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第四話「リハーサル」
ハクの休暇も本日が最終日だ。
明日からは三十分のステージを一日に二回か三回、こなさなくてはならない。すでに総支配人のイツキから、ハクの歌を目当てに乗り込んでいるVIP客リストが、オレのところに回ってきている。それを元にステージスケジュールを組むのも、オレの仕事なのだ。
現在は、ハクに休暇を取らせるため、VIP客の乗船数をかなり制限しているはずだ。それでも、明日からしばらくの間は、日に三回のステージを開催しないと捌けないだろう。とにかく需要が多いのだ。一週間休んだ分の皺寄せがどうしても出てしまう。
オーナーであるジンが言うには、ハクの歌声を聴いて多大な多幸感を味わったセレブたちは、「もう一度、もう一度」と豪華客船シャングリラ号に乗りたがるそうだ。更に社交界で噂が広がり「私も是非、体験してみたい」と乗船希望者が殺到しているらしい。
ハクのステージを見た後は、行き詰っていた事業が好転したり、すばらしいアイデアが閃いたり、絡まっていた人間関係が修復できたりと、かなりの幸運が訪れるという。実際には、良い影響が訪れるようなパフォーマンスがハクの歌の効果で発揮できた、ということなのだろう。
ただし、希望すれば誰でもVIP客として船に乗れ、ハクのステージが見られる訳ではない。
第一に大切なのは、ジンとのコネクション。つまりハクは、ジンが経済界、政界で力を広げるにあたって、多大な貢献をしている。
第二に必要なのは、お金。三十分のステージを見るには、一人一千万円の代金が必要なのだ。
朝食へ誘うためハクの部屋をノックするが、今日も反応はない。合鍵を使い部屋へ入ると、ハクは真っ白い掛け布団の中で丸くなっている。カーテンを開け、「おはよう」と声をかけてもなかなか起きようとしない。
「朝だよ」
あまりに動かないから少し心配になり、布団の塊をポンポンと叩く。
「ハク、どこか痛い?」
のっそりと掛け布団から髪と目だけを出して「眠い」と訴えてきた。
「昨日、眠れなかった?」
そう聞くと「うん」と返事を寄越す。
「じゃ、朝食はルームサービスにしようか?」
布団の中でコクリと首が動く。
「フレンチトーストに、チーズオムレツ、ホワイトアスパラガスのサラダにサウザンドレッシングでどう?」
ハクが好きなメニューを挙げると、布団から鼻までが出てきた。
「ミネストローネも」
「了解」
食欲があるのなら、一安心だ。
イツキのファイルにも書いてあった。記憶がリセットされた直後より、数日経ってからのほうがナーバスになるので注意が必要、と。色々なことを考えてしまい、昨日は寝付けなかったのだろう。考え込むにしても判断材料が少なくて、もどかしいはずだ。
今日は午後からピアニストのマユミとステージリハーサルがある。それまではゆっくりと身体を休めてもらいたい。
ルームサービスを注文した後、ハクのベッドに腰掛けて、彼の真っ黒でツヤツヤの髪にそっと手を伸ばす。ハクは一瞬身構えたけれど、オレが髪を撫で続けていると、だんだんと身体の力が抜けてゆき、好きにさせてくれた。もしかすると、抵抗するのも面倒くさかったのかもしれない。
寝起きが悪くて、朝はとくに甘えてきたハク。「もう」と怒ったフリをしながら、それを甘やかすオレ。記憶がリセットされる前、朝のこの時間が大好きだった。カーテンが開けられた窓から大海原を見て、二人きりで波間に浮かんでいるような気分になって。わずらわしい宿命を捨てられた気がして。
「ハク。体調はどう?」
マユミが防音設備の整ったサロン室に、ハクを迎え入れた。サロン室の床にはふかふかな臙脂色の絨毯が敷かれ、天井には煌びやかなシャンデリアがぶら下がっている。このサロン室は、パスを使って入るVIPゾーンの奥にある。
「こんなところで歌うのか?」
早くもハクが怖気づいているから、背中を押して部屋の中央まで連れていく。グランドピアノが一台、高級そうな一人用ソファが二脚設置されているだけの、そう広くはないスペースだ。
「一回のステージは三十分。ハクが歌うのは六曲。お客は一回のステージにつき、二人までよ」
「二人?」
「そう。あなたの歌声は人を多大な多幸感でいっぱいにする、それは知っているわね?」
「合法ドラッグって……」
「えぇ、もしくは「神様の声」と呼ばれている。人を幸せにする分、その人の負の感情である穢れで、あなた自身が消耗するみたいなの。だからこの前、プールサイドで歌ったときも、身体がダルくなったり手足に痺れがでたでしょ?」
コクリとハクが頷く。
「一回のステージが三十分なのも、お客が一回に二人なのも、あなたの身体を負担から守るためよ。三十分歌い終わったら、一時間の休憩を取るわ。その間、奥の控室で横になって身体を休めてちょうだい」
スムーズに説明が進んでいく。マユミもイツキと同じく、ハクの記憶リセットに立ち会うのは三回目なのだ。ハクは納得がいったような、いかないような微妙な顔をして説明を聞いていた。
「それで俺はなんの曲を歌うんだ?」
「五曲は固定で決まった曲があるの」
「五曲ともポップス、世界中の人が皆知っている往年のヒットナンバーだよ。もちろんハクが歌い飽きたら変更することも可能」
オレがそう補足すると、ハクは「ふーん」と相槌を打つ。
「今日はまずその五曲を覚えてほしいの。私がデモンストレーションとして歌ってみせる以外にも、歌詞と譜面をペーパーで用意したわ。それから音源はこのタブレット端末に入れてある。貸し出すから何度でも部屋で聴いてちょうだい」
「残りの一曲は?」
「六曲目は、お客からのリクエストね。前日までにルイがお客と面談して、リクエスト曲を決めてくる。当日の午前中に覚えて、夕方の本番で歌ってもらうわ」
「そんなことできるのか?三ステージ分ってことだろ?」
「譜面台に置いた歌詞を見ながら歌唱するから大丈夫よ。それに忘れたの? ハク。この前プールサイドで一度聴いただけのジョウの歌を、歌えたでしょ。あなたには、それができるのよ」
「いや、日本語か英語の曲なら覚えて歌うことはできると思う。でも、上手に歌えるのかは分からないだろ?」
「……そうね、ハク。あなたの不安はよく理解できる。けれど、今まで歌ってきた中で、お客が満足しなかったことは一度もないわ。みんながみんな、あなたの歌声に釘付けになるのよ」
「マユミさんは、どう思ってるんだ?オレの歌はそんなに上手いのか?」
マユミは、一旦オレを見てからハクに告げた。
「上手よ、とっても。自信を持って。でもね、ハク。こんなことを言ったら、混乱すると思うんだけど、私、あなたの歌声をほとんど聴いたことがないの」
「え?」
「ステージであなたが歌っている間、私は耳栓をしていて、あなたの口の動きに合わせピアノ伴奏をしているのよ」
「どうして?」
「あなたの歌声はそれほどに貴重なの。私の耳に届いていたら聴衆が三人になってしまって、あなたの負担が増えてしまう」
「負担て、具合が悪くなるって意味か?」
「ええそうよ、穢れのせい。目安として私が認識しているのは、一人の聴衆なら連続で一時間は倒れずに歌うことができる。二人なら三十分、四人なら十五分。聴衆の数と具合の悪さは比例するの」
ハクの顔は不安そうに曇る一方だ。
「だからね、練習やリハーサルはこの防音設備のあるサロン室に鍵を掛けて一人きりで、もしくは耳栓をした私とだけ行うわ。誰かに聴かせてはダメ。これがあなたの身体を守るための決まり事」
そこからマユミはテキパキと、ハクとオレをソファに座らせ、テンポの良い固定の五曲を歌ってみせた。次に歌詞カードをハクに手渡し、もう一度歌ってくれる。
「ではハク、次はあなたが歌ってみましょう」
あとは耳栓をしたマユミに託し、「ハク、終わる頃に迎えにくるから頑張って」とオレはサロン室を出た。
一時間後に迎えに行くと、ちょうどハクとマユミがサロン室から出てくるところだった。ハクは疲れた顔をしている。
「明日は十七時、十八時半、二十時の三ステージよ。よろしくね。朝食後に、一度ここへ来てちょうだい。リクエスト曲のリハーサルをしましょう。その曲の音源を渡すから、タブレットも必ず持ってきてね」
視線を彷徨わせて何か言いたげなハクが、彼女を見据えた。
「なぁに?ハク」
マユミはやさしい声で、ハクが喋るのを促す。
「あのさ。俺は、これを「やりたくない」って言うことはできないのか?記憶が消えてしまったのをきっかけに、歌うのをやめたい、船を降りたいって、そういう相談は誰にしたらいい?船から降りれないなら、レストランで働いてもいい。歌以外の仕事を選ぶことはできないのか?」
この質問にはさすがにマユミも驚いたような顔をする。正直、ステージがスタートして日々のルーティンになってしまえばハクも納得すると思っていた。マユミもオレも。
記憶を失ったハクの苦悩に、全く寄り添えていなかった。
「アテンション。オール、パッセンジャーズ 」
ちょうどそのタイミングで、船長からの館内放送が入った。
現在展望デッキにて、南極の流氷の上にペンギンとアザラシを、さらにその間を泳ぐクジラを見ていただけます、というお知らせだった。
「貴重な機会よ。二人で見てらっしゃい」
マユミがオレたちに向かってニッコリと笑う。
「ハク。ルイはね、あなたのマネージャーといってもお世話係や、スケジュール管理をするためにいるんじゃないのよ。自分の気持ちを彼によく話してみなさい。一人で考えなくていいのよ」
ハクの表情が少しだけ穏やかになる。
「それからルイ。ハクを心配して伝えることを制限しているのは、よく分かるわ。でも、全体像が掴めることで、ハクが安心できることもあると思うの。全てはハクの身に起きていることよ。ハクには知る権利があるわ」
オレは頷く。
「さぁ、早く行かないと、ペンギンが逃げちゃうわよ。あっ、一旦部屋に戻ってダウンコートを羽織りなさいね。風邪をひくわよ」
やっぱりマユミはお母さんみたいだ。ジンの姉であるオレの母親とは、全くタイプの違う母親像だけれど。
お尻を叩いて急かされて、オレたちは部屋に戻るエレベーターへ乗った。
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