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第十一話「母と母」
一夜明け、シャングリラ号は何事もなかったように、晴天の洋上を進んでいる。
今朝のオレは、久しぶりに穏やかな気持ちで目が覚めた。もちろんハクの歌声を聴いたせいだが、船に戻って二人でしっかりと話ができたことも大きい。
もうすぐ、ハクの部屋をノックしてジンのリビングで行われるミーティングへ出向く時間だ。
もしハクが起きて来なかったら「合鍵を使って部屋に入って起こしてほしい」と昨晩、許可をもらってある。
ことの顛末は、クルーズターミナルに戻る黄色い車の中で聞いた。
タロウもケンも、この一か月、共に同じ客船で働く仲間として、なにかとハクの話を聞いてくれたのだという。ハクは二人に心を開き、言える範囲で自分の苦悩を話した。
ハクが歌手をしていることは、クルーの皆が知っていた。けれど、歌声の力のことは言えず、記憶がないことも言えない。それでも誰かと何か話をしたかったらしい。
「仕事をさせてもらえるのはありがたい。どうやら適性もあるらしい。けれど、自分の価値が、歌にしかないのは、つらい」
「身体の調子が悪いときがある。時間が経てば治ると分かっていても、とても不安になる。しかも、その不調が蓄積し、いつか時限爆弾のように爆発するイメージが、頭から離れない」
「以前は寄り添ってくれた人がいたけれど、その人は今は、腫れ物に触るように接してくる。また親しくなるにはどうしたらいいのだろう?」
とても率直なハクの心の声を、繰り返し聞いてくれていたタロウとケンは、ある日、言ったという。
「ハクの歌の才能を搾取するなんて、許せない奴らだ。俺たちが、きっかけを作ってやるよ。ハクが苦しんでいるって、奴らに分かってもらったほうがいい」
そして、タロウとケンは「いいアイデアがある」と言った。
「ハクは何も知らないほうがいい。この計画はそのほうが真実味が出るんだ。俺たちに任せて」
「ケンの言う通り、俺たちを信じろよ、ハク。仕事には影響がでないようにするから心配するな」
「ちょっとだけ、ルイって奴をドギマキさせて、ハクは歌う人形じゃないって気付かせるだけだから」
ハクは、二人がリスクを冒してでも、自分のために行動してくれることを嬉しく思ったという。
廃棄のテーブルクロスに隠れるように言われたハクは、結果、船外まで連れ出されてしまった。
ワゴンに隠れる際、埃っぽくて喉が乾くから飲むといい、と渡されたというペットボトルに睡眠導入剤が入っていたのだろう。いつの間にか眠ってしまい、気が付いたらレンタカーの後部座席にいたらしい。
目が覚めたハクは、ケンが誰かと電話しているのを聞いて、彼らが響音の里の信者だと気が付いた。
電話の相手はおそらくリュウで、合流先について相談しているのが分かったという。
「「神はようやく我々のところに帰ってきてくれた。これで教団の皆が救われる」ケンがそう言ったとき本当に恐怖を感じたんだ」
そう話してくれながら、後部座席に並んで座るハクが小さく震えているのが分かった。オレは思わず、その肩を抱き寄せる。
「友達が出来たと思ってたんだ。リセット前の俺ではなく、今の俺だけを見て、話を聞いてくれる友達が……」
友に裏切られた辛さに、ハクが頭を抱える。
運転席のジンが、バックミラー越しにハクに言った。
「ハクは人形ではない。それくらい分かっているつもりだが、それが本人に伝わっていなかったのならば、意味がない。明日の朝食の席で改めて話をしよう」
腕の中のハクが、コクリと頷いた。
出航時間が迫る中、ジンの黄色い車でクルーズターミナルに戻り、三人でタラップを登った。
出迎えてくれたマユミはハクを抱きしめながら、涙をこぼし怒った。
「心配させないでちょうだい。本当に寿命が縮まったわ」
イツキも、いつになく語気を荒げた。
「一発殴らせろ、と私が言っても、アナタは文句を言えませんよ、ハク。でも、我慢して殴りません。アナタは私にとって、大切な弟のような存在ですから」
すでにこの二人にも、ハクが船外に出たのは、タロウとケンに無理やり拉致されたのではなく、口車に乗った結果だと、伝わっているのだろう。
ハクは深々と頭を下げ「ごめんなさい」と謝罪した。
部屋にハクを送り届けたオレは「ちょっといいかな、ハク」と切り出した。
このところのオレは、ハクに嫌われたくないあまり、こういうときも、ハクを一人にしてしまっていた。でも今は、ハクの歌声を聴いたおかげで、彼に受け入れてもらえる自信が湧き、行動に移すことができた。
二人で夜の展望デッキに出て、クルーズターミナルを出航する様子を眺めた。夜景が映える中、シャングリラ号はタグボートにエスコートされ、ゆっくりと離岸してゆく。ターミナルの係員がこちらに向かって手を振っているのが見えた。
ジンの黄色い車は、港に取り残されたままだ。あとで、ジンの会社の人が引き取りにくるだろう。
「寒くない、ハク?」
ブンブンと首を振ったけれど、オレは自分の着ていた上着を脱いで、ハクの肩に掛けた。
「あのね、ハク。オレは今回のハク、前回のハク、前々回のハクなんて、区別をしてキミを見ていないよ。オレにとっては、全て一つのハクなんだ」
「でも、俺はルイのこと全部忘れてしまった……」
「それでも、ハクはオレの好きなハクのままだ。本当はずっとそばに居たい。具合が悪いときには手を握っていてあげたいし、朝だって起こしてあげたい。よかったら少しずつ、一緒にいる時間を増やしてもいいかな?」
ハクがオレをじっと見てきた。返事に困っているのかもしれない。
「いきなり距離を詰めようなんて思ってないんだ。だから嫌なら嫌って、言ってほしい」
「いや、では、ないと、思う……」
「オレね、ハクの初恋を狙っているから」
「初恋?……え、なに。恥ずかしいだろ、そんなの」
ハクは水平線へと目を逸らす。
「ううん本気。だからね、オレを好きになってよ。あぁ、ごめん、距離感が難しいな。でも本当にそう望んでいる。あのね、オレの中学生のときの初恋の相手がハクなんだよ」
「え?」
「その話、今度するね。やっぱり夜はまだ寒いや。寒いって言っておいてなんだけど、ジェラート食べにいかない?」
ハクは「食べてみたいと思ってた」と嬉しそうに頷いてくれた。
そして。
一夜明けたジンの客室のリビングルーム。今回も、到着したのはオレとハクが最後だったようで、皆はもう席に付いている。
ジン、イツキ、マユミ……。それからもう一人。
「母さん?」
「おはよう、ルイ、久しぶりね。私、昨日の夜に乗船したんだけど、ルイどこにいたの?イツキに呼び出してもらおうとしたのに「ルイは忙しくて」とか言うのよ。実の親がわざわざ会いにきたのに」
「あぁ、昨日はちょっと……」
「はっきりしない子ね。それで大学はいつから復学するの?」
母のペースに巻き込まれそうになっていると、イツキが助け舟を出してくれた。
「ユイコさん、まずは皆で朝食を。ほら、ルイと、ハクも座って」
「あら、アナタがハク?会えてうれしいわ。あぁ綺麗なお顔をしているのね。私はルイの母親のユイコです。ジンとリュウの姉でもあるのよ。「ひびきさま」であるアナタは、ジンとリュウに取り合いされてるんでしょ?お気の毒ね」
ハクの今後についてようやく話し合えるという場に、母が現れた。その厄介さに、オレは頭を抱えて蹲りたくなった。
この朝食の場で、一番力を持っているのは、シャングリラ号オーナーのジンではなく、彼の姉だ。
バリバリのキャリアウーマンである母が、会話を仕切ってゆく。
「それで、この朝食会のテーマはなぁに?」
「ハクの今後についてだ」
ジンが不機嫌そうに答える。
「御神木から遠く離れたジンの豪華客船で毎日歌って、穢れを溜め込んでは薬草によるリセットを繰り返す。そんなことをいつまでも続ける訳にはいかないと、ここにいる皆が思っている。あまりにもハクが可哀そうだと。けれど、リュウの狂信的な教団の神に据えられてしまうハクも、絶対に見たくない。そんな感じかしら?」
その通りだった。
「それで、ハクはどうしたいの?」
「それを今から話し合うんだ」
ジンが話を遮ろうとする。
「私は、ハクに聞いているのよ」
「俺は、よく分からないです。今分かるのは、リセットして一カ月半しか経っていない自分には判断材料が少ない、ということだけ。それで昨日もミスをしたんだ」
「賢い子ね。昨日のミスが何かは知らないけれど、その通りだわ。ルイが入れ込むだけのことはあるわね」
朝食が運ばれ、サーブされている間も母は喋り続ける。
「私が知っていることを、アナタに教えてあげるわ。それがアナタの判断材料の一つとなるように」
ハクが真っすぐに母を見る。
「教えてください」
「以前、私なりにね、色々な文献をあたったの。だからこれは確かなことよ」
前置きをした母が言う。
「ひびきさまの血をひいた者は、歌わずにはいられないの。力が小さいひびきさまでも、そうなのだから、力が大きいアナタは特にその傾向があると思う。もしアナタがジンの元からも、リュウの元からも離れられたとしても、アナタは歌を歌うでしょう。アナタが力を発揮してしまったとき、後ろ盾がなかったら、人々の反応は大変なことになるわ」
「それは……」
オレが口を挟もうとしたが、母が正論を述べる。
「ルイがその役割をしたいと思っているのかもしれない。けれど、今のルイには重すぎる。もっともっと世の中を知ってからでないと」
母は紅茶のカップを口に運んだ。そして小さく深呼吸して話を続ける。
「うちの家族は父の一存で、私が十四歳のときにアナタが生まれた村へ引っ越したの。その時私に出来た唯一の友達が、アナタのお母さんだったのよ、ハク」
オレも初めて聞く話だった。
「当時はハクのおばあさまが、ひびきさまだったわ。おばあさまの力は小さく、人前で歌うのはお祭りくらいだった。でも、おばあさまは、いつもいつも、アナタのお母さんに歌を歌ってあげていた。今思えばその効果もあって、アナタのお母さんはいつも明るくて、幸せそうで、その幸せを人に分け与えてくれるようなやさしい人だった。アナタのお母さんにひびきさまの力は宿らなかったけれど、素晴らしい女性だった」
「あぁ、そうだった」
「えぇ、本当に」
ジンとイツキもハクのお母さんの人柄の良さに賛同する。
「それで、俺の母親は今どこに?」
母の顔が曇る。それでも毅然と答えてくれた。
「アナタを出産するときに、亡くなったの」
「そうですか……。会ってみたかった」
「ハク、これからも歌いなさい。ジンの元か、リュウの元かはアナタが決めればいい。でもルイの母親としては、ルイのそばで歌ってくれたら嬉しいわ。それはつまり、ジンの元ということになるけれどね。それから、今はリセットというリスクがアナタに付きまとっている。けれどアナタは歌うことで、知らず知らずに世の中を変えていっているのよ。いつか必ず、アナタの歌が、アナタ自信を救うわ。それを信じて」
母は朝食には手をつけず、立ち上がった。
「そろそろ神戸に付く頃よね。もう降りる支度をしなくては。ルイ、元気そうで安心したわ。ハクを支えてあげなさい。けれど、大学は卒業しないと許さないわよ」
今度はマユミのそばへ近づいていく。
「マユミさん。いつもイツキから船での様子を報告してもらっています。ルイとハクのこと、これからもよろしくお願いします」
母は深々と頭を下げた。マユミも立ち上がり「お任せください」と返事をしてくれる。
見送ろうとしたオレに、母は「結構よ」と言って、リビングルームから出ていった。嵐のように登場し、去っていった母に、あとでお礼のメッセージを送っておこう。
静かになった朝食の場で、ハクがジンに質問をする。
「タロウとケンはどうなりましたか?」
「心配なのか?」
「はい」
「ハクの歌を聴いて、効果を実体験してしまった以上、教団には返せない。俺の会社で軟禁中だ。二人ともハクの歌声によって心に変化もあったようだから、酷い扱いはしていない。安心しろ」
ハクはホッとした顔をして、「ありがとうございます」と呟いた。
ハクのこういう優しさが、オレは大好きだ。
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