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第一話「二十三歳リセット」
閉じられていた瞼がひくひくと動いたあと、ハクはゆっくりと目を開けた。宝石のように美しい青みかがった瞳が、白い天井を見ている。人形の目のような完璧な造形美だが、そこには確かに人間の生命力が宿ってる。
オレは安堵の息を吐き、掛け時計を見た。薬草を服用したのが十九時。今の時刻は朝の七時。ほぼ予定通りの目覚めだった。
「おはよう。どこか痛かったりしない?」
声に反応し、ベッドの左横にいるオレを見る。しばらく迷ったような顔をし、小さく首を横に振った。
「そう、よかった」
部屋をぐるりと見渡し、自分が包まれている真っ白い寝具を見て、また天井へと視線を彷徨わせる。何一つ見覚えがないのだろう。薬草は的確に効いてしまったのだ。オレのことが誰なのか、ここがどこなのか、きっとハクは分かっていない。
「海?」
窓の外へ視線が動き、驚いたように声を出した。
「そう。海。ここは客船の中。世の中では豪華客船と呼ばれるような、大きな大きな船の客室だよ。揺れは全く感じないでしょ?ビルを横にしたみたいに大きくて安定感があるから、安心して」
上半身を起こそうとするハクの背中にそっと手を添え、アシストする。
「海しか見えない」
「外、出てみる?バルコニーがあるから、風に当たれるよ」
迷っているように、また視線が彷徨う。真ん中で分けている真っ黒く柔らかい前髪が、目にかかって鬱陶しそうだった。だから、ごく自然に手を出してその髪を手櫛で整えようとした。
ビクッと怯えたように、ハクが身体を強張らせる。
「あっごめん」
ハクはオレを覚えていない。頭では分かっていたはずなのに。ため息を飲み込んで、唇を噛む。
オレは気分を変えたくて、ベッド横の椅子から立ち上がり、大きなガラス窓の前に立つ。綺麗に磨かれたガラスに映るオレは、大きな特徴のない姿をしている。背は高い方だけど、ハクのように特別美しいわけでもない。髪は黒く、顔の作りも極々平均的。だからハクに見た目で恐怖心を与えたりはしていないはずだ。
一歩踏み出し窓を開けた。部屋の中に海の匂いが流れ込む。そのまま室内履きでバルコニーへ出て、大きく伸びをした。
一月の今は「南極・南米クルーズ」の最中だ。南半球は真夏で、今朝は快晴とはいえ気温が低く、少し寒く感じる。
船が世界各国の寄港地に着いても、不特定多数の人と会わぬようハクは下船を許されていない。だからオレも、船が今現在どこを航行しているか、気に留めないで生活をしている。船の中は、身元が確かな者と、検査された荷物しか乗り込めない。それはハクにとって大変都合がいい。
後ろを振り返れば、白いシルクのパジャマを着たハクがしっかりとした足取りでこちらに歩いてきた。
「カーディガン羽織る?」
ハクは首を振って、バルコニーに出てきた。
「本当に海の上だ」
風が頬を撫でてゆく。海は穏やかで深く青い色をしていた。
ハクは不安と闘うかのようにパジャマの上着をきつく握りしめている。オレは声色に悲しみが乗らぬよう意識して伝えた。
「ルームサービスを頼もう。コーヒーを飲んだらこの状況を説明するよ」
ノックの音がして、オレがドアを開ける。
「ハーイ!おはよう、ハク。おはよう、ルイ」
「おはよう、カール」
オレだけが返事をする。ハクは以前から無口なので、カールは異変に気がついていない。
「ハク、一週間の休暇中なんだって。休むことは大切だよ。うん、確かに今日はとても顔色がいい。元気そうでなによりだ。ていうかその黒髪、染めたのかい?とても似合うよ。アジアンビューティーって感じだ」
そう言いながら、窓際のテーブルにコーヒーカップをセッティングしてくれる。この部屋はデラックススイートと呼ばれる広めの部屋なので、テーブルもそれなりに大きい。
「これは、うちのコック長から。シュリンプとアボカドのサンドイッチ。好きだろ?ハク。しっかり食べろよ」
陽気なカールは、反応の薄いハクを気にすることもなく、手を振って部屋を出ていった。
「食べれそう?」
コクリとハクが頷く。リセットのお陰で体調の悪さは一掃されたようだ。ポットに入っていたコーヒーをカップに注いでやれば、いい香りが立ち込めた。
「食べながら話そう」
そう促せば、まだパジャマ姿のハクが、コーヒーに口をつける。酸味の少ない味にホッとしたようで、表情筋が少し緩んだ。記憶を失っても、このコーヒーを好きなことは、変わらないようだ。
オレは、この船の総支配人であるイツキから託されたファイルを、頭の中で捲る。何度も何度も読み込んだから、全て頭に入っている。
リセットの目的
・溜め込んだ穢れを全て忘れるため
リセットしても、ハクが覚えていること
・歌いたいという気持ち
・食べ物、飲み物、色などの好み
・言語(日本語、英語)
・日常生活に関わること(例えば歯を磨く、着替えをするなど)
忘れてしまっていること
・自分の名前
・なぜここにいるのか、生い立ち、家族(教団のことを含め)
・他人の顔、名前、その人の存在そのもの
・この船のこと
・自分の能力について
・リセットについて
自分が誰で、ここがどこか分からなかったら、パニックを起こし取り乱してもおかしくない。彼が妙に冷静でいるのは、こんな状況に陥ったのが初めてではないからだろう。頭のどこかに、前回、前々回のリセットの経験値が残っているのかもしれない。
「まず、君の名前から。オレたちは「ハク」って呼んでる」
「ハク……」
「うん。いい名だよね。それからオレのことは「「ルイ」って呼んで」
「ルイ……さん」
「呼び捨てでいいよ。オレたちは同じ年だ。二人とも一月生まれ。誕生日は一日違いで、ハクのほうが一日だけお兄さん。数日前に二十三歳になったんだよ」
ハクはどこか他人事のように、話を聞いている。
「それからこの船の名前は「シャングリラ号」。五千人以上の乗客に、千五百人以上の乗員が乗って世界を旅している」
「そんなにたくさん」
「そう。五千人の休暇を楽しむ世界各国のお客さんと、一握りのVIPセレブたち。一般のお客さんと、VIP客は船の中でも、過ごす場所が違うんだ。オレたちは、そのどちらにも行き来できるパスを持っている。この船の中は散歩し放題だよ」
ハクはお腹が空いてきたようで、サンドイッチにそっと手を伸ばす。気に留めていないフリをして、オレはハクが問題なく咀嚼して飲み込めるかを見守る。
あぁ、大丈夫だ。本当にすっかり元気になっている。その点については、リセットしてよかったと心から思えた。
コック長手製のサンドイッチが、美味しかったのだろう。色白で綺麗な顔の口角が満足げに上がった。ヤバい、ちょっと涙が出そうだ……。
「食事が終わったら、船内を散歩しよう。かなりゴージャスだから楽しめると思う。その前にシャワーを浴びて着替えるといい。着替えはそこのクローゼットに色々あるから、好きなものを選んで着て」
「船の中なのに、シャワーが浴びれるのか?」
「もちろん。ジャグジーだって、プールだってある。毎日の生活には何一つ不自由ないから安心して。オレ、一時間後にこの部屋へ迎えに来るから」
「あっ、ル、ルイはどこか行くのか?」
一人にされるのが不安なのだろう。今現在、きちんと認識している他人はオレだけなのだから。
「左隣がオレの部屋なんだ。何かあったらノックして。オレもシャワー浴びてくるよ」
昨日まで、オレたちはこの部屋で一緒に寝起きをしていた。オレは隣の自室へはほとんど帰らず、ここで長い時間を過ごしていた。でも、リセットされてしまった今、男同士二人で同じベッドに寝ていたことは、彼にとって理解しがたい事実だろう。
また少しずつ距離を詰めていくしかないのだ。
ハクはオレに聞きたいことが、まだまだ山ほどあるはずだ。でも、何から聞いていいか分からない。おそらくそんな状態だろう。少し一人の時間を設け、頭を整理させてやらなければならない。
これも、イツキのファイルにアドバイスとして書かれていたことだった。
オレは一番近いカフェに寄って、テイクアウトのホットドックとアイスコーヒーを注文する。船内ではパスを提示すれば、基本的に支払いをする必要がない。
店員が目の前でソーセージを焼いてくれている間に「ハクは無事に目を覚ましました」と、イツキに端末からメッセージを送った。シャングリラ号のオーナーであるジンには、イツキから報告が行くだろう。
自室に戻ったとたん、身体の力が抜けていく。熱々のホットドックをテーブルに置き、ベッドに倒れこんだ。
リセットによってハクは健康を取り戻した。穢れが溜まり、弱っていく辛そうなハクをそばで見ていたから、元気になってくれて本当によかった、そう思っている。けれどオレのことは、きれいさっぱり忘れてしまった。愛し、愛されていた関係は終わってしまった。いや、それはここ数ヶ月散々悩み、やむなしと認めたことだ。オレも、そしてハクも覚悟の上で行ったことだ。
ただ、こうしてまた新しいサイクルが始まったということは、また二年もすればハクの穢れは溜まってしまい、再びリセットを選択しなければならなくなるということだ。
このサイクルから、ハクを救い出したい。できればこの船から降ろして、陸地を踏ませてやりたい。歌わずに暮らせるようにしてやりたい。そのために自分ができることを模索していかねばならない。
一時間後に隣の部屋をノックすると、予想していたとおり、薄水色のストライプシャツに濃紺のチノパンを身に着けていた。イツキのファイルに記載されていたように、やはり好みというのは、変わらないのだ。
だとしたら、またオレのことを好いてくれる可能性も大いにある。
「シャングリラ号の中を案内するよ。ハクのことを知っていて挨拶してくる人もたくさんいると思う。そしたら、とりあえず微笑んでおいて。オレがフォローするから」
「なぁ、どうして俺は自分のことも、船のことも、昨日のことも、ルイのことも、何も覚えていないんだ?」
このタイミングで、いきなり核心を突かれた。でも、この質問の答えは、ハクが薬草を飲む前から、考えていた。過去二回のリセットに付き添ったイツキからの、一度に全ての情報を伝えたら混乱してしまうというアドバイスを踏まえて、決めてあった。
「病気だよ。それで強い薬を使って治療したんだ。治療の影響で記憶がリセットしてしまった。それは薬を飲む前のハクも了承していたことだよ」
嘘と本当が混ぜこぜになった曖昧な説明。目の前のハクは懐疑的な眼をオレに向ける。それでも強引に会話を進める。
「ハクの身体は今、病気の影響で体力が落ちているんだ。だから少し痩せてしまっているし、筋力も衰えてる。でも病気はもう治ったから安心して。シャングリラ号にはジムもあるから、一緒に通おう」
「どうして、どうしてルイはそんなに俺に親切にしてくれるんだ?」
「オレのこの船での職業は、ハクのマネージャーだからね」
「マネージャー?」
「ハクはね、このシャングリラ号のVIP客のために歌う、とびきり人気の歌手なんだよ」
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