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第36話

 何も言わずとも矢田が選んだ店へと足を運ぶ流れになっており、いつもいつも彼のペースに飲まれていくな……と長谷は自分を笑う。  あまりお洒落な店だと困るななどと考えていると、古いが雰囲気のいい佇まいの定食屋の前で矢田が立ち止まった。  長年この辺りで色々な飲食店に行っていたはずなのに、こんな所に店があったのか。と驚いたが、そういえば最近はいつも似たような場所に行っていたような気もする。  そういうところから老いが始まるのかもしれない。と気持ちを引き締めていると、その様子を見ていた矢田がおかしそうに笑った。 「何一人で百面相してるんですか」 「え!?あ、そうかい……?」 「そうですよ。さ、行きましょう」  がらがらと音を立てながら矢田が引き戸を開けると、人の良さそうな老夫婦がいらっしゃい、と声をかけてきた。  隅にある二人用の席に向かい合って座ると、すぐにご婦人がお冷やとおしぼりを持ってきて、素早くテーブルに置かれた。 「ここ、ヒレカツ定食が美味しいんですよ」  矢田がいつの間にか開いていたメニューを指差しながら珍しいタイプの笑顔を見せてくる。年相応に見えるその表情に何故だか少しの罪悪感が芽生えたが、こちらも年季の入った作り笑いで対応する。 「そうなんだ。僕もそれにしようかな」 「大丈夫ですか?胃もたれとかしません?」 「なっ……僕だってまだ焼肉の食べ放題とか行けるんだぞ」 「ふは、冗談ですよ。ほんと可愛いな……」 「それもあまり言われると本気にしてしまうよ?」  自分にも言い聞かせるように言い放つと、矢田は別にいいですよ、なんて呑気なことを言いながらご婦人を呼んでヒレカツ定食を二つオーダーした。  別にいい、だなんて軽く言ってくれるじゃあないか。僕は案外重い男なんだぞ……と長谷が頭の中でぐるぐると考え込んでいると、矢田が足首で長谷のふくらはぎをするすると撫でた。  テーブルの下とはいえ、ただの上司と部下にあるまじき接触に長谷が目を丸くすると、頬杖をついた矢田の目が細められる。  いつになく甘ったるい空気に耐えられなくて目を逸らし、お冷やを飲み下すとその冷たさに若干の頭痛がした。 「ねえ、部長」 「な、なんだい……?」  矢田が口を開き音を発する直前に、ご婦人がお盆に乗せられた定食を二つ運んできた。  鼻腔をくすぐるカツとソースの良い香りに思わず目を輝かせると、矢田が小さく吹き出した。 「食べましょっか」  いただきます、と二人同時に手を合わせ、カツを一切れ持ち上げる。ずっしりとした重みと適度に切られた油の輝きに圧倒されながらも少し冷まして一口かじると、じゅわりとした食感とともに肉の旨味が口に広がった。

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