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Chapter 10 : Scene 1
タクシーの車内では二人とも無言だった。
普段の通勤では電車を使っているが、今はとてもそんな気にはなれなかった。人目が気になるというより、二人きりでいたい気持ちが抑えきれない。――はやく、誰にも邪魔されない場所で。
無言のままタクシーを降り、エントランスを抜けてエレベーターへ。鏡張りの壁に映る自分たちの姿がなぜかひどく照れ臭い。
圭は、階数表示のランプだけをじっと見つめていた。隣で、秋吉が同じように少し緊張した面持ちで立っている。その気配がくすぐったかった。
自室のドアの前で、一度、深呼吸をした。
ポケットから鍵を取り出す指先がわずかに震えているのに気づき、見られないようにそっと握り込む。軽い金属音がして、ロックが外れた。
「…どうぞ」
ドアを開けて先に身体を入れる。振り返ると、秋吉が、どこか神妙な顔つきで中へ入ってきた。
玄関で靴を脱いでいる秋吉に、入ってすぐ右手にあるドアを指す。
「手洗いは、そこだ」
言いながら、左手のドアを開けた。
暗い部屋の壁のスイッチを入れると、白い光が、がらんとした空間を照らし出す。
六畳ほどの、ダイニングキッチン。一応ラグは敷いているが、ソファも、テレビも、ローテーブルすらない。冷蔵庫と電子レンジのみ。
あまりにも殺風景すぎるかもしれない。初めてそんな風に思った直後、足を踏み入れた秋吉が、案の定目を丸くした。
「え、先生、メシどこで食ってんすか?」
「ここだ」
部屋の隅にある、壁際に作り付けられた小さなカウンターを指差す。その前に、小さな丸椅子がぽつんとひとつ。明らかにテーブルとして使うには狭すぎるスペースだが、一人で食事を摂るには十分だった。
荷物はそのへんに、と言いかけて、圭は言葉に詰まった。そのへん、と言われて困るほど、スペースが有り余っている部屋だった。
――人を招くような部屋ではないな。
今更ながらそんな考えが頭をよぎる。この部屋に自分以外の人間を招き入れたのは、今日が初めてだった。
その事実に気づいた途端、圭の口の中が渇く。小さく喉仏が上下する。
にわかに、ぎこちない空気が二人の間に降りてきた。圭の視線が泳いでいるのを見て、秋吉も居心地悪そうに身じろぎする。緊張が伝染したのか――いや、恐らく、秋吉も同じように緊張している。
「…少し待っていろ」
秋吉の顔をまともに見られなくなり、圭は、やや早口でそう言い残して、ダイニングの奥にある寝室のドアを開けた。
どきどきと心臓がうるさい。クローゼットの一番奥に隠すようにしまっていたビニールの袋を取り出す。
ダイニングに戻ると、秋吉は、どこか手持ち無沙汰な様子で部屋の真ん中に突っ立っていた。
「先にシャワーを浴びてこい」
差し出した袋を見て、秋吉が大きく目を見開く。スウェットの上下と、下着。すべて新品だ。
「いいんですか、これ」
「買っておいた」
圭は、バスルームのドアを開いて洗面所と一体になった脱衣室へ入ると、白いタオルをカゴへ置いた。
ありがとうございます、と小さな声で呟く秋吉とすれ違いながら、視線を合わせられない。いつ新品を用意したのか聞かれなくて良かった、と密かに胸を撫で下ろす。
やがてシャワーの音が聞こえ始めると、びく、と圭の肩が大きく跳ねた。
さっきからずっと、心臓が内側から身体を破って飛び出してきそうなほど激しく脈打っている。
――駄目だ。落ち着け。
圭は、シャワーの音から逃れるように、再び寝室へと避難した。間接照明を点けると、ベッドだけが置かれた簡素な寝室の光景が浮かび上がる。
ここ最近まともに眠れなかったせいで、ベッドをあまり使っていないのは幸いだったかもしれない。安堵しながら、わずかに乱れたシーツを神経質なほど丁寧に直した。動いていないと緊張でどうにかなってしまいそうだった。
そしてふと気づく。
次は、自分がシャワーを浴びる。
その間、秋吉は?
困った。暇を潰せるようなものなど何ひとつない。スマホでも眺めているだろうか。テレビでも買っておけば良かった、と人生初の後悔をしながら、ダイニングを抜けてもうひとつの部屋へ入る。
本棚で埋め尽くされた壁と、パソコンの置かれた大きなデスク。圭が思考するための部屋。いつもなら、この空間にいくらでも座っていられるし、むしろ座っていたいと思う。しかし今はそれどころではない――これも、人生初のことだ。
デスクの上に置いていた読みかけの論文集をいくつか掴み、ダイニングへ戻る。
足が止まった。
息を飲む。部屋の中央に、髪を白いタオルで拭いている秋吉がいた。
濡れた髪。湯上がりの、少し上気した肌。圭に気づいて振り返った秋吉と、まともに目が合った。
爆発するように、頭に、顔に、全身に熱が昇る。反射的に視線を逸らす。頬が熱い。発火しそうだった。
「あの、」
「これを」
何か言いかけたらしい秋吉にまともに顔を向けられないまま、手にした冊子を押し付ける。
「少し時間がかかると思う」
早口で言い、返事を待たずに浴室へ向かった。秋吉の目がなにか言いたげに揺れていたが、もう一秒たりとも見ていられなかった。
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