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第二話「ハクの歌声」
ハクは、ほぼ毎日VIP客のために歌わされていた。三十分のステージを二回か三回こなしていた。VIP客のほとんどは、このハクの歌声を聴くために豪華客船シャングリラ号に上船してくるのだ。
「ハク、休暇中なんですって?たまにはゆっくりするといいわ」
ジェラート屋の店員メアリが、カラフルな色が並ぶショーケースの前で、何味にするか頭を悩ませているハクに言う。
「このところ、随分と疲れた顔をしてたもの。今日は元気そうで、安心したわ。それにその黒髪、とってもキュートだわ」
「ハク、そんなに悩まなくても、あとでまた食べたらいい。明日だって、明後日だって食べれるんだから」
オレが口を挟んでも、まだ考えている。
「マンゴーと抹茶のダブルで」
「悩んだ割に、結局いつもの組み合わせじゃない」
メアリはそう笑って、コーンの上にオレンジ色とくすんだ黄緑色を器用にのせてくれた。
「ありがとう」
ハクはうれしそうにジェラートを受け取った。
「俺が休暇中ってみんなが言うけれど、それはいつからいつまでのことなんだ?」
カフェの、大きなガラス窓から海が眺められるソファ席に座り、ハクはジェラートを食べ始める。
まずはマンゴーをスプーンですくい、口に放り込んだ。冷たいからか、美味しいからか眼を細める。きっとその両方だろう。
「ハクはオーナーのジンから、一週間の休みをもらっている。最初の一日は、部屋でゆっくりと過ごした。そのときは体調が悪かったから、部屋のベッドでゴロゴロしていたよ」
オレと一緒に、とは言わない。
三日前、二人でハクの記憶がリセットされてしまう前の時間を目一杯に味わった。ベッドの上でイチャイチャして、愛の言葉を囁き合って、二人とも感傷的になるのを必死に避けて、笑い合って。あの時ハクは言ってくれた。
「また必ずルイを好きになるから安心しろ」
オレはその言葉を信じたい。
「二日目は朝から何本か点滴をして、夜に薬を服用した」
点滴でウトウトするハクに、オレが口移しで煎じた薬草を飲ませた。
「そして昨日の朝、ハクは目覚めた。そこからは覚えているよね」
「あぁ」
「昨日は船内を少し歩いただけで疲れてしまって部屋に戻ったけど、今日は大丈夫そうだね」
「昨日より身体が軽い」
やはりあの薬草の力はハクにとって強靭なのだ。ハクにしか効かない神聖なものなのだ。こういうとき彼が男巫なのだと思い出す。
「そう、よかった。明後日にはベストの体調になるって説明を受けてる。そしたらジムで体力作りを始めよう」
「分かった。それでいつから仕事を?歌なんて歌えないぞ、俺は。知っている曲だってなにも無い」
「うん。三日後にピアノを弾くマユミさんと打ち合わせがある。それまでは歌のことは考えなくて大丈夫。仕事はマユミさんと打合せた二日後から再開だよ」
とても不安そうな顔をしたけれど、「そうか」とだけ言って、ハクは抹茶のジェラートを口に運んだ。
過去二回のリセットに立ち会った総支配人イツキのアドバイスが記されたファイルは、常に頭の片隅にある。
それに従い、ハクが自分自身と向き合うための一人時間を意図的に作るよう心掛けていた。オレからしたら心配だし、ずっとそばにいたかったけれど、これもハクの頭の整理のためだと理解していた。
明日はマユミとの打ち合わせだという夜、ピザが美味いバイキング形式のレストランで夕食を取った。
「ここは賑やかだな」
レストランには小さなステージがあって、派手なラメ入りのスーツを着たジョウが、昔流行ったロックを生バンドで歌っていた。客も盛り上がって、クラップしたり、コールアンドレスポンスに応えたりしている。
ハクはピザを頬張りながら、ジョウのパフォーマンスをじっと見ていた。
「ジョウ、お客を乗せるのが上手いよね。客船で歌うのが天職だっていつも言ってるよ」
「客も楽しそうだ」
オレは、ハクがジョウのパフォーマンスに聴き入っていることに、もっと注意を寄せるべきだったのだ……。
食後、二人揃って部屋まで戻り、ドアの前で別れた。
「じゃ、また明日。朝食の前に声を掛けるよ」
「分かった」
ドアノブに手を掛けたハクの横顔が美しく、愛おしい気持ちが込み上げてくる。目が離せず、つい見つめてしまう。
「どうかしたのか?」
「ごめん、なんでもない」
「……あのさルイ。俺、マネージャーである君に本当に迷惑を掛けていると思う。申し訳ない」
「迷惑なんて」
「何か間違った行動をしたら指摘してくれ。今の俺は判断材料が乏しくて、分からないことだらけだから。ルイに頼るしかないんだ。面倒をかけるけど、どうか、明日からもよろしくお願いします」
そう言って、ハクは深々と頭を下げた。
「やめて、ハク。頭を上げて。オレに遠慮なんてする必要はないんだ」
「けど、俺はルイの時間をたくさん奪っている」
「違うよ。オレがしたくて、していることなんだ」
「それはマネージャーの仕事に、含まれているということか?」
「今は、そう思ってくれてもいい。だからお願いだよ。どうか遠慮なくオレを頼って」
そうとしか言えなかったオレの顔は、感情を制御しきれず悲しみに満ちてしまっていただろう。
「おやすみ」と言い合って、オレたちはそれぞれの部屋へ入った。
ドアを閉めた途端、オレは堪らず泣き崩れる。
違うんだよ、ハク。好きだから、君が好きだからそばにいるんだ。本当ならもっとずっと一緒にいたいくらいなのに。これでも我慢して距離を置いているんだ。
ヨロヨロと窓辺のソファまで行き、倒れ込む。ハクの代わりにクッションを抱きしめ、負の感情に飲み込まれていく。涙がポロポロと溢れ続け、グジグジと宿命を呪う。ネガティブな感情に支配され、思考が鈍ってゆく。どうして、どうして、と繰り返しながら。
いつの間にウトウトしていたのだろう。ズボンの尻ポケットの端末が振動し、目が覚めた。イツキからの電話だ。
「ルイ。ハクがプールサイドで歌っているらしい。私もすぐに向います」
オレの意識は完全に覚醒する。部屋を飛び出し、プールデッキへ向かうためエレベーターに飛び乗った。
夜でも明るいプールサイドに近づくと、風の音に負けない大きな声量の歌が聴こえてきた。さっきレストランでジョウが歌っていた曲だ。
すぐに止めなければならない。そう、分かっているのに、歌声が身体に染み渡って「まだまだ聴いていたい」と強く思ってしまう。さっきまでの悲しみは霧散してゆき、幸せな気持ちを注入されるような心地で、ただただ歌声に聴き惚れてしまった。まるで身体が浮遊し、全ての苦しみから解き放たれたかのような多幸感に包まれる。
これがハクの持つ力だ。一年半ぶりに体感したけれど、やっぱりすごい。
「ルイ、ルイ!」
強く肩を揺さぶられて、我に帰った。イツキが怒鳴っている。
「何してるんです。すぐにやめさせなさい」
彼の耳には耳栓が装着されていた。
その時、揉めているオレたちに気がついたハクが、曲の途中で歌うのをやめた。
「聴衆はルイを入れて十人程度です」
周りを見渡せば、プールサイドの人たちが、神でも見るかのようにウットリとした表情で、ハクを見ていた。
「ハク!何曲歌った?」
オレとイツキの勢いに驚いたハクが「今のが二曲目だ」と小さな声で答えた。
「歌ったらダメだったのか?俺、歌手だって言われたのに自分が歌えるか不安だったし、一度歌ってみたいって気持ちもあったから。さっきレストランで聴いた曲で練習しようと……」
叱られた子犬のように、うなだれてしまった。
「ごめん。オレがちゃんと説明しなかったからだ。ハク、二曲ってことは、歌っていたのは五分くらい?」
「あぁ、それくらいだと思う」
「うん、分かった。とにかく部屋へ戻ろう。そこで説明する」
オレと共に立ち去ろうとするハクに、プールサイドにいたカップルの男が駆け寄ってくる。
「お兄さん、もっと聴かせてくれよ。アンタの歌、なんか凄かった!俺、今めっちゃハッピーな気分で、こんなの初めてだ」
女も詰め寄ってくる。
「あたしもよ。もうサイコー!ねぇ、もっと歌って。お願いよ」
歌声を聴いた皆がハクのところへ押し寄せる。
「続きを歌って!」
「ねぇ!止めないで」
オレはハクをガードするように、背後へと隠した。
「ここは私に任せなさい。早く部屋へ」
イツキに言われて、オレはエレベーターまでハクの手を引いて走った。
オレがハクの歌をプールサイドで聴いたのは、ほんの二分間程度だ。それでも効果はてきめんだ。今現在、オレの悲しみはかなり薄れ、ポジティブな気持ちになっている。この効き目は永遠には続かないだろうが、それでも、気持ちを切り替えるには、とても良い薬となった。
「ルイ、すまない。何か迷惑を掛けてしまった。プールサイドは寒くて、最初は誰も居なかったのに、いつの間にか人が集まってきて……。あのイツキという人にも、謝らないと……」
二人でハクの部屋に戻り、冷蔵庫のミネラルウォーターを、二つのグラスに注いだ。ハクは喉が渇いていたようで、ゴクゴクと飲み干す。
「迷惑じゃないよ。大丈夫。イツキさんもそれが仕事の人だから。それよりハク、具合はどう?歌を歌って身体がダルいんじゃない?」
コクリと頷く。
「あぁ、なんだか手足が痺れて、全身がだるい」
「聴いていた人は十人だけど、時間は五分くらいだから、しばらくすれば良くなるよ」
オレの悲しみは穢れとなって、ハクが負担してくれたのだ。
「ハク、両手を出して」
首を傾げながらも、テーブルの上に指の長い美しい手を出してくれた。オレは両手で温めるように包み込む。数日ぶりにハクの素肌に触れた。
「記憶を失う前のハクは、こうして手を握ってあげると、落ち着くと言っていたから」
ぎゅっぎゅっと、愛を込めて握る。
「イヤだったら、言ってね」
「……イヤではない。でも、子どもみたいで少し恥ずかしい」
照れくさそうに、目を伏せるハクが可愛い。
「どう?こうしてると少し回復した気がする?」
「あぁ。する」
「よかった。あのね、大切な話をするよ」
ハクが顔を上げてオレを見た。
「ハクの歌声は「合法ドラッグ」と呼ばれているんだ、この船に来るVIP客たちの間で。オレたちは元々「神様の声」って呼んでたんだけどね」
「ドラッグ?」
「そう。あの服用するとハイになったり、嫌なことを忘れられたりするっていうあのドラッグ」
「俺の歌が?」
「そう。聴いた人を超絶に幸せにする力があるんだ。ドラッグといっても歌声を聴いた人に副作用や依存性はないから、安心して。でも、ハク自身には体調不良というダメージが起きてしまう。だからハクの歌声はオレやイツキさんによって管理されている。歌う場所も、時間も、聴衆の数も。管理外で歌うことはトラブルを招くから、してはいけない。それを絶対に忘れないで」
もう一度、ぎゅっと強く握ってから手を離した。ハクは「俺の歌声が合法ドラッグ?」と全く理解できてなさそうに、視線を泳がせた。
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