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第六話「二十五歳」

 ハクの髪は漆黒と呼んでいい黒から、消炭色、鈍色、灰色、鉛色、薄墨色、銀鼠と変化していった。今は「白鼠」と言われるようなグレーで、かなり白に近づいている。  毎朝目が覚めると、真横に美しいハクの顔がある。それを幸せに感じながらも、目に映る髪色に心がズシリと重たくなるのだ。  同じ思いを、ハクにはしてほしくない。だから彼が鏡の前に立つ時間を少しでも短くしようと、ステージ前のヘアセットや、シャワー後のドライヤーはオレが率先して引き受けている。  ただ、この白くなっていく髪は、とてもハクに似合っていた。むしろ真っ黒のときより美しく、神秘的で、ステージの客にもシャングリラ号のクルーたちにも評判がいい。  もちろんオレも、綺麗だと思っている。  そんなグレーで柔らかい髪を、眠りにつくまで手櫛で撫でてやるのが大好きだ。  ハクは髪を撫でると、目を細めて「ルイ」と名を呼んでくれる。ウトウトしながらオレの胸元に顔をうずめ「好きだ」と言って甘えてくれる。そしていつもオレより先に、スースーと眠りにつくハクが、大好きだ。  ハクの歌唱累計時間がリミットの千時間に達するには、まだ百時間残っている。そんなタイミングで、イツキからオレだけが呼び出された。 「そろそろハクの四回目となるリセットの日を決めなければなりません」 「いやでも、まだ三カ月は先です」 「VIP客の乗船数を調整しなくてはなりませんから、事前に日取りを決定する必要があります。ルイ、三回目のときにも同じ過程を経験したでしょう」  三回目リセットのときは、オレにとっては初めての経験だった。訳がわからず無我夢中で過ごした日々と、前回の体験をなぞるのでは心の負荷が違う気がする。またあの辛かった日々を繰り返すのかと、怖くてしかたがない。現実から目を背けてしまいたい。 「……というわけで、三月のアジア・東南アジアクルーズで、リセットするよう調整しましょう。……聞いてますか?ルイ」 「あっ、はい」 「しっかりしなさい」  ダメだ、ダメだ。辛いのはオレよりもハクのはずだ。オレは大きく息を吐きだし、イツキに向かって「大丈夫です」と頷いた。 「薬草はすでにジンが手配してくれています。次にこの船にやってくるときに、持参するでしょう。ハクには私から伝えましょうか?」 「いえ、オレが伝えます」 「そうですね。それがいいと思います。ルイ、辛いのは分かりますがハクを支えてあげてくださいね」  この二年間、ハクはほぼ毎日歌っていた。オレにできたのは「一日二ステージに減らしてほしい」とジンとイツキに交渉したことぐらいだ。それも完全には承諾してもらえなかった。  あとは日常生活に追われつつ、空いた時間を情報収集に費やしていた。  ハクの出自について、オレとも縁の深い宗教団体が絡んでいることは知っていた。教団の当主であるリュウの元から、ジンがハクを奪い、この船に匿っている。今もリュウはハクを取り戻そうとしている。  それが分かっていても、教団の成り立ちや、ハクが持つ力の背景はタブー視して誰も教えてくれない。だからネットを使って教団の周辺事情を調べた。色々な人にメールを出して尋ねたりもした。ネットで分からないところは、宗教団体がある地域の探偵に頼った。地元の図書館へ行ってもらい書籍のコピーをデータで送ってもらったり、役所へ出向いてもらったり、関係者に話を聞いてもらったり。  ジンにマネージャーとしての給与はもらっているので、思ったより高額だった探偵への支払いに困ることはなく助かった。  調査方法の選択肢として、オレが船を降りて現地に調べに行く、という案が無かったわけではない。けれど、愛するハクのそばを離れるという道を選ぶことはできなかった。  ジンやイツキから聞き出すということも、もちろん試みた。ジンは何もかもを知っていても、オレの設問には一切答えてくれなかった。イツキも「ジンが言わないなら私も言えない」というスタンスだ。  結果、ハクは四回目のリセットをしなくてはならない。自分の不甲斐なさばかり感じる。  それでも二年掛け調べたことは都度まとめ、イツキから託されたファイルの後ろに綴じてある。  月がとてもとても細い夜。光源の少ない空には、たくさんの星が輝いていた。  ハクは早々に寝てしまったけれど、オレはまだ眠れそうもない。安眠の邪魔をしないようにと、オレは一人ヘリポートデッキへ向かった。ここは乗客があまり足を運ばない穴場なのだ。空が見渡せるベンチには、意外な先客が座っている。 「イツキさん、こんばんは。めずらしいですね。こんな時間に」 「あぁ、ルイ。ハクはもう寝ましたか?」 「はい。今日は三ステージだったので、疲れたんだと思います。イツキさんは?」 「今夜、ジンが来る予定だったんですけどね。仕事の都合で変更になってしまって……」  来るわけがないヘリコプターを、空を見ながら待っているのだ。この人は本当にジンのことが好きなのだ。そんなイツキにだからこそ、オレは以前から聞いてみたいことがあった。 「あのオレ、色々と考えていることがあって。ちょっと聞いてもらえますか?」 「バーにでも行きましょうか?」 「いやここで大丈夫です」  イツキは、コクリと頷き、「どうぞ」とオレを促してくれる。 「シャングリラ号オーナーのジン、教団当主のリュウ。そして二人の姉であるオレの母ユイコ。イツキさんは三人のことを子どもの頃から知ってるんですよね?」 「子どもの頃といっても、ユイコさんはもう十四歳でした。リュウのことは十二歳から、ジンのことは十歳から知っていますよ」  イツキは懐かしそうな顔をする。その頃のことは、良い思い出なのだろう。 「オレが物心ついたときには、叔父であるジンとリュウは完全な対立関係にありました。母はジン寄りの立場で、だからこそ幼いオレは、ジンが正義で、リュウが悪だと思っていました。戦隊モノのテレビが大好きだったから、そういう構図で物事を捉えてしまったのかもしれません」 「ジンは、ヒーローぽい見た目ですしね」 「都会的で格好いいジンに遊んでもらった記憶があるのに対し、村にいるリュウのことは見慣れない和装で、難しい顔をした姿しか知りませんでしたし」 「ユイコさんはお父さんに反発してましたからね。ジンに肩入れする部分があったんでしょう」 「実際、リュウはハクを傷つけた。それだけでオレにとっては充分に悪者です。この船に乗った最初の頃は、悪いリュウの追っ手から、善いジンが守ってくれているって、心から思っていました」  イツキが空を見上げる。ヘリコプターが来る気配などないのに。 「それで?」 「今は、本当はどうなんだろうって、度々考えています。これは善と悪の話なのかって。だってどちらもハクをイイように使おうとするでしょ。どちらもステージ代金や、お布施という大きなお金が動く。もしかして、どちらも悪で、これはただの兄弟喧嘩なんじゃないかって」 「ハハハ」  イツキは声を出して笑う。 「面白い着眼点ですね。でもそう言われればそうかもしれない。あの二人は幼い頃からとにかく相性が悪いですから。そんなものに巻き込まれ取り合いをされているハクが、あまりにも可哀そうですけどね」 「本当に可哀そうです」  イツキはオレのことを真っ直ぐに見て、諭すように言った。 「リュウはね、昔はいい人だったんですよ。正義感の強い、思いやりのある人だった。でも変わってしまったんです。だから、リュウのところにハクを返してはいけません。絶対に」 「変わってしまった?」 「簡単に言えば、リュウはハクを神だと思っています」 「それは悪いことなんですか?」 「神になるのだから、辛い修行をさせられても仕方ない。神になったのだから、人のために歌うのは当たり前。神だから、人を救って当然だ。更に、自分は神に感謝される立場にいる人間だ。リュウがそんな風に思っているとしたら、どうですか?」 「ハクは人間です」 「ええ、人間です。人権がある。だとしたら、ハクの歌を彼の職業だと捉えて働かせるジンのほうが、マトモだと思いませんか?この船、福利厚生もしっかりしていますし」 「確かに……そう思います」 「そもそも私にこんなことを尋ねても、ジンの味方をするに決まっていますよ、ルイ」  イツキはまた空を見る。 「もしあなたとハクが、リュウのところに行くと言うなら、私は全力で止めます。愚かな選択だからです。でももし、ジンの元を去りたいと本気で言うならば、私がジンを説得しましょう。けれど、今は無理です。この船を出たら、すぐにリュウの追っ手がハクを拐うでしょうから」  遠くから微かにヘリコプターの音が聞こえてきた。イツキがベンチから立ち上がる。  仕事の予定を繰り上げて結局イツキに会いに来たのだろう。  そんな熱烈なジンの登場をオレが邪魔をするわけにはいかない。 「そろそろ寝ます。おやすみなさい」  もう一度、輝く星を見上げてから、オレはヘリポートを後にした。  ハクが眠る部屋に戻ると、ベッドは空だった。カーテンが風に揺れていて、バルコニーに人影が見える。いつ起きたのだろう。 「ハク」  声を掛けると、勢いよく振り返った。 「ルイ!どこ行ってたんだよ」  怒った顔が可愛くて、オレもバルコニーへ出て、両手でギュッと抱きしめる。夜風でハクの身体は冷えていた。  ヘリコプターは無事にヘリポートデッキに到着したようで、辺りは静かだ。 「ごめん、星を見に行ってたんだ」  抱きしめたまま耳元で謝った。 「心配しただろ」  その声に、もう怒りは含まれていない。色っぽく甘えるような声色だ。  ハクの背中に回していた手を緩め、彼の顔を近くから見つめた。薄いグレーの髪が夜風に揺れている。 「ハク」  何度だってその名前を呼んでしまう。そしたら照れくさそうに目を逸らすから、下唇を吸うようにチュッとキスをした。 「星」 「なに?」 「星、ここからでもよく見える」 「あぁ、本当だ」  もう一度強く抱きしめた。今は星よりもハクのことを見ていたい。もっともっとハクの存在を感じたい。 「ねぇハク。ベッド行く?」  コクリと頷いてくれたから、オレの鼓動は高まって、今度は深く深く口づけた。

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