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第五話「歌の持つ力」

 乗客の多くは、すでに客船から小型ボートに乗り換え、氷山を目指すオプショナルツアーに向かっている。展望デッキにペンギンを見に出てきているのは、そのツアーに参加しなかった人々だ。 「見て、ハク!あそこあそこ。ペンギンが何匹もいるよ。歩き方、可愛いな」 「ルイ、あっちにはクジラが。うわっ近い。すごいな」  二人で夢中になって野生動物を目で追う。外は寒く、ダウンコートを羽織っていても、頬か痛いくらいに冷たくなる。 「……ルイ、記憶が無くなる前の俺はペンギンを見たことあったのか?」  目線は流氷に向けたまま、ハクが問うてくる。 「シャングリラ号は、一年前にもこの航路を通ったんだ。そのときも、こうしてオレと二人で流氷を見たよ。でもアザラシしか居なかった。その前の年のことを聞いたら「一緒に見る人がいなかったから展望デッキに上がらなかった」って、ハク言ってたな」 「そうか。ルイはいつからシャングリラ号に?」 「オレは、一年半前。大学四年の夏休みに乗せてもらって、それからずっと乗っている」 「ずっと?どうして?」 「ハクが、ハクがいたから……だよ」 「え?」 「ハクは、今二十三歳。この船に乗ったのは、十七歳らしいよ」 「そんなに?」 「そうそんなに。そしてね、十九歳と、二十一歳のときにも、今回と同じ薬を服用して記憶を失っている。つまり今回が三回目の記憶リセット」  冷たい風がビューと吹く。流氷の上のアザラシが、一匹ドボンと海に飛び込み水飛沫があがった。 「三回。……それは四回目もあるってこと?この先俺はまた記憶を失うかもしれないってことか?」 「うん」  ハクは遠くに見える氷山を見たまま「ふーん」と他人事のような返事をした。 「ねぇ、聞いてもいい?」  こっちを向いたハクが「なに?」と返事をくれる。 「記憶を失って目覚めたとき、どんな感じだった?」 「どうもこうも。覚えてないから寂しくも、悲しくもないよ。空っぽって感じ。たださ、数日が経って、なにか大切なことを忘れてるって気がし始めて。いつも俺の隣には何かがあったんだ。温かい何かが。それが俺を守ってくれて、包んでくれていた。忘れちゃいけないものだったはずの何か。でもそれが何だったか、今は少しも思い出せない」  あぁ、涙が零れてしまいそうだ。 「なぁ、ルイはそれが何か知っているか?」 「うーん、どうだろう」  気付かれないように人差し指で涙を拭った。それはオレだよ、なんて自分で言えるわけがない。 「そもそも、俺の勘違いかもしれないしな。その何かは夢にも何回か出てきたんだ。夢の中でも色や形はないんだけど、俺にずっと寄り添ってくれてて、すごく安心できた」  一匹だけ流氷の上に残っていたアザラシも、ドボンと音を立て、仲間のところへと帰っていった。 「オレね、いつかハクと一緒にこの船を降りるつもり。そのために、ハクが記憶リセットなんてしなくて済む方法をつかみ取るよ。だから問題が解決するまで、この船の上に一緒にいる」 「今すぐにはシャングリラ号から降りられないってことか?」 「おいおい説明するけど、今のハクにとっては、この船にいることが一番安全なんだ。ジンはいけ好かない男だけど、彼の元にいるのが身を守るためにはベストだと思う。ただ、この船にいる限りジンはハクを働かせ続けるだろうけどね」 「安全?それはジンの兄のリュウって人が関係するのか?」  オレはコクリと頷いて「それにしても、寒いねー」と話題を変えた。  いつの間にかペンギンも見えなくなり、展望デッキに出ている人もほとんどいなかった。  場所を変えようと提案し、二人で暖かい船内に戻った。ハクの好きな酸味の少ないコーヒーが飲める、カールが働くカフェへ行く。 「ハーイ!ハク、ルイ。ペンギンは見れたかい?」 「見れたよ。でも氷の上で寒そうだったな」  カールは笑って、ホットコーヒーにチョコレートクッキーをつけて、サーブしてくれた。 「ハク。休暇が終わって明日からステージが再開だってね。君が歌手だってこと、みんな知ってるのに、誰も君の歌声を聴いたことがないだろ?いやもちろん、VIP客のステージ担当だって分かってるんだけど、一度は聴いてみたいものだって、うちのコック長も言ってたよ」  カールはそう言ったと思ったら、もう次の客に「ハーイ!元気かい?」と話しかけていた。    流氷が見える窓際のテーブルにハクとコーヒーを残し、オレは自分の部屋へイツキから託されているファイルを取りに行った。  走って行き走って戻り、息を切らすオレを見て「早かったな」ハクが驚く。そして席を立ち、カールのところへ水をもらいに行ってくれた。 「ありがとう」  そんな些細な気遣いをしてもらえたことが、うれしくて堪らない。水を飲み一息ついて、ハクの前でファイルを開いた。 ハクが負う穢れについて。 その①短期的症状 ・歌うことで身体のダルさ、手足の痺れが起きる ・休息を取れば回復する ・適正な時間、適正な聴衆以上の負荷を一度に負うと、倒れてしまうので注意が必要 その②長期的症状 ・蓄積する穢れにより、髪の色が黒からグレー、そして白に変化していく ・真っ白になる頃、体調が悪化する(食欲不振、慢性的な倦怠感、貧血など) ・解決方法は薬草による記憶リセットのみ(穢れの全てを忘れ去る) ・髪色が黒から白になるのに要する時間は、歌唱時間累計が千時間程度と推測される 「髪色?」 「そう。記憶をリセットした日、ハクの髪は真っ白だったよ。一晩で徐々にグレーから濃くなっていって黒に戻ったんだ。神秘的だったな」 「短期的症状と長期的症状、色々ややこしいな」  ハクは相変わらず、他人事のように話している。記憶がリセットされたことでまだまだ判断材料が少ないのだろう。 「そのためにオレがいる。オレがしっかり見守っているから大丈夫。ねぇハク、何が不安?やっぱり歌いたくない?」 「そりゃ不安だろ。覚えたばかりの歌を人前で、しかもセレブ相手に一日三ステージとか、理解が追いつかない。さらに歌うと具合が悪くなるっていう、オマケつき」 「オマケ、か」 「それにさっきマユミさんに代金を聞いたんだ。オレが三ステージこなしたら、オーナーは六千万円を売り上げるとか、どんな仕組みだよ」 「歌うのは嫌い?」 「それは……。嫌いではないと思う。この前のプールサイドも、声を出すことは気持ちよかったし」 「あのね、オレは聴いたことがあるんだよ、ハクの歌声。この前のプールサイドみたいに、ほんの一瞬じゃなく、三十分まるまる。あのサロン室で聴いたんだ。この船に乗って三日目のことだった。その頃のオレは色々と考え込むことが多くて、ジン曰、死んでるみたいな顔してたって。そんなだから豪華客船の中も楽しめずにいた。ジンは「これは本当に特別なことだぞ」って恩着せがましく言いながら、甥であるオレにハクのステージを見せてくれたんだ」 「どうだった?俺の歌」 「はっきり言って、めちゃくちゃ上手!特に高音が伸びやかで、少しだけ擦れる裏声が、妙に色っぽいの」 「色っぽいってなんだよ」  ようやくハクが笑ってくれた。 「オレ最初はハクに会えただけで胸がいっぱいで。でも、あっという間に歌声に引き込まれてさ。途中からはね、上手いかどうかより、もっとずっと聴いていたい、この声に包まれていたい。あぁ、オレは今なんて幸せなんだろうって心地よくて涙が出た。地の底から引きずり出してもらったんだ。本当だよ?心が震えて、あぁ幸せな気分ってこういうことかって思い出せた」 「ふーん」 「ラストの一曲には中学生の頃によく聴いた曲をリクエストしたんだ。うれしかったなぁ、あの曲がハクの声でまた聴けて」 「そっか」 「救われたんだ、ハクの歌声で。たくさんいるんだよ、そういう人が」 「あのー」  夢中で話していて、人が近寄ってきたことに気が付いていなかった。 「突然すみません。この前の夜、プールサイドで歌っていた人ですよね?俺たち、あなたにお礼がいいたくて」  話しかけてきた男性と隣の女性は、あのとき偶然ハクの歌を聴いていたカップルだ。 「俺たちはあの日、プールデッキの片隅で別れ話をしてたんです。こんな豪華な船に無理して乗ったのに毎日ケンカばっかりで」 「そう。些細な事でイライラして、ぶつかり合って。今思えば、この船に乗るためにお金も日程調整も随分と無理したから、互いに相当疲れてたんだと思うの。でもね、あなたの歌を聴いて、信じられないくらい幸せな気持ちになれて。イライラが消えていって。それからはちゃんと話し合えてる。だからケンカにもならないの。おかげで楽しく過ごせています。本当にありがとう」 「総支配人とかいう人に、他言無用って言われたけど、本人へのお礼なら、許されますよね?まじ感謝してます」  言いたいことを言って去って行く二人の後ろ姿は、とても仲睦まじく見えた。 「これが合法ドラッグ効果?」 「そういうことだと思うよ」  ハクはチョコレートクッキーを一口齧って、表情を緩ませた。 「どう?明日から歌えそう?」  オレはハクの目を見て、問いかける。 「……うん。そのかわりルイ、さっきの話を度々俺に聴かせて、励ましてほしい」 「もちろん、いいよ。ハクも悩んだり、苦しくなったりしたら、教えて。話を聞くから」  立ち上がってハクを抱きしめたかったけれど、テーブルの上に置かれていた右手をギュッと握るだけで我慢した。  明日からまた、ハクが歌う日々が始まる。歌声を人に聴かせる時間が増す毎に、記憶リセットへと近づいていく。それでも、こうして歌うことを勧めてしまった。  矛盾しているけれど、リセット前のハクは自分の歌を聴いた人が幸せを得ることに喜びを感じていた。だから、今のハクにもそれを味わってほしかった。  ジンとハクについて話し合う度に、あの男は言う。 「能力は開花してしまったんだから、それを活かしてやるべきだ。それがハクの人生だ」  ハクが次のリセットまでの千時間を歌い切ってしまう前に、オレは現状を脱する方法を必死に考えなくてはならない。  それには、能力を無力化する方法を見つけ出すか、リュウの追っ手から逃れ歌わなくていい場所にいくのか、他に何か方法が見つけられるのか。まだ道筋は見えていない。  サロン室にはジンから贈られた花が飾られていた。 「素晴らしかった。これからを生きていく上で人生観が変わったわ」 「本当に、こんなステージを見せてくれたジンには感謝しかないよ。明日から全てが上手く行きそうな気分だ」  サロン室の出口で、本日三組目のVIP客が帰るのを、オレとマユミが見送った。ハクは、歌が終わったのと同時にフラフラしながら控室へと下がっていった。彼は見送りには参加しないのが常だ。 「歌っていた彼には挨拶できないのかい?」 「申し訳ありませんが」 「そうか残念だ。彼に「最高だった。ありがとう」と伝えてくれ。あとで花を贈らせてもらうよ」  無事に一日目の三ステージが終わった。マユミもホッとしている。  一時間休んだハクを部屋へと送り届け、テイクアウトしてきた中華料理の夕食を、テーブルに並べた。 「食べれそう?」 「食べれる」  お腹が空いていたようで、麻婆豆腐丼をかき込むように食べ始める。 「ステージはどうだった?」 「うん。楽しかった、とっても。やっぱり俺は歌うのが好きなのかもしれない」  心から笑ったハクを見て、記憶をリセットする前の彼が戻ってきたのかと一瞬錯覚した。  でも、それは勘違い。麻婆豆腐丼のことは愛おしそうに見るのに、オレのことはそんな目で見てくれないままだ。  オレはハクと一緒に夕食を取ってから「おやすみ」と言って隣の部屋へ戻った。  ノートパソコンを開いて、記録を付ける。本日の歌唱は一時間半。  このペースでステージをこなしていけば、二年弱で髪は真っ白になってしまうだろう。  どうにか一日三ステージから二ステージに減らしてもらうよう交渉し、一日でも長く今のハクと一緒にいられるようにしたい。

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