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第十五話「御神木の導き」
東京の夜景を見下ろしている。
シトシトと降る雨のせいで視界が悪く遠くまで見渡せないが、海が見えないのは変な気分だ。いや、高層マンションのこの部屋からは、晴れていても海は見えない。
「シーツやカバーは替えておいたから」
「ありがとう。あの船、全然揺れを感じないって思ってたけど、今こうして揺れない陸にいると、なんだか平衡感覚がおかしいよ」
「だってルイ、アナタ六年間もシャングリラ号に乗っていたのよ」
「そうだね。それにしてもオレの部屋、そのまま残してくれてるなんて思わなかった。ここだけ時が止まったみたいだ」
日本に着いたらビジネスホテルに泊まるつもりだった。けれどジンから三人で食事をする旨、持ちかけられた母ユイコは、当たり前に実家である高層マンションに帰ってくるよう促してくれた。
「荷物を片づけたら、お風呂入っちゃいなさい。夕飯は久しぶりにコロッケを揚げるわ」
母は今日一日仕事を休み、この部屋の掃除をしてくれたらしい。コロッケまで作ってくれるなんて、母なりにオレの帰宅を喜んでくれているのだろう。
こうして自分の部屋にいると、ハクに薬草を飲ませた夜のことが夢だったように感じる。
翌日の午後。
二年前にハクを船外へ連れ出したジムインストラクターのタロウ、ウエイターのケンと、カフェで待ち合わせた。
顔を合わせるなり「ハク様は元気か?」と心配そうに尋ねてくるのだから変な話だ。彼らは今、ジンの自社ビルの社員向けジムと食堂で、それぞれ働いているらしい。
二人を目の届くところに、という趣旨だろうが、あの時の怒りを忘れていないオレとしては、随分と甘い処遇に感じる。
「オマエたち、ハクを教団に連れ帰るのは諦めたのか?」
「いや、諦めていない」
「は?」
「俺たち、あの駐車場でハク様の歌を聴いただろ?たった一曲だったけれど、凄かった。幸せってこういうことだったんだって思い出せた。リュウ様が言っていたことは本当だったって、よくわかった。いつか教団の皆にあの歌声を聴かせてやりたい」
「どういうことだよ!」
思わず立ち上がって大声を出してしまったオレに、カフェ中の客が迷惑そうな視線を寄越していた。ペコリと周囲に頭を下げ、再び椅子に座る。
「ルイ。あのとき、ハク様を騙すような形で船外へ連れ出したことは本当に申し訳なかった。ハク様に怖い思いをさせたし、オマエたちがどれだけハク様を心配したかも今ならよくわかる。すまなかった」
二人そろって深々と頭を下げた。
「俺もタロウも反省している。それは本当だ。今は教団からの情報は全て、ジンの秘書へ報告するよう義務付けられている。全体連絡も、個別連絡も全てだ。それによって、ジンは教団の動きをある程度把握できているはずだ」
「でも、今でもハクを神と崇めてるんだろ?二人とも響音の郷の信者のままなんだろ?」
「そりゃそうだろ。歌声で人を幸せにできるなんて、人の悩みを和らげることができるなんて、神じゃなかったら、なんなんだ」
「ルイ、それでも俺たちは変わったんだ。今までは、どんなことをしてでもハク様を教団へ連れてこい、という指示に疑問を持たなかった。でも、それがおかしいことは分かるようになった」
「当り前じゃないか」
「いや、当たり前じゃないよ。例えば有名な寺院からご本尊である仏像が盗まれた。仏像は酷い扱いをされているらしい。壊されてしまう可能性だってある。早急に助けて連れ戻さなくてはならない。そう言われたらどうだ?信者は必死にその仏像を探すだろう」
「ハクは人間だ」
「そうだよ。でも俺たちはそれを知らなかった。神である前に人間なんだって今は分かる。ハク様と接する機会があったからだ。心があって、友達もいて、美味しいものを食べるのが好きな人間だったなんて、シャングリラ号に乗る前は思いもしなかったんだ」
「今もハク様を必死で探している奴らは、人間ではなく神を探しているんだ。神を取り戻すためなら、どんなことでもしなくては、と思っている」
「リュウは?」
「リュウ様も、ハク様は神だと思っている。いやあの人こそが、ハク様は人間ではなく神だと信じている」
「リュウ様は御神木の指示に従っているからな。御神木が「ハクは神」と言ったなら、神なんだろ」
「タロウとケンにも御神木の声が聞こえるのか?」
「そんなわけないだろ」
二人は顔を見合わせて笑った。
「ルイ。俺たちは今も教団の中に友達がたくさんいる。みんな何かしら苦しくて、悩んでいて、何かに縋りたいと思っている。だからいつかハク様の歌声を、彼らにも聴かせてやりたいんだ」
休憩時間を抜けてきてくれた二人は、ぬるくなったコーヒーを残して、仕事へと戻っていった。
オレは考えがまとまらないまま、しばらくカフェの椅子に座り続けていた。
高層マンションに帰れば、母は留守で、家はシンとしていた。オレにとっては母があれこれしてくれる時間より、この静かな空間のほうが懐かしい。
自分の部屋で勉強机に向かって座り、少しも変わっていない本棚を眺める。机の引き出しも、一つ一つ開けてみた。大学四年生の時まで使っていたので、就活関連の書類が多く出てきた。結局、大学は卒業することなく退学したが、後悔はしていない。
一番下の引き出しを開けると、大きなクッキー缶が入っていた。この箱、見覚えはあるが記憶からは完全に抜け落ちていた。
そっと蓋を開けると高校の卒業式でクラスメイトに書いてもらった寄せ書きが出てきた。特別親しかった人はいないので、どれも「大学生になっても元気で」「高校生活楽しかったね」など平凡なことが書かれている。
卒業式の式次第も出てきた。大学の入学式の案内状もある。つまり、高校から大学へ進学する春頃のものが詰め込まれているのだ。
記憶が蘇ってきたオレは、机の上に缶の中身を全部出し、紛れているだろう一枚の写真を探した。
高校の卒業式翌日。オレはハクのいる村を一人で訪ねた。
中学三年の夏に会った少年ハクに、どうしてももう一度会いたくて。あれが幻想ではなかったと確かめたくて。バスと電車を乗り継いで村へ行った。
バス停から村までの沿道には雪が積もっていて、三月上旬でもとても寒かったのを覚えている。
一歩一歩と本殿に近づくたびに、頭上にある樹の大きさを実感する。
その大きな樹を見上げれば、あの時と同じようにザワザワザワザワと、オレに語りかけてきた。
「無駄だ。今、ここに来ても無駄だ。オマエが来るのはもっと後だ」
そう言われた気がして、足が竦む。それでもここへ来た証拠を持ち帰りたくて、端末のカメラを大きな樹に向ける。
「カシャリ」
シャッター音が思ったより大きく響き、ビクリとするが、ザワザワザワザワという音以外、村はシンと静まり返っていた。人の気配も感じない。
ここにハクはいない。ナゼか確信が持て、オレは誰にも会わずに帰りのバスに乗った。
夜遅くに辿り着いた自宅近くのコンビニで、樹の写真をプリントし、自室の枕元の壁に貼った。その写真が自分の「しるべ」となるような気がしたから。
しかしその晩、写真を見た母が酷く嫌悪し「剥がしなさい」と声を荒らげた。
それ以来、写真はこの缶の中に仕舞われたままだった。
画鋲のあとが着いた御神木の写真を見ながら考える。思えばあの時、ハクはもうシャングリラ号へ連れ去られており、あの村にはいなかったのだと。
ジンと母ユイコ、そしてオレが揃っての会食は、それから三日後に行われた。
ジンが予約してくれた日本料理店の個室に、二人とも時間ぴったりに現れた。四人掛けのテーブルの奥に、ジンと母、手前にオレが対峙するように座る。
テーブルには美しく盛り付けられた先付けが既に並んでいる。メインの料理も既に決まっているようで、問われることはなかった。
「それで?俺たちに姉弟に、何が聞きたいんだルイ」
気温や天候の話もなく、ジンに本題を促される。オレは深く息を吐いてから話し始めた。
「御神木の話を聞きたい」
「御神木?村の?てっきり父親が村に移り住んだ理由だとか、俺たちがリュウと中互いした理由が知りたいのかと思った」
「私もよ。私と父の確執や、リュウが父親の跡を継いだ経緯が知りたいのかと」
「それよりも、オレの仮説を聞いてくれる?」
ジンも母も、アルコールを飲んでいたグラスをテーブルに置いた。
「オレが少年と言える年齢になって以降、あの村へ行ったのは、二度だ」
「一度目は、法事へ行ってもらった時ね。それより前も数回あったけれど、アナタはまだ小学生だったわ」
「うん。その中学三年の夏、オレは本殿でハクに会った」
二人に言ったことはなかったので、驚いた顔をされた。
「もう一度は、高校の卒業式が終わった翌日。日帰りで電車とバスを乗り継いで、こっそりと村へ行ってきた」
「そういえば、記憶があるわ。夜遅くに帰ってきたルイが、御神木の写真を部屋に貼っていて。本当にびっくりしたんだった」
「そう。それが二度目」
「御神木の写真を部屋に貼ったってどういうことだ?」
「御神木が「しるべ」になる気がしたんだ」
オレがそう答えれば、ジンは難しい顔をしてグラスを持ち上げ、入っていたアルコールを一気に煽った。
「一昨日、イツキさんと電話で話したんだ。それでオレからいくつかの質問をした。一つ目は、お母さんの父親、つまりオレのおじいちゃんは、御神木の声が聞こえると言っていましたか?答えはイエスだった」
「言ってたわね。母さんが病気で亡くなって、それまで家族を顧みなかった父さんが「家族をやり直す」とか言っちゃって、縁もゆかりもない村へ引っ越したの。ジンが十歳、リュウが十二歳、私が十四歳のときよ。最初は楽しかった。村の暮らしも新鮮だったし。けれど「途中から御神木が話しかけてくる」って言い出したの」
「あぁ、御神木が「ひびきさま」に本殿を作れと言ってるとか、宗教団体にしなければ、とか意味が分からなくて不気味だった」
「大っ嫌いだったわ、あの頃の父さん」
「二つ目の質問は、リュウには御神木の声が聞こえていましたか?これも答えはイエスだった。リュウに関しては、ハクも言ってたし、タロウとケンもそう言ってた」
「父さんが生きてる頃から、二人で御神木の話をしていたわ。でも父さんが死んで以降、さらに「御神木の声が」って言うようになった。私たちにも、「本当は聞こえているんだろ?ジンにも、ユイコ姉にも」って言うのよ。聞こえる訳がないのに、腹立たしかったわ」
「リュウはオカルト好きなんだろ」
「三つ目。叔父さんと母さんは、御神木のことを何て言ってましたか?そう聞いたらイツキさんは、二人とも過剰に嫌悪していて、できるだけ近寄らないようにしてた。わざわざ遠回りしたりして、それはそれで不思議だったって」
「そりゃ嫌悪するわよ」
「喋る御神木なんて気持ち悪いだろ」
「次が最後の質問。四つ目。イツキさんは御神木の声を聞いたことがありますか?答えはノー。そんなことあるわけないって、鼻で笑ってた」
「ほらやっぱり、村の人だって、父さんやリュウのこと笑ってたのよ」
「恥ずかしい話だ。父さんを不気味がって、村を出て行った人も数えきれないほどいるからな」
オレはジンを遮るように話し出す。
「それでね、叔父さん、母さん。オレには聞こえるんだよ、御神木の声が」
母が動揺して、箸を落とす。
「何を言いだすの、ルイ?父さんみたいなこと、言わないでちょうだい」
「はっきり言葉が聞こえるっていうんじゃなく、ザワザワザワザワと心に語り掛けてくるんだ。不思議だけれど、オレがハクに会ったのは、御神木の導きだって思ってる」
ジンが仲居を呼んで、母の箸と日本酒を頼んだ。
「それで、何が言いたいんだ、ルイ」
「返事はくれなくてもいい、ただオレの仮説を話すよ。叔父さんも母さんにも聞こえてるよね?御神木の声が。ザワザワザワザワって」
二人はオレから目を逸らした。
「母さんが村を出たこと、若くしてハクと同い年のオレを生んだこと、叔父さんが豪華客船を買い取ってハクを匿ったこと。それが全て、御神木の導きだったとしたら……」
ジンも母も、何の返事も寄越さなかった。その沈黙が全てを物語っている。
「オレ、村に行ってくるよ。御神木の声を聞いてくる」
強い決意を二人に告げた。
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