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第三話「取り巻く人々」

「南極・南米クルーズ」の今、窓の外は明るい時間が長く、うっかりすると時間の感覚がおかしくなる。観光目的で豪華客船に乗船している訳ではないオレたちは、できるだけ時刻を意識し、リズムを崩さないよう心がけ過ごしている。  今朝も、目覚ましのアラームをセットし、いつも通りの時間に起床した。カーテンを開けていると、端末にメッセージが届く。 「朝食をご一緒しましょう。オフィサーメスで待っています」  総支配人のイツキからだ。昨日はプールサイドの件で迷惑を掛けてしまい、申し訳なかった。オレは小さくため息をついて「承知しました」と返信した。  ハクの部屋をノックするが応答はない。こういうところも、以前から変わらない。預かっている合鍵を使って部屋に入り、ベッドで眠るハクに声を掛けた。 「ハク、ハク。起きて。イツキさんが朝食を一緒にって」 「ん……」  寝ぼけているハクが、無意識に両腕をこちらに差し出してくる。まるでハグをしてほしいと甘えているかのように。 「人の気も知らないで」  少し腹が立って、いっそのこと、ぎゅっと抱きしめて、おはようのキスの嵐を降らせてやろうかと思ったが、深呼吸をして持ちこたえた。カーテンを開けて、部屋の中を海からの光で満たす。 「起きろーーー」  大声を上げると、彼はノロノロと上半身を起こした。  オフィサーメスはクルーの中でも役職が上の人が利用する従業員用レストランだ。  ハク、オレ、ピアニストのマユミの立場は、この船の中でも特殊で、オーナーであるジンの直属部隊となる。だから船のクルーたちはオレたちに、同じスタッフとしてではなく、客として接してくれる。部屋もレストランも、客と同じものを使用している。  ただ、イツキが一緒のときは、今回のようにパスを提示し、従業員用レストランを利用することもあった。 「ハク、改めまして。私がこの船の総支配人、イツキです」  目の前には、クロワッサンとスクランブルエッグとツナサラダが並んでいる。 「昨日の夜は……」  ハクがその話題に触れようとすると、イツキは手のひらを彼に向け話を止める。 「その件は、問題なく処理されました」  イツキにとって、ハクの記憶リセットに立ち会うのは三回目なのだ。ある程度のトラブルは、想定内なのだろう。  朝早くてもビシッとスーツを着こなし、乱れのないサラサラとした茶色い髪、端正な顔にフチなし眼鏡を掛けている。そんなイツキは、仕事ができる男だ。オーナーのジンと同い年で四十一歳だという。 「なにか不自由はないですか?ハク」  考え込むように首を傾げたハクは、「特にありません」と答えた。 「そうですか。記憶を無くし不安だらけでしょう。でも、あなたのマネージャーであるルイは、信用できる男です。だから安心して頼りなさい」  ハクはスクランブルエッグにフォークを伸ばしながら、コクリと頷いた。 「何かあれば、私もフォローしますから萎縮しないで過ごしてください」  その時、ガラス窓の向こうから、ゴーという音が聞こえ始めた。音はどんどんと大きくなり、空気を震わす轟音になった。この音には聞き覚えがある。 「早かったですね」  さっきまで真面目な顔をしていたイツキの口元が、うれしそうにほころぶ。 「ハク、クロワッサン食べますか?」  コクリと頷くハクの皿に自分のクロワッサンを移し「お先に」とイツキは席を立った。スキップでもしそうな軽やかな足取りで従業員用レストランを出ていった。   「どうしたんだ?」  ハクが不思議そうにイツキの出ていった扉を見る。 「さっきの轟音、ヘリコプターだよ。オーナーのジンが船に乗り込んできたんだ。イツキさんは出迎えに行ったってわけ。ジンのこと大好きだからな、あの人」 「ふーん。イツキさんはいい人そうだった。昨日のことも怒らなかった」 「うん、そうだね。オレもあの人のことは信頼してるよ」 「オーナーのジンって人はどんな人?」 「あのね、ハク。ジンには気を付けて。あの人はやっかいだ」 「どんなところが?」 「うーん、一番はエロおやじだということ。絶対にキスさせたりしちゃダメだよ」  ハクはオレが面白い冗談を言ったと思ったのだろう。笑いながらクロワッサンを頬張っていた。  子どもの頃はジンに憧れていたこともある。今は、尊敬している部分もあるし、嫌悪する箇所もある。  ハクはクロワッサンが気に入ったようで、さらにおかわりをしていた。  今日は昼にマユミとの顔合わせ予定だ。「昼前に部屋を尋ねるから」と伝えて、オレたちはジムの前で別れた。   「ここ数日、退屈で死ぬかと思ったわ。しかも夜でも明るいし調子が狂うわ」  約束のランチ時間より少し前に、豪華客船シャングリラ号の中にある寿司屋へ行くと、マユミはすでに予約した個室にいた。六人掛けのテーブルの奥に座り、ミステリー小説の文庫本を読んでいた。 「マユミさん、二年ぶりの休暇だって喜んでたじゃないですか?」 「最初の二日だけだったわね。ゆっくりできる時間を堪能したのは。私やっぱり働いてるほうが性に合ってるみたい」  そう言って、健康的でふくよかな顔を綻ばせる。 「ハク」  優しくお母さんのような口調で、ハクの名を呼んだ。実際、オレたちのお母さんだとしてもおかしくない年齢の女性だ。 「あなたにとっては、初めましてね。ハク専属ピアニストのマユミです。よろしくね。黒い髪、よく似合ってる。お寿司、大将のおまかせランチで注文しておいたわ。昨日の寄港地で新鮮な魚介類を仕入れたって言ってたから、期待できるわよ」  記憶をリセットされる前の元気なハクは食べるのが好きで、美味しそうにたくさんの量をペロッと食べた。それは細身の身体からは想像できない姿だ。歌うことに、かなりのエネルギーを使うのだろうと、イツキは分析していた。 「ハク、昨日の夜、プールサイドで歌ったんですってね」 「……申し訳ありませんでした」  姿勢を正してハクが頭を下げる。 「違うのよ。責めてない。それに私には敬語は使わなくていいわ。もっとフレンドリーにやっていきましょう」 「フレンドリーに……分かった」  今のハクは人に指摘されたことを、柔軟に取り入れようとしている。 「それで、どうだった?歌ってみて」 「どうって?」 「声はスムーズに出た?歌詞やメロディは自然と頭から溢れだした?なにより、気持ちよく歌えた?」 「失礼いたします」  声とともに引き戸が開き、寿司下駄に乗った握り寿司のセットが運ばれてくる。とても豪華なネタばかりだ。一緒にあら汁と、だし巻き卵も注文してくれたようで、テーブルの上が賑やかになる。  朝食もしっかり食べていたのに、ハクの目が期待に満ちてキラキラとしている。当然マユミにもそれが分かっていて「食べながら話しましょう」と言ってくれた。  ハクはまずイクラ軍艦から食べるだろうと予想する。案の定、箸は迷いなくそこへ伸び、口へと運ばれる。 「美味い!」 「よかったわ。リセットする直前はかなり食欲が落ちていたから、心配していたのよ」  マユミも、記憶リセットのことを知っている。この船上でそれを知るのは、ハク、オレ、イツキ、マユミ、あとはジンのみだ。 「歌は、気持ちよく歌えた。喉に違和感もなかった」 「そう、なによりだわ」 「あの曲は、レストランで一度聴いただけだったけど、歌詞もメロディも間違えなかったと思う」 「フフフ。ハク、それがあなたの特技よ。普通の人はね、一度だけ聴いた曲をすぐに歌えたりはしないの」  ハクは驚いたようにオレを見る。 「オレは十回聴いても歌えるようにはならない」 「ルイは、なんでもできるけど、歌は苦手ね」  マユミはオレのことも母親のような目線で見てくれる。 「それは、俺が合法ドラッグだって言われてことと関係あるのか?」 「「神様の声」のことね。うーん、ハクの歌声が人を最高に幸せな気分にさせるのは、声色とか周波数とか超音波のせいじゃないかしら。それは私みたいなおばさんには理解が難しい。だから私は神秘だと思ってるの」 「オレも理論は分かってない」  ハクを見てそう伝える。 「おそらく、ジンもイツキも分かってないわ。リュウだって知らないんじゃない?」 「リュウ?」  今のハクにとっては初めて聞く名だろう。 「リュウはジンの兄よ。私は会ったこともないし、詳しいことは何も知らないんだけど、二人はかなり仲が悪いらしいわ。そうでしょ、ルイ?」 「あぁ、うん……」 「兄弟喧嘩には巻き込まれたくないわよね」  マユミはそう言って、お茶を一口啜る。 「とにかく、歌の覚えがいいのは、ハクの特技よ。自慢していいことよ」  ハクが褒められると、オレも自分のことのようにうれしかった。  そんな楽しいランチの時間だったのに、個室の引き戸が声掛けもなく開けられた。三人の視線が、そこに立っていた二人の人物へと向けられる。 「ジン、私たち食事中よ。あなたも食べるならそこの椅子に座りなさい。注文してあげるから」  若くして経済界でのし上がり、この船のオーナーとなった四十一歳のジンにすら、マユミは遠慮しない。姉のような立場で、ジンにもイツキにも意見できるのは、この船ではマユミだけだった。 「マユミ、俺は新しいハクに挨拶にきただけだから、気にするな」  ジンはそう言って、ハクを見据えた。 「よぉ、変わらず綺麗な顔をしているな、髪も黒くてツヤツヤだ。ハク、俺がこの船シャングリラ号のオーナー、ジンだ」  見に来ただけと言ったくせに、ハクの隣の席に座るから、オレは警戒を強める。慣れた仕草で、親指と人指し指をハクのアゴに当て、クイっと上を向かせた。そして右を向かせ、左を向かせ、品定めするかのようにハクの顔を眺める。  長身の色男であるジンは、そんな姿も様になっていて、腹立たしい。目一杯睨みつけてやるが、効果はない。 「叔父さん。ハクが嫌がっています」  堪らずオレは止めに入る。 「なぁハク、今回は俺のことを好きになってもいいんだぜ」  そう笑って手を放した。今度はイツキがジンを睨みつけている。 「冗談だよ、イツキ」  イツキに色目を使ったあと、オレへと目線を向けた。 「ルイ。オマエ、いつまでこの船に乗っているつもりだ。姉さんがルイを返せって騒いでるぞ。大学もそのうち除名されるんじゃないか?」 「大学へは届け出を出していますから、問題ありません。母さんにも定期連絡は入れています。叔父さんの心配には及びません」 「フン。俺の元で経済学を学んでるってことにしてやってるんだ。もっと感謝すべきだな」  それだけ言って、ジンは席を立ち、個室から出ていった。残されたイツキが深々とマユミに頭を下げ「失礼しました」と引き戸を閉めようする。 「イツキ、アナタこの後、人に会うなら一旦自分の部屋に戻ってシャワー浴びなさい」  マユミがそう指摘すると、イツキの顔が面白いくらいに赤く染まる。  イツキは今朝に比べ、髪型が乱れ、スーツにはシワがより、なにより首元が数カ所うっ血している。いかにも事後です、という雰囲気にオレまで恥ずかしくなった。  ハクだけが、ジンが去ったと同時に食事を再開し、美味しそうにマグロを頬張っていた。記憶がリセットされたばかりの今、人間関係よりも確実に美味しい食事のほうが、ハクには大切なのだろう。

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