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第十二話「ルイの初恋」

 オレとハクは、少しずつ時間を共有するようになった。リハーサル後の昼食、午後の休憩時間、ステージが終わった後の夕食、寝る前に星を見ながら。少しずつ時を積み重ねる。  いつしかハクから、こんな話を聞きたい、あんな話を聞きたいとリクエストもされるようになった。  今まで食べて美味しかった日本食の話や、オレが保育園で泣いてばかりいた話、大学の講義で聞いた興味深い話。それから以前のハクと見たペンギンの話もした。 「そういえば、ルイの初恋の話、してくれるって言ってたな」 「聞きたい?」 「聞きたい」 「じゃ、明日の昼ごはんの時に話すよ」  そう伝え、どこから話そうかと頭の中の記憶を呼び起こした。  始まりは、中学三年生の夏休みだった。  母ユイコは普段から海外を飛び回ることが多く、幼い頃のオレは母の弟であるジンに預けられたりもした。  その夏は、ユイコもジンも海外での仕事が入っていた。オレは高校受験の夏期講習会に参加しながら、高層マンションの部屋で一人ぼっちで過ごす日々。  口うるさい母親がいない生活は、中学生にとって楽園だが、友達も少ないオレは一日中誰とも口を聞かない日があったりした。  我が家に父親はいない。オレが生まれてすぐ離婚したらしい。 「なぜ?」  一度だけ理由を問うたことがあるが、「無能でムカついたから」と返ってきた。母は結婚に向かない性格であると、息子としても感じるので、そんな理由でも納得できた。  孤独に過ごす夏休み中盤、海外のユイコから連絡が入る。 「おじいちゃんが亡くなって十年経った法要を、リュウが行うらしいの。私もジンもいけないから、悪いけど、ルイが参加してきてちょうだい」  リュウは、母の弟で長男。彼ら三兄弟が育った村に、今も留まっているのはリュウだけだ。  過去にオレがリュウと会ったのは、おじいちゃんの葬式と、その後の法要の数回のみ。しかも、顔を合わせる度に、ユイコやジンと揉めていたから、彼の印象は悪い。いつも少し変わった和装で、妙に姿勢が良く、目つきが鋭い。顔はジンと似ているけれど、纏っている空気は全く別物だった。 「法要が終わったら、翌日には帰ってくるのよ。あんなところに長くていても、ろくなことはないわ」  ユイコの命令を断りきれず、電車とバスを乗り継ぎ、山間の村までオレは一人で出掛けていった。  五年ぶりに訪れた村は、改めて見るとやはり異質だ。  村の真ん中に大きな大きな樹が生えていて、その隣に村に似合わないほど立派な建物がそびえている。ただ、リュウは思ったよりいい人で、親切に接してくれた。 「よく来たな」  そう言って村の中を案内してくれた。 「この建物は「響音の郷」という団体の本殿で当主は私だ。この村には、神様がいてね、ここは神様の家なんだ。そうだ、ルイと神様は同い年だぞ」 「神様と同い年?」 「あぁそうだ。今は修行中で会えないけれど、いつかルイも神様の声を聴く機会があるだろう」 「神様も修行をするの?」 「もちろんだ。身体の中に眠っている力を呼び覚ますための修行をする。私が今、男巫から神様を作っているんだよ」  その答えに、酷く違和感を感じ背筋が寒くなる。リュウがその話を、怪奇的な顔でするならまだしも、ごく普通の表情でするのがより不気味だ。だからもうそれ以上の質問を重ねることは、できなかった。 「ルイは教団に興味があるか?私の跡はルイに継がせてもいいと、思っているんだ」  大きな樹が、ザワザワザワザワと語りかけてくるように騒めく。怖くなったオレは、それ以上の案内を断り、大きな樹と本殿がある場所から、逃げるように離れた。  仏教ではない不思議な法要は無事に終わり、明日にはこの村から離れられるという日の夕方。  ザワザワザワザワと何か言いたげな大きな樹がどうしても気になって、オレは宿泊していた場所から、ふらふらと外に出た。  村全体でひぐらしが鳴き、夕陽で空が真っ赤に染まっている。そんな中、大きな樹がオレに語りかけてきたような錯覚を覚える。 「会っていきなさい。今、会っていきなさい」  言葉にするとおかしな話だけれど、そう言われた気がした。そして導かれるように本殿の濡れ縁から引き戸の中を覗いた。  その部屋はこじんまりとしている。家具のような物は何もない。黒光りした硬そうな板の間の真ん中に、傷だらけの少年がポツンと倒れるように眠っている。  オレは慌てて建物に入り、少年の横に跪く。 「どうしたの?大丈夫?傷だらけだよ。右足からは血が出てる」  オレは持っていたハンカチを彼の右足に巻いて、応急処置をする。目を覚ました少年はボーとオレを見ていた。 「誰か呼んでこようか?病院に行ったほうがいいと思うよ」  立ち上がろうとするオレの腕を、少年が掴んだ。 「大丈夫だから。これも修行だから」 「修行?もしかして、キミは……神様?」 「違う。僕はハク。神様なんかじゃないんだ」  痛そうに顔を歪めながら、ハクは上半身を起こす。少年はとてもとても綺麗な顔をしていた。真っ黒な髪はサラサラとしていて、身体のあちこちが傷だらけでも、美しかった。  そのとき「ルイ、ルイ、晩ご飯ですよ」とオレを呼ぶ、宿泊先のおばさんの声がした。 「ねぇ、一緒に行こう」  ハクを誘ったけれど、ブンブンと首を横に振る。 「じゃ、晩ご飯食べたら、またここに来ていい?」  そう伝えたら、嬉しそうにコクリと頷いてくれた。 「誰にも見つからないように来て。えーと……」 「オレはルイ。見つからずに会いに来るから」  ハクはそっと小指を出す。指きりなんて何年ぶりだろう。そう思いながら、オレは自分の小指を絡めた。  夜。満月が村を照らす中、宿泊している部屋を抜け出しハクに会いに行った。今度はこの村へ持ってきていたリュックサックを背負って、お菓子やゲーム、音楽プレイヤーも持っていった。  そっと本殿の濡れ縁の引き戸を開ける。さっきと同じ場所にハクは横たわっていた。オレの気配に気付き、上半身を起こしてくれる。  右足に巻いてあげたハンカチは、真っ赤に染まっていたけれど、出血は止まったようだ。  板の間の部屋は暗く、月明りが差し込んでいるのみだ。それでもハクの顔はよく見えた。 「ハクは御飯は食べたの?」  ブンブンと首を横に振る。 「食べないことも修行だって言われた……」 「誰に?」 「リュウ。リュウは御神木に言われたって言ってた」  御神木?なんの話だろう。 「修行は、火の上を歩いたり、小枝の束で背中を叩かれたり、滝に打たれたり、この右足は紐で結ばれて吊るされた。食べないだけの修行は楽な方」 「そんな……」 「御神木の指示だから」  とにかく、ハクをこんな目に合わせるリュウは許せないし、狂ってる。  オレはリュックから、お菓子を出し、ハクの前に並べる。 「一緒に食べよ?」  そう誘えば嬉しそうに、チョコレートクッキーに手を伸ばした。  オレたちは会話が弾むわけではなかった。ポツポツとオレが話し、ハクが短い返事をする。それでも、なぜだかハクの隣にいられることが嬉しくて、ピタリと寄り添って夜を過ごした。 「オレ、とても好きな曲があるんだ。一緒に聴く?」 「うん」  イヤフォンを片方ずつ耳に入れ、音楽プレイヤーを再生した。一度聴き終わると、ハクが「もう一度」と言う。再び再生すると、ハクは曲に合わせて歌詞を口ずさんだ。 「えっもう覚えたの?」 「うん」  ハクのその歌声は、聴いていてとても心地よく、ずっとずっと聴いていたいような穏やかな気持ちにさせてくれる。 「心地いい声だね」  褒めたつもりだったけれど、ハクは悲しそうな顔をする。 「もっともっと修行をしないといけないらしい。心地いいだけの声じゃダメだって」 「修行、やりたくないって言えないの?」  それについてハクは何も言わず、今度は音源を聴かずに、アカペラでその曲を歌ってくれた。  月明かりに照らされたその横顔があまりにも美しく、思わず指を伸ばして彼の頬に触れた。指先に体温を感じる。  ハクは歌うのをやめ、恥ずかしそうに微笑んでくれたけれど、月が雲に隠れそれきり、顔を見ることはできなかった。  いつの間にか寝てしまったらしいオレは、翌朝、リュウに起こされる。 「ルイ、起きなさい。こんなところで何をしている?」  板の間で眠っていたオレは、差し込む太陽の眩しさに目をしかめる。 「あっ、ハクは?ハクはどこへ行ったんですか?」 「ハク?知りませんね。ここには最初から誰もいませんよ」  リュウが嘘をついているのだと、その表情で分かった。けれど、それ以上何を問い詰めていいのかも分からなかった。  リュックサックの中には、血に汚れたハンカチが綺麗に畳まれて入っていた。  高層マンションの部屋へ帰っても、頭の中はハクのことばかりだった。  どうして手を取って一緒に逃げなかったんだろう。どうしてリュウを問い詰めなかったんだろう。  オレがエアコンの効いた部屋の中で快適に過ごしている間も、きっとハクは辛い目に合っている。お腹を空かせている。  ハクへの思いは、同情とかそんなんじゃなかった。思春期の男子として、ハクのことを考えるだけで、身体の中心がマグマのように熱くなる。ハクは神秘的で美しかったのに、こんな自分が嫌で、汚らわしくて。それでも、ドロリとしたものを身体から排出せずにはいられない。  たった一晩会っただけの少年なのに、オレの中でその存在がどんどんと巨大化していく。  だから夏が終わるとともに、ハクのことを忘れることにした。  大切に取っておいた血に汚れたハンカチを捨ててしまえば、無かったことになるのではないかと、塾の帰り河川敷で燃やした。  これによりオレの中で、ハクという人間が本当に存在していたのかどうか、曖昧になってゆく。  それでも、忘れることはできず、かなりの頻度で思い出す。もしかしたら、オレの作り出した幻想なのかもしれない。オレの思春期の欲望が生み出した偶像なのかもしれない。そう疑いながら。  ただあの村に行ってからというもの、ふとした瞬間にザワザワザワザワと大きな樹の囁きのようなものが聴こえてくる。それはオレの進むべき道を示しているかのように、感じるのだった……。  ハクという初恋相手と、まるで意志を持って語りかけてくる大きな御神木は、高校生になっても大学生になっても、オレの心を惑わせ続けた。  ただ、シャングリラ号でハクに再会してからは、目的を果たしたかのように、御神木が語りかけてくることは、なくなった。

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