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第八話「ハクの苦しみ」
十九時。ジンとイツキが立ち合ってくれる中、眠るハクに口移しで、乾燥した薬草を煎じたものを飲ませた。ドロリと濃厚で苦い液体は、オレにはなんの効果ももたらさない。いっそのこと、オレの記憶も奪ってくれたらいいのに……。
服用後もハクに劇的な変化はなく穏やかに眠っていた。様子を見守っていたジンは、十分ほどで自室へ戻った。イツキは一時間付き合ってくれた後「なにかあったら連絡してください」と仕事に向かった。
眠っているハクと二人きりになり、オレはベッド横の椅子に座って息を吐く。それでも昨晩ハクが歌ってくれた効果で、全身を悲しみのみに支配されているわけではない。
ハクが目を覚ましたら、一緒にジェラートを食べよう。きっと抹茶とマンゴーのダブルを頼むだろう。昼間にホールで行われるマジックショーだって、ハクにとって初見だから喜ぶだろう。三月の今は「アジア・東南アジアクルーズ」。季節は春だから、バルコニーでモーニングを食べるのも気持ちいいはずだ。
ベッドに横たわるハクの真っ白な髪は、少しずつ灰色に近づいている。墨汁を一滴ずつ垂らすように、黒の濃度が増していく。
朝七時。髪は漆黒に到達し、ツヤツヤと輝く。
閉じられていた瞼がひくひくと動いたあと、ハクはゆっくりと目を開けた。宝石のように美しい青みかがった瞳が、白い天井を見ている。人形の目のような完璧な造形美だが、そこには確かに人間の生命力が宿ってる。
オレは安堵の息を吐く。
「おはよう。どこか痛かったりしない?」
声に反応し、ベッドの左横にいるオレを見る。しばらく迷ったような顔をし、小さく首を横に振った。
「そう、よかった」
部屋をぐるりと見渡し、自分が包まれている真っ白い寝具を見て、また天井へと視線を彷徨わせる。何一つ見覚えがないのだろう。薬草は的確に効いてしまったのだ。オレのことが誰なのか、ここがどこなのか、きっとハクは分かっていない。
「海?」
窓の外へ視線が動き、驚いたように声を出した。
「そう。海。ここは客船の中。世の中では豪華客船と呼ばれるような、大きな大きな船の客室だよ。揺れは全く感じないでしょ?ビルを横にしたみたいに大きくて安定感があるから、安心して」
上半身を起こそうとするハクの背中にそっと手を添え、アシストする。
「海しか見えない」
「外、出てみる?バルコニーがあるから、風に当たれるよ」
二年前のリセットと全く同じ様子に、張りつめていた気持ちが和らいだ。今回もきっと、半年もすればハクはオレを好きになってくれる。手を繋いで、キスをして、一緒に眠って。全てが初めての経験だと、うれしそうに恥ずかしそうに、微笑んでくれるはずだ。
ルームサービスでコーヒーを頼んで、シュリンプのサンドイッチを食べて、シャワーを浴びるように伝えた。ハクが選び着替えた洋服は、やっぱり以前からのお気に入りコーディネートだった。
船内を紹介しながら散歩もした。体力の落ちているハクは、十五分もしないで疲れた様子を見せる。
「部屋に戻ろうか?」
コクリと頷くので、ハクの部屋へ帰った。
「ハク、あのね。今はまだ、分からないことがたくさんあると思うんだ。何が分からないかも、分からないと思う。だけど、さっき言ったようにね、昨日までのハクも承知して薬を飲んだんだ。そして記憶がリセットされた」
ハクは窓ガラスに近づき、白波が立つ海を見ている。
「それでね、昨日までのハクから、手紙を預かっている。これを読むことで今置かれた状況が少しわかるんじゃないかと思う。オレは読んでないから、具体的に何か書かれてるか知らないんだけど、七通の手紙が入っているらしい。日付が記されているはずだから、一日に一通ずつ読んでみて」
ハクはオレと距離を取り、ソファに座る。
「手紙、ここに置いておくよ。あとでランチと夕食を持ってくるから、ゆっくり休んで」
ランチのパスタを届けるために部屋をノックをしたとき、まだ手紙は読んでいない様子だった。夕飯を手渡したときは、昼寝から起きたばかりのようで、少しボケっとしていた。
「明日は、朝食の頃に声を掛けるから」
「分かった。これ、いい匂いだ」
「中華丼だよ。味は保証する」
ハクの口角が少し上がったのを見逃さなかった。
異変が起きたのは、翌朝だ。
ノックをしても反応が無く、それに慣れているオレは合鍵を使って部屋に入った。ハクはベッドの上で丸くなって眠っている。テーブルの上には封筒と七通の手紙が全て開かれ、散らばっていた。
もしかして、全てをいっぺんに読んでしまったのだろうか。だとしたら、オレが悪かった。一通ずつ渡すべきだったのだ。手紙を用意した昨日までのハクの、せっかくの意図を活かしてあげることができなく、申し訳ない気持ちになった。
カーテンを開け、眠るハクに声を掛ける。
「おはよう、ハク。起きて、朝だよ」
ハクはオレの声に驚いたように目を覚まし、ベッドから飛び出た。
「ど、どうやって、部屋に入ったんだ」
咎めるような声を出す。
「ごめん。オレ、合鍵を持っていて、ハク寝起きが悪いから起こしてあげようと……」
「勝手に入ってくるな。出ていけ」
思ってもなかった反応に、酷く戸惑う。
「ハ、ハク。手紙は読んだ?」
「あんなの全部嘘なんだろ?俺を騙そうとしているんだ。信じるわけがない。俺が何も分からないと思って……」
睨みつけてくるハクの勢いに、一歩、また一歩と出口に向け後退してしまう。
「嘘じゃないよ、ハク。いっぺんに読んでしまったから混乱しているんだ」
「俺の歌が神の声で人を幸せにするとか、宗教団体から逃げて何年も豪華客船に乗っているとか、男を好きだとか、ルイが、ルイが、ルイがって訳がわからない」
「ハク……」
「いいから出ていけ」
オレはドアまで追い詰められ、廊下へと押し出された。呆然としていると、再びドアが開く。
「その鍵、よこせ。知らない奴が合鍵持ってるなんて、気持ち悪い」
奪い取るように合鍵を持っていかれ、ドアはバタンと閉まってしまった。
ハクはそのまま部屋から出てこなくなった。何度か声を掛けたが反応はない。どうしていいか分からず、総支配人のイツキに端末からメッセージを送信し、助けを求める。
すぐに駆けつけてくれたイツキが、ドアの外から話しかけても、やはり返事はなかった。
「仕方ありません。少し様子をみましょう。大丈夫ですよ、ルイ。混乱が収まれば部屋から出てくるでしょう。今大切なのは待つことです。焦りは禁物。いいですね」
「はい……」
オレは隣に位置する自室で、ハクの部屋から聴こえてくる物音に耳を澄まし続け、無為な時間を過ごした。
どんなに混乱していても、お腹は空くだろう。だから食事の時間になるとドアの前で「ハンバーガーとアイスティーを置いておくよ」などと大声で伝える。そしてドアノブに、テイクアウトしてきたハクの好物をぶら下げた。
オレが自室に戻りわざとバタンと音を立てドアを閉めると、ハクの部屋のドアがゆっくり開く。その音に聞き耳をたて、ハンバーガーを受け取ってくれたことを確認し、オレは少しだけ安堵する。一日三食、その繰り返しだった。
見えないけれど、想像する。きっとハクはベッドに寝転び、リセット前の自分から送られた七通の手紙を何度も何度も読み返しているだろう。混乱しながらも、そこに書かれているメッセージと向き合おうとしていると、信じたい。
客室にはテレビもある。今までのハクはあまりテレビを見る習慣はなかったけれど、引き篭もっていてはさすがに退屈なのだろう。隣の部屋との壁に耳をつけると、ニュースなのか、映画なのか、音声が漏れ聞こえてくる。面白い映画を見れているといいな、と思う。娯楽を楽しみ、少しでもハクの心が落ち着きますように、と祈ることしか今はできない。
ハクがリセットをして、六日が経った。当初の予定では、明後日にステージが始まる。けれどこの状況での開催は不可能だろう。
ジンは、きっと怒るだろう。ハクの歌目当てのVIP客はすでにシャングリラ号に乗り込んでいるのだ。無理やり歌わせようと、ハクの部屋に乗り込んだりしたらどうしよう。ジンの暴挙を勝手に想像しては、さらに憂鬱が募った。
そんな中でも、イツキは予想通り優しかった。
「ステージのことは心配しなくていいです。ルイはハクのことだけを考えてあげなさい」
「ジンは?怒ってますよね……」
「今は留守にしていますが、ステージが始まる日には、急遽船に戻ります。ハクが歌えない分、VIP客の接待はジンが全て請け負います。あの人と会食が出来るというのも、セレブたちの間ではなかなか貴重なことで、喜ばれるんですよ。だから大丈夫。VIP客には次回を約束し、ジンからの贈り物もして、フォローしますから」
思っていたよりもずっと、ジンも優しく頼りになる存在だった。
ハクがリセットをして十日が経った日。オレの緊張の糸は切れてしまった。夕食を届けたあと、隣の部屋に耳を澄ましていたはずが、いつの間にか眠っていた。慢性的な寝不足が祟ったのだろう。
その時刻は、ちょうどシャングリラ号の中が最も盛り上がる夕食後の時間。メインフロアではダンスパーティが行われ、人人人で溢れかえり、皆がお祭り気分で騒いでいる。そんな時間。
ジンはVIP客を寿司屋で接待し、イツキも総支配人としてそれに付き合っていた。マユミは騒がしいのを嫌い、自分の部屋で読書をしていた。そんな時間。
オレを起こしにきたのは、マユミだった。ドンドンと大きな音でノックをされ、「ルイ、ルイ、起きなさい」と大声で呼ばれた。その声でようやくオレの意識が浮上し、自分が眠り込んでいたことに気が付く。
寝ぼけた頭でフラフラとドアに近づき、マユミを迎え入れる。いつも温和なマユミの顔がこわばっていて、何かあったのだとすぐに分かった。
「イツキがルイにメッセージを送ったけど反応がないからって、私に連絡がきたの。ハクが、倒れたわ。今、医務室にいる。迎えにいきましょう」
マユミはオレが慌てないように、わざとゆっくり喋り伝えてくれた。それでもオレはパニックに陥った。すぐに、すぐに行かなきゃ、と部屋を飛び出し、マユミを置いて医務室へと全力で走る。
途中、すれ違う人が皆、幸せそうに笑っていた。みんながみんな足取りが軽く、手を取り合ってニコニコしていた。普段から乗客の多くは楽しそうな顔をしているけれど、ここまで多幸感溢れる雰囲気は見たことがない。
息を切らし医務室に着くと、眠っているハクにイツキと、カフェの店員のカールが付き添っていた。
「ハク!」
怪我をしている様子はなく、眠っているようだ。
「ハクに何があったのですか?」
オレの問いにカールが答えてくれる。
「ダンスパーティをしているフロアで、突然ハクが歌い出したんだ。なにか映画の主題歌だと思うんだけど、ぶわーって幸せが身体を駆け巡るような歌声で、マジやばかった。DJもすぐに歌声に気が付いて、掛けてた曲を止めた。だからフロア中にハクのアカペラが響き渡って。みんなが無言でその歌を聴いて。だけど歌いだして五分もしないで、ハクの身体がふらっと傾いて、意識を失っちまった」
「近くにいたカールが駆け寄って支えてくれたから、どこも打ち付けたりはしてないそうだ」
「よかった。ありがとうカール。本当にありがとう」
「いや、いいんだ。それよりどうしたんだハクは?仕事を休んでるとは聞いてはいたけど」
「うん、ちょっとね」
「ルイが来たから俺、もう行くよ。なんか凄く幸せな気分なんだ。実は小説家志望でさ、今ならめっちゃいいアイデアが浮かびそうなんだ!」
浮かれた足取りで、カールは医務室を出て行った。
一時間ほどして、ハクの目がゆっくりと開いた。覗き込んでいるオレを見て泣きそうな顔をする。
「あの手紙、本当だったのかもしれない」
「ん?」
「試しに歌ってみたんだ。そしたらみんな、神でも見るような顔で歌う俺を見ていた」
ハクはそう言って、大きく息を吐いた。
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