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第37話

「おいしい」  思わず長谷が呟くと、矢田が自分のカツを咀嚼しながらにんまりとする。 「でしょう?」  飲み込んだ後でどこか自慢気に言われ、長谷は頷くしかなかった。  軽く仕事の会話をしながら、同じペースで定食を食べ進めていく。ほどよく冷めるまで待っていた味噌汁を一口飲むと、だしの香りが鼻に広がり実家を思い出して落ち着いた気持ちになった。 「君はいい食堂を見つけるのが上手いんだね」 「意外とこの辺入れ替わり激しいですし、色々開拓するのが趣味ではありますかね。そのなかでもここはずっと好きです」  彼のセンスは確かに長谷の目から見ても良くて、他の客も多すぎず少なすぎず落ち着いており、自分自身ももう一度ここへ来たいと思う場所だった。 「うん……僕も、好きだよ」  好きという言葉を紡ぐのは、こんなにもしんどいものだっただろうか。と長谷が感傷に浸っていると、何かを思いついたらしい矢田が口を開いた。 「部長、今夜も俺の家来ませんか」 「え……?」 「難しかったらいいですけど」 「行く、行くよ」  若干前のめりになって言うと、矢田がおかしそうに笑う。 「積極的な部長、なんかグッときますね」 「積極的……?」 「今夜はリベンジさせてください」  何のリベンジだろう、と長谷があらぬ方向に思考を広げていると、それを察したらしい長谷が小声で茶化す。 「料理の、ですよ。譲さんのスケベ」 「なっ……」 「まあ、明日も仕事ですからそっちはお預けですかね」  まるで自分がセックスしたがっているような前提で話を進められて、長谷の顔に熱が集まる。それを冷ますように一気にお冷やを流し込んだ。  ほぼ同じタイミングで最後の一切れを食べ終わり、手を合わせる。店の居心地の良さで錯覚していたが、かなりゆっくりして会社に戻って一息ついてから仕事に戻れそうな時間で驚いた。 「部長、ゆっくりできたでしょう」  全てを見透かしたような矢田の発言に、長谷は思わずどきりとする。ありがとう、と何とか絞り出すと矢田は嬉しそうにしていた。  会計を済ませ、店を出て会社に戻る途中で朝声をかけられた矢田の同期に再び声をかけられる。 「もしかして矢田、部長と一緒にメシ食べたのか?矢田ばっかり部長と一緒にいるのズルいんだけど」 「ズルいってなんだよ。たまたま仕事の相談乗ってもらってただけだっつうの」 「そうだよ、君も何かあったら遠慮なく誘ってくれていいからね」  長谷が発した一言で、こちらを見た矢田の空気が少しだけひりつく。何かまずいことを言っただろうか、と思ったら矢田の同期が詰め寄ってきた。 「じゃあ、明日は俺と食べてください。俺も聞きたいことあって……」 「わかった。じゃあ明日ね」 「ありがとうございます。じゃあ俺、ちょっと早く戻らなきゃなんで」  たた、と走って戻っていった矢田の同期の背中を見送ると、矢田が長谷の腰辺りを小さく小突く。 「部長。自分が人気あること自覚したらどうですか」 「人気……?」 「部長は知らないかもしれないけど、アンタの信者みたいな人……多いんですよ」  矢田の発言に戸惑っていると、「なんでもないです」と少し眉間にしわを寄せた矢田が歩き出したので慌ててついていく。  会社に戻るまでの無言の道のりが、いつになく遠く感じた。

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