26 / 33
Chapter 9 : Scene 3
六月二十六日、土曜日の夜。
藤堂研究室の明かりは、週末だというのに煌々と灯っていた。理系の研究室に曜日の概念は希薄だ。とはいえ、さすがに夜も更けてくると、人の数はまばらになる。
悠也は、自席で課題を進めていた。離れた席で、水島が同じようにPCに向かっている。圭は離席中で、研究室に残っているのはこの二名のみだった。
マウスを操り、キーボードを叩く。スクロールバーをスライドして流れる文字列をチェックする。抜け殻同然だった自失状態からは、ようやく少しずつ回復し始めている。
目の前の作業に集中する傍ら、頭のどこかで、昨夜の野々村とのやりとりを思い出す。
何かに届きそうで届かない、もどかしい感覚。今日、圭の姿を見れば何か閃くものがあるかもしれない、と思ったが、完全に錯覚だった。昨日までとまったく変わらない、視線も合わない虚しい空気があるだけだった。
たぶん、本当にただの錯覚だったのだろう、と思う。
昨日閃きそうになった「何か」は、圭を諦めたくない未練がましい本音が見せた、都合の良い幻想なのだろう。
そしていつか、時間とともに記憶の底へ沈んでいくのだろう。
――研究室、今から替えるのはキツイよな……。
現実的な問題を考え始めた自分に、内心で笑う。
――ま、なんとかなるか。
もう少し時間が経てば、圭とも普通に接することができるようになるはず。悠也にとって、そうして本心を隠して人と付き合うことは造作もないことだ。卒業まであと一年足らず。来年の三月までやり過ごせばいい。
――俺の本音を見つけてくれた、初めての人だったのにな。
どうしても浮かんでしまう、未練。ダメだダメだ、と頭を振ったとき、背後から悲鳴が聞こえた。
「もー! 誰だよ、裏紙逆に入れたやつー!」
振り向くと、水島がプリンタの前で怒鳴りながら給紙トレイを開けていた。立ち上がって歩み寄る。
「A4ですか。俺、見ますよ」
「あーもう。お願い」
水島がぷりぷり怒りながら席へ戻る。課題の締め切りが相当切羽詰まっているらしい。
排紙トレイにぺらりと残されたA4の紙を取り上げる。乱雑に書き込まれた手書きの文字の上に、整然と印刷されたレポート本文。裏面は白紙。よくあるセット時の間違いだ。
小さく苦笑いし、給紙トレイの用紙の裏表をざっと確認してセットし直す。
「OKです」
「ありがと」
プリンタにデータランプが点灯するのを一瞥してから、放置されたミスプリントを取り上げる。捨てるか、と破ろうとしてふと、殴り書きされた文字の一点に目が留まった。
『Excellent!』
どこかで見た筆跡だ、と見直すまでもなく、脳裏に答えが閃く。提出した課題の赤入れで、何回か見たことがある筆跡。悠也の課題にその文字が書かれていた時は、嬉しくて子どものように胸が高鳴った。
――先生の字だ。
紙をじっと見つめる。印字された文字の下の、乱雑な文字列。直線、曲線、ひらがな、カタカナ、アルファベット、数式。まるで何かの試し書きのような――艶やかなインク。
まさか、と、小さく鼓動が跳ねる。
周囲を見回す。とあるファイルに目を留め、分厚いそれをラックから取り出す。各種申請書のファイル。種類に分けて日付順にとじられた書類の束を捲り、手書きの文字をチェックする。
六月一日、三日、八日――ごく普通のボールペンだったり、ゲルインクだったり。もちろんすべて圭の筆跡だが、使っているペンは様々だった。いかにもその場にあった適当なペンで書きました、という感じだ。そして圭はそういう人だ。
しかし。
――十四日。
この日から、違った。
艶やかでくっきりとした、美しい黒色。整った筆跡がより一層凛と映える、滑らかな軌跡と鮮やかな発色。
一目見て、適当なペンとの違いがすぐに分かった。明らかにレベルの違う筆記具。
学生への指示書、回覧書類のサイン、消耗品の申請書。すべて、同じ、美しい黒色のインクに変わっていた。
六月十四日を境にして――昨日のサインも、同じインク。
心臓が、大きく跳ねた。
弾かれたように走る。スチールラックを回り込む。今は無人の、圭のデスク。
あった。
デスクの片隅、キーボードの奥。
ネイビーのラッピング、シルバーのリボン。
掴み取る。明るい照明の下でまじまじと見つめる。
埃を被っている、と思い込んでいた。見向きもされていない、と思い込んでいた。
「……なんだよこれ」
埃ひとつない。
上質なネイビーの包装紙は、悠也の記憶の中と同じ艶やかさを保ちながら、角がほんの少しだけ潰れていた。シルバーのリボンは、繰り返し解いては結び直された名残を残して、少しだけ皺が寄っていた。
箱をひっくり返す。ラッピングを留めているテープ。その端だけが、小さく捲れている。ここを起点にして幾度も剥がしていたのだろう。大切に。丁寧に。ラッピングすら傷付けないように。
「秋吉ー? 何やってんの?」
水島が入り口から悠也を見ていた。リュックを背負って、もう帰宅するらしい。悠也が手にしている箱を見て取り、ああ、と軽くうなずいた。
「それ、なんだろね。センセがデスクに無駄なモン置くわけないし」
「――……」
「まあ大事なもんだろうから、あんま触っちゃだめよ。じゃ、あたし帰るから」
「……お疲れ様でした」
ドアが閉まる音はもう聞こえていない。跳ね回る鼓動の音。
そっとリボンを解く。包装紙を剥がす指がかすかに震える。
ベルベット地の箱を開けた。
深い夜空の色をした、美しいマーブル模様の万年筆。
金色のペン先に微かに残るインクの痕跡。購入時より明らかに中身の減っているインク瓶。
「使ってる……」
声にならない声が、喉の奥で引っかかる。
心臓の音がうるさい。込み上げる熱の正体が、悠也にもわからない。今にも身体を破って暴れ出しそうな。
――なんで。
『ありがとう。大切に使う』と言いながら悠也を見つめた、いっぱいに涙を湛えたきれいな瞳。
『重いな』とつぶやいたときの、乾いた笑い。
わからない。頭がぐちゃぐちゃになる。叫び出したくなる。
その時、ドアが開いた。
圭が帰ってきた。弾かれたように振り向く。
圭は、自分のデスクに悠也がいることに驚いたように足を止めた。それからその視線は、悠也の手の中の箱へ移動し――はっと息を飲んだ。
「……!」
見つかってしまった、と、その表情ははっきり伝えていた。容易に見て取れる狼狽。
その瞬間、悠也の中で何かが弾けた。
手にしていた箱を取り落とす。デスクの上に落ちた重い音は既に耳に届いていない。
大股に圭に歩み寄る。自分がどんな表情をしているのか悠也には分からなかった。ただ、まっすぐに見つめた先で、圭の双眸がわずかに怯えて揺れた。
手を伸ばす。襟元を鷲掴みにした瞬間、圭の身体がびくりと震えた。
構わず、乱暴に傍らの壁に押し付ける。背と壁がぶつかった所為か、圭がわずかに苦しげに表情を歪めた。
「なんで何も言ってくれないんですか」
自分の声が思ったより平坦に響いたことに、悠也自身が少し驚いた。心臓は今にも壊れそうなほど激しく脈打っているのに。
圭は、小さく口を開いたが、何も言わなかった。感情が見えない冷たい瞳はいつものことなのに、今は悠也を激しく苛立たせた。
「重いんじゃなかったんですか。窒息しそうだって。そう言ってたじゃないですか。――じゃあ、なんで」
ぎり、と、襟を掴む指先が白んだ。呼吸がかかりそうなほど近くに顔を寄せる。
「なんであんな大事にしてるんだよ。捨てろよ、俺が贈ったものなんか。迷惑なんだろ!?」
重い沈黙が二人の間に落ちた。
荒い呼吸音だけが、静寂を破っている。悠也のものだった。
圭はすぐには口を開かなかった。じっと、シルバーフレームの奥の瞳が湖面のように静かに悠也を見上げていた。
やがて、薄い唇が開いた。
「誤解するな。あれは、私の戒めだ」
悠也は目を見開いた。襟を掴む指先がわずかに力を失う。
「……戒め?」
「秋吉という素晴らしい才能を、軽率な一時の情で潰しかけた。その戒めとして置いている。それだけだ」
淡々と乾いた無表情な声。学生に指導するときと同じ声色。
――嘘だ。
その白い顔を見据えながら、悠也の体温がゆっくりと上昇していく。怒りのせいだ。こんな稚拙な嘘を吐いてまで逃げようとする圭に対しての。
「一時の、情、ですか」
一語一語を噛み締めるように、悠也は繰り返した。自分でも驚くほど低く冷えた声だった。
万年筆をあんなに嬉しそうに受け取ってくれた記憶も。カフェで穏やかに微笑んでくれた時間も。あの冬の日、悠也の腕の中で震えながら涙を流した温もりも。何もかもを一時の情だと切り捨てるつもりなのか。それがどれほど白々しい嘘か、この人は気づいていないのか。
――違う。
気づいていないわけがない。分かっていて、それでも嘘を重ねるしかないと思い込んでいる。自分を罰するために、悠也を遠ざけるために。
突き上げるような憤りが胸を焼く。圭に対してだけではない。圭にこんな嘘を吐かせる自分に対しても。
ぐ、と、再び力を込めて襟元を捻り上げる。圭の眉が苦しげに歪む。
「俺に、そんな嘘が通じるって本気で思ってます?」
答えはない。ただ、シルバーフレームの奥の瞳が悠也の視線を受け止めているだけだ。
湖面のように静かな瞳。しかしその奥に、確かに何かがきつく張り詰めている。触れれば弾けそうな。
『不甲斐ない、こいびと、で、すまない』
不意に、脳裏に、鮮やかに蘇った。聞き取れないほどか細い声。見えなかった表情。
悠也の胸が、きつく締め付けられる。
そうだ。馬鹿げた嘘は、刃だ。悠也を遠ざけるための――同時に、自分を罰するための。
その真実に気づいた瞬間、ふと、圭が顔を逸らした。そして、襟を掴む悠也の手に冷たく白い指がかかる。
「離せ」
いつもの冷静な声を装おうとして、しかし完全には隠しきれない震えが混じっていた。
その小さな綻びがはっきりと聞こえた瞬間、理性が飛んだ。
「――……!」
強引に重ねた唇は、温かかった。
驚愕で硬直した隙を突き、深く舌を滑り込ませる。
「ッ、ゃ……め…、」
悠也を突き放そうとする手首を捉え、壁へ縫い付ける。そのまま深く、呼吸すら奪うように舌を深く絡め合わせる。震える呼気を無視し、竦む舌を捻じ伏せ、執拗に口中を荒らす。
衣擦れの音。もがく身体を、身体ごと壁に押し付ける。背けようとするのを追いかけて更に深く食らう。
技巧ではない。ただ滾る激情をぶつけるだけのキス。
ふたつの唇の狭間で漏れる吐息が、細く上擦る。
少しずつ、重なる身体から力が抜けていく。絡めた舌も、いつの間にか、悠也にすべてをゆだねるようにされるがままになっていた。
その従順な反応が、衝動を煽る。理性の制止は遠く、貪るように執拗に再び押し入ろうとした――そのとき。
ふと、圭の手がもがくように悠也のシャツの肩口を弱々しく掴んだ。抵抗というより、何かに縋るようなか細い動き。指先に込められた悲痛なほどの力に、はっと悠也は衝動から引き戻された。
「――、……」
ゆっくりと唇を離す。
間近に、真っ赤に染まった圭の顔があった。薄く開いた唇から、まだ乱れた息が漏れている。潤んだ瞳は焦点が定まらず、背後の壁と悠也のシャツを掴む手だけが、崩れそうな身体を支えていた。
激情とは違う、締め付けられるような愛しさが胸を満たす。悠也は空いていた手で、熱に浮かされた圭の頬にそっと触れた。
「嘘つくの、やめてください」
薄く涙で潤んだ瞳が、明らかに動揺に揺れた。
「――う、そ…なんか、」
かすれた声で否定しようとするが、その声自体が震えている。
頬に触れた手が、俯こうとする動きを止める。
「っ、やめろ…」
圭の指が、その悠也の手首を掴んで剥がそうとする。力はほとんど入っていない。
悠也は構わず、圭の身体を再び壁へ強く押し付けた。
まっすぐにシルバーフレームの奥を見つめる。
「ほんとは大事にしてくれてるんでしょ、万年筆。なんで嘘つくの」
「――……」
今までずっと悠也の視線を受け止めていた瞳が、伏せられた。長い睫毛が震えている。悠也の手首を掴む白い指が、わずかに力を込めた。
「…もう、……やめてくれ、…」
瞳を閉じ、力なく頭を振る。
悠也の胸の奥で滾っていた激情が、すう、と冷える。
虚勢。
そんな言葉が脳裏をよぎった瞬間、霧が晴れるようにすべてが見えた。
――言えないんだ。
悠也の言葉に、答えることができない。本当のことが言えない。だから嘘で武装し、刃のような言葉で悠也を遠ざけようとする。
思い当たってしまえばひどく単純なことだった。なぜ気づかなかったのか、と、冷えた胸の奥が締め付けられる。
伏せられた瞳を見ながら、そっと、右の親指で頬を辿った。こうしてあらためて向かい合ってみれば、目の下に残るクマの濃さに胸が痛んだ。頬に触れていた手を名残惜しむようにそっと離す。手首を掴んでいた圭の指も、自然に解けた。
「ごめん、先生」
ぴく、と圭の肩が揺れた。俯いた顔は上がらない。
「俺、先生のこと、こんなに追い詰めてたんですね」
自分の声が、震えているのが分かった。
圭は何も答えない。ただ、壁に背を預けて俯いたまま動かない。表情は見えない。
「好きだから。先生のこと大好きだから、何でもできるって思ってた。何があったって平気だって…そう、思い込んでた」
声が、みっともなく上擦りそうになる。息を吸い込んで整える。
「でも、俺、まだ学生だから、見えてないこと、たぶんいっぱいあって、」
目の奥がじんと熱い。込み上げる熱いものを懸命に堪える。見慣れた研究室の風景が、涙で滲んで歪む。
「先生の気持ち、ちゃんと考えてなかった。…俺がやったこと、全部、先生を苦しめてたのかな」
その言葉は、問いかけの形をしていながら、ほとんど確信に近い響きを持っていた。
圭が、小さくかぶりを振る。それが肯定なのか否定なのか、悠也には分からない。
「先生と、恋人らしいこと、したかっただけなんだよ。ほんとに、先生の恋人に、なりたかった」
声が詰まる。ついに堪えきれなくなった涙が、頬を静かに伝った。
滲む視界に、細く震える肩が映った。ああ、と悠也は思った。今、この人も同じように泣いているのだと。
また、泣かせてしまった。つきり、と胸の奥が痛む。この人の涙をもう何回見ただろう。他人の前で泣くような人じゃないはずなのに。
衝動のまま、俯いたままの小さな頭を柔らかく抱き寄せた。抵抗することなく委ねられた温もりに、悠也は深く息をついた。
「…もう、いいよ。理由なんて、もうどうでもいい」
両腕で、優しく抱き包む。こうして体温を重ねるのはいつ以来だろう。
何があろうと、どれだけ激情が吹き荒れようと、結局最後に残るのは、どうしようもない愛おしさだけだ。
「嘘ついててもいい。俺のこと、重いって思っててもいい」
声が優しく震える。
「俺の存在自体が先生を傷つけるんだって言われても、もういいから」
「……っ」
腕の中で、圭が小さく首を振った。まるで子どものような仕草に、悠也の胸に温かいものが広がる。自然と、唇の端が上がった。
わずかに身を離す。自然に、視線が重なる。
「だから、最後にひとつだけ――本当のこと、教えて」
シルバーフレームの奥から悠也を見上げる瞳。いつも冷静な光を宿していたはずの双眸は、今はただ潤んで揺れている。
「先生は、どうしたいの?」
涙でいっぱいの瞳が、大きく見開かれた。
悠也の胸がつきりと痛む。分厚い氷の仮面を剥がせば、その下にある瞳はこれほどに無垢だ。
視線を交わしたまま、沈黙が落ちる。
「わたし、は――」
やがて、圭が小さく戦慄く唇を開いた。
「秋吉を、……立派な研究者にしたい」
「違うでしょ」
悠也は優しく頭を打ち振る。掌で頭を撫でる。じっと悠也を見上げたままの瞳が震えていた。
「俺のことじゃなくて、先生自身は?」
声音を更に優しくして、もう一度尋ねる。
「先生は、本当はどうしたいの。どうなりたいの」
薄く開いたまま、圭の唇が震えた。
禁忌に触れたように、悠也を見上げる瞳が揺れ、伏せられる。何かを堪えるように固く結んだはずの唇が、しかしすぐにまた戦慄き、薄く開く。
悠也は、じっと待った。待つことしかできなかった。
やがて小さく、震える息が漏れた。同時に、聞き逃してしまいそうなほどか細い言葉。
「――望んでは、いけないんだ」
口にした直後、圭自身がその言葉に驚いたように硬直した。
そして、まっすぐに悠也を映したその瞳から、大粒の涙が、堰を切ったように次々と溢れ出した。
悠也は言葉を失った。息を詰めるようにして圭を見つめる。
「わたしは、…人を、愛せない」
掠れた声を契機に、嗚咽とともに堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「あんな大切なものを受け取っては、いけなかったのに。きっと私は、何もかも忘れてしまうのに。……こんな私は、秋吉にふさわしくない。だから、望んではいけない。そう、思って――」
悠也の胸が苦しくなる。いつからそんなことを思っていたのだろう。恋人になった時から、ずっとこんなふうに自分で自分を断罪していたのだろうか。
――本当に?
途切れることのない涙を優しく拭っていた悠也の手が、ふと止まる。
脳裏に蘇る、ネイビーとシルバーのラッピング。
もう一度、その濡れた瞳をまっすぐに見つめ返した。
「……ほんとに? ほんとに先生は、人を愛せないの?」
しゃくりあげながら、圭がこくりと頷く。
その答えを聞いて、悠也は圭の力なく垂れた手をそっと取った。躊躇うことなく、その冷たい指に自分の指を絡ませる。
「――っ」
驚きに見開かれた無垢な瞳に、悠也は悪戯っぽく笑いかけた。
「検証しましょう」
静かな、しかし温かい確信に満ちた声で告げる。
驚く圭の手を引いて、デスクへと向かった。
さっき悠也が落とした、細長い箱。ベルベットの箱を包むラッピングは、先刻悠也が開いたせいで、中途半端に解けかけていた。
いつものチェアに圭を座らせ、悠也は、箱ではなく外側の包装紙をそっと取り上げて圭の掌の上に載せた。
「見て」
圭に向かい合って膝をつく。ネイビーの包装紙をひっくり返す。端だけが捲れたテープ。
何度も貼って剥がしてを繰り返したせいで、そこだけ薄くなった包装紙。何度も同じところで結んだせいで、皺の寄ったリボン。
ひく、と、圭の嗚咽が漏れた。肩が揺れ、涙の雫が落ちる。
「先生がほんとに人を愛せないかどうか、俺にはわからない。――でも、ラッピング見ただけで、俺のプレゼント、めちゃくちゃ大事にしてくれてるってわかった」
ネイビーのラッピングを大切に包む白い指。その上に、そっと悠也は手を重ねた。
「俺が好きになったのは、そういう人なんだよ」
悠也の声が愛しさに震える。
「感情がわからない、人を愛せないって言いながら——俺の気持ちを、こんなにも大切にしてくれる人」
悠也の手の下で、圭の指が小さく震えた。自然に、悠也の指をきつく掴んでいる。小さく笑って悠也も指を絡め返した。
「もう一回聞くよ。――先生は、どうしたい?」
俯いた圭の視線がゆっくりと上がった。涙でぼろぼろになった顔。以前も見たことがある。そして悠也は今回も、きれいだ、と思った。
その唇が、何かを言おうとして、戦慄いては閉ざされる。
とめどなく溢れ落ちる涙。揺れる瞳。
震える白い指をきゅっと握り込んだまま、悠也はそのすべてをじっと見守った。
やがて、圭が、唇を引き結んだ。緩く下がっていた視線を、まっすぐに悠也へ向ける。
「秋吉と、……ちゃんと、こいびとになりたい」
時間が、止まった気がした。
ああ、やっと聞けた。ずっと聞きたかった、この人の本当の望み。――込み上げる感情の波に、視界が霞む。胸の奥が熱くて、苦しくて、でも幸せで。
握っていた手が離れた。
圭の白い指が、ぎこちなく上がる。確かめるように、両掌で悠也の頬に触れる。
今は少し高い位置にある圭の瞳を見上げたまま、悠也は動かない。かすかに震える指が頬を撫で、こめかみと耳朶を滑り、後頭を包む。
探るように、確かめるように、恐る恐る抱き寄せようとする力に、悠也は抗わなかった。
されるがまま、圭の、白いワイシャツの胸元へ顔を埋める。清潔な柔軟剤の香り。
「――ッ…!」
もがくように腕を伸ばす。圭の背をきつく抱き締め返しながら、悠也の両目がじんと滲んだ。
「……すまない。秋吉」
涙に濡れた圭の声に、悠也は、ただ小さく頭を振った。一度溢れた涙は、もう止まりそうになかった。
腕の中に、確かにいる。
その温もりと、シャツ越しに伝わる背骨の硬さが、これが夢ではないと教えてくれる。
張り詰めきっていた心と身体から、ゆっくりと力が抜けていく。やっと、まともに息ができた気がした。
背中に回した手に感じる、まだ残る小さな震え。それがこの数週間の圭の孤独を物語っていた。
もう二度と、この人を一人で苦しませはしない。その誓いと共に、悠也は腕に力を込めた。
やがて、圭が静かに顔だけを離した。シルバーフレームの奥の瞳は真っ赤になっていた。自分の目も赤いのだろうか、と悠也はやや照れ臭くなりながら、しかし視線を離すことはできなかった。
「先生、目、真っ赤だ」
悠也が、無理に笑ってそう言うと、圭も、ふ、と、本当に久しぶりに、心の底からの笑みを、はにかむように浮かべた。
その無防備な笑顔に、悠也の胸の奥がきゅっと甘く締め付けられる。
――もう一度、抱きしめたい。キスしたい。今度は、ちゃんと甘いキス。
そんな悠也の思いを見透かしたかのように、圭が、そっと片手を上げた。
「秋吉」
涙を拭ってくれる指先は冷たいが、優しかった。
「――うちに、来ないか」
悠也の心臓が、大きく跳ねた。
涙の名残がひとしずく落ちて、圭の指を濡らした。
ともだちにシェアしよう!

