭の拒絶は、そういう意味だった。「そんな重い愛情は受け取れない」と、はっきり告げられた。
野々村が眉を寄せる。
「ワケわかんねえ。重くたって俺が傍で支える。っつってもダメなの?」
「ダメだろ。そう言われること自体がもう重いんだ」
「…嫌いになったってこと?」
ぼそり、と零れた問いに答えることができず、悠也は視線を逸らした。そして、ふと気づく。
「……いや。……そうじゃない、と、思う」
「ますますワケわかんねえ。じゃあどうしたらいいんだよ」
ギブアップ、というように、天井を見上げるように仰向いた野々村の傍らで、悠也は、胸の奥がひどくざわめくのを感じていた。
何か、とても大事なことを見逃している気がする。
――『重いな』って言った後。先生は何を言った? どんな顔をしてた?
記憶を遡る。そして辿った記憶は、ひとつの、聞き逃しそうなほどか細い声につまずく。
『……不甲斐ない、こいびと、で、すまない』
俯いた顔は見えなかった。しかしその直前まで、シルバーフレームの奥の瞳には、涙の膜が張り詰めていなかったか。
拒絶されたはずだ。徹底的に。完全に。悠也の存在は、愛情は不要だと、手を払い除けられた。それは間違いない。
なのに――ふと気づいてしまった、かすかな違和感。正体が分からないのに、無視できない。
「香苗さん、俺と付き合ってる間ずっと、本当は何考えてたんだろ」
野々村のため息に、悠也もため息を重ねた。
何かに届きそうで、結局何にも届かない。答えは見えない。
「……もっと、ちゃんと見てたら良かったのかな」
力のない野々村の声に、悠也は答える言葉を持たなかった。
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