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第十六話「囚われの身」

 右頬が冷たい床に触れた姿勢のまま、動くことが出来ずにいた。梅雨で湿度が高く、板の間はじっとりと湿っている。手首を背中で纏めて縛られ、足首も左右を一つに括られている。痛くないようにという配慮なのか、細すぎない布のような物で結ばれているが、充分に痛い。  それ以外にも身体のあちこちが痛むから、どこが一番辛いのかは、分からない。  声は出せる。けれど目が覚めてからずっと「おーい」「誰かいないですかー」「助けてくださーい」と大声を出し続け、疲れ果てたところだ。  この位置から、引き戸のガラス窓が少しだけ見えるが、雨が降っているだろう外は暗く、夜だということしか分からない。  たぶんここは響音の郷の本殿。中学三年の夏に初めてハクと会った部屋だ。十年前。この冷たい床に、ハクも横たわっていたのだと思えば、少しだけ気分が上向きになった。オレは無理やり、ハクの温もりがここにあるかのような幻想を抱き、自分を励ます。 「ハク」  小さな声で名前を呟いて、あの頃の傷だらけのハクと、洋上にいるオレを覚えていないハクのことを代わる代わる思い浮かべた。  記憶があるのは、電車とバスを乗り継いで、村の最寄りバス停に降り立ったところまでだ。  バスには意外と多くの若い男性客が乗っていて、皆がオレと同じバス停で降りた。バスが走り去った途端、一緒に降りた乗客に取り囲まれ何発か殴られた。  差していた雨傘がフワリと宙を舞い、情けないことにオレはあっさりと意識を失った。  オレがこの村に来ることは、ジンからリュウへ連絡が行ったはずだ。  それはオレとリュウがすれ違わず会えるようにという配慮と、兄弟間で筋を通すという意味合いだったはずだ。  しかし、こういう結果になったということは、オレやジンが思っているより、響音の郷の信者たちは切羽詰まっているのだろう。  オレを捉えてどうするつもりなのか?  ハクがシャングリラ号にいることが明白な今、オレから何かを聞き出したいとも思えない。まさかオレを人質に、ハクと交換しようというのだろうか?  こんな状況にも関わらず、さっきからずっと耳に届いているザワザワザワザワという御神木の声は、「よく来たな、待っていたぞ」とオレを歓迎していた。  微睡と痛みによる覚醒を繰り返しているうちに、ガラス窓の向こうが明るくなっていた。  板の間に密着している右頬が、足音による振動を感じ取る。  見上げることはできないが、男の声が降り注いだ。 「ルイ。若い者が手荒なことをしてすまなかったね。彼らも必死なんだ」  声の主はしゃがみ込み、オレの手足を縛っている布切れを取ってくれる。 「リュウ叔父さん……」  痣だらけになった皮膚を、大きな手で労るように撫でてくれた。ようやく姿勢を変えることができる。 「おい」  リュウが部屋の入り口に声を掛けると、信者と思われる女性が救急箱を持って近寄ってきた。そしてリュウ自らが、傷口を消毒し手当をしてくれる。 「叔父さん、トイレに行かせてください」  尿意も限界だ。 「あぁ、悪かったな。トイレはそこにある」  背後にある扉を指差され、ヨロヨロと立ち上がる。先ほどの信者の女性が先回りするように扉を開けてくれた。 「ありがとうございます」  狭いスペースに、清潔なトイレと洗面所があり、ついでに顔を洗うこともできた。少しは生きた心地がする。鏡はなく顔を見ることはできないが、瞼がひどく水に滲みた。  扉を開けてトレイから出れば、リュウと信者の女性が正座をし待ち構えている。 「ルイ、足を」  湿布でも貼ってもらえるのだろうと、ペタンと座り足を投げ出す。  ガチャン。  抵抗する間もなく、目の前で金属の足枷が嵌められた。 「え?」  足枷には鎖が繋がっていて、それは部屋の端に不自然に設置された金属の柱から伸びていた。 「これだけの長さがあれば、トイレと洗面は充分に使えるから安心しなさい」  あまりに驚き、何も言えないオレの前で、リュウが「パンパン」と二回手を打った。  すると今度は、朝ごはんのお膳がいい匂いをさせて運ばれてきた。  食べない、という選択をするべきか迷ったが、いざという時に力が出ないのは困る。足枷を付けられた右足を投げ出したまま、箸を手に取った。  足枷、鎖を固定するための金属の柱、すぐそばに配置されたトイレと洗面所。きっとハクに使っていた監禁システムなのだろう。  もし今ハクがここへ戻れば、オレではなくハクがこうして囚われの身となってしまうのだ。彼のそんな姿は絶対に見たくない。  救急箱を持ってきてくれた女性も、配膳してくれた女性もいなくなり、狭い部屋にはリュウと二人きりだった。リュウの前にも、オレと同じお膳が置かれ、彼は静かに食べ始めている。 「いただきます」  温かい豆腐の味噌汁を口に運び、ほっと息をつく。その椀をお膳に置いたタイミングでリュウが話し始めた。 「それで、何をしに来たのですか?ルイ」  リュウは真っ直ぐにオレを見据えている。さすが当主。威厳がある。 「ハクのこれからについて、御神木の声を聞きにきました」 「ほぉ、ルイにも聞こえるのですか?あの声が」 「はい」 「で、今、御神木はなんと?」 「オレがここへ来たことを歓迎しています」  リュウはフフフと笑いながら、綺麗な箸遣いでだし巻き卵を口へ運んだ。 「それは話が早いですね。では、今から本音と建前を話しましょう。二人だけの秘密ですよ。どちらから聞きたいですか?本音と建前」 「建前からお願いします」 「いいでしょう。食べながら聞きなさい」  オレに食べ進めるよう指示しながら、リュウは箸を置いた。 「響音の郷という宗教団体は、元からこの村に暮らす者が中核を担っています。豊かな産業もないこの村では、職業として教団で働けることを、皆が喜んでいます。インフラだって教団のお陰で随分と良くなりましたから」  そういう利点は確かにあるだろう。 「就職した者は、村の外に信者を増やすことを課せられます。しかし「ひびきさま」の歌声をありがたがる、という教えは弱く、どちらかというと助け合いの精神を大切にした教団として、地道過ぎる活動をしていました。なかなか信者が増えない中、私が「ひびきさま」の血を引く男巫であるハクを神へと作り上げたのです。ハクの歌声は素晴らしく、聴いた者を幸せで前向きな気持ちにします。ルイも聴いたことがあるのでしょう?」  オレはコクリと頷く。 「評判は広がり、私も私もと、皆がハクの歌を求めました。一度聴いた者も、二度三度とハクの歌声を渇望するのです。ドラッグみたいなものですよ。心の強い者は、ハクによって引き出されたポジティブな気持ちを踏み台に、何か行動を起こすことができます。しかし弱い者は、強い多幸感に溺れ縋りダメになってしまう。教団に留まるのは圧倒的に後者が多い」  シャングリラ号のセレブ相手のショーではあまり聞かない話だ。 「そんな私が作り上げたハクは、十年前、我が弟ジンにより、唐突に連れ去られました。信者たちは嘆き悲しみました。けれど、教団としてハクという神を取り戻すという共通の目標ができたのです。信者たちは、ハクがどれだけ素晴らしい神だったのかを語り継ぎ、取り戻す為に一致団結し、強くなろうと修行に励んでいます。教団としは一回り成熟することができましたし、信者の心も強くなりました」 「これも建前の話?」 「ええ、そうです。昨日ルイにしてしまったように、多少荒っぽいこともする連中ですが、向かっている方向は一つなのですから」 「では本音の話は?」  リュウは立ち上がって引き戸を開け、周りに人がいないかキョロキョロと確認をし、閉めた。  そしてお膳の前に戻り正座をして、湯呑みの茶を一口飲む。 「所詮、操られていたのですよ、父も私も。そしておそらくユイコ姉もジンも。さらにはルイ、どうやらアナタもね」 「それは御神木に?」 「ほら、話が早い。優秀ですねルイは」 「御神木の目的はなんだと思うのですか?」 「わかりません。ただ、ルイはここへ来たことを歓迎されていると感じたのでしょう?私には「ルイを捕らえてハクを誘き出せ」と聞こえています。ハクをここへ戻すことが最終目的に思えますが、おそらく違います」 「違う?」 「ええ、そんな簡単な話ではない。私たちの一生と御神木の一生では十倍くらい長さが違うでしょう。御神木の一手一手は気が長い。所詮、駒の一部である私には理解できない」 「オレたちは駒……」 「それに私が右へ行くことを求められていると思って、わざと左へ行っても、結局は左に行くことが御神木にとって正解だったりするのです」 「よく分かりません……」 「ええ、分かりません。だからね、御神木の言うことなんて気にしないのが一番です。ここは教団として、やはりハクを取り戻すことを優先させます。ハクが帰れば教団はもっともっと大きくなりますから」  教団を大きくすることは、そんなに大切なことなのだろうか? 「昨晩のうちに「ルイを誘拐した」とジンに連絡しました。ハクを返さなければ、こちらもルイを返さないと。だって、私がハクを神にしてあげたですから」 「ジン叔父さんは、リュウ叔父さんより、ハクを大切にしています」 「そうでしょうか?確かにジンもハクを使った商売をしていますからね。しかし、それだけではない。ユイコ姉が黙っていないでしょう。ルイの顔が腫れ、傷だらけになって板の間に転がされている写真はなかなかショッキングでしたから」  リュウは腕時計をチラリと見た。 「もっとゆっくり話をしたいのですが、修行の時間になってしまいました。最後に一つ、ルイは自分自身が御神木に操られていることをどう思っていますか?」 「オレは御神木の導きでハクに会えました。ハクが「神の歌声」を持っていようがいまいが、一人の人間として、オレはハクを愛しています。好きだから、これからもずっと彼のそばに居たいんです」  リュウは心底驚いたような顔をした。 「オレはしばらくの間、この村で御神木と対話をしたい。オレに何をさせたいのか、それがハクを救うことになるのか、見極めたい」  そのタイミングで引き戸の向こうから「当主様、お時間です」と声が掛かり、彼は席を立って部屋から出ていった。  先ほど救急箱を持ってきてくれた女性が、朝食のお膳を下げ、布団を敷いてくれた。 「昨晩はよく眠れなかったでしょうから、こちらでお休みください」  親切にしてくれる女性に礼を言い、ついでにオレの荷物がどこにあるか聞いたが、「存じ上げません」と首を横に振られた。オレから外部へ連絡する手段はなさそうだ。  とにかく体力温存だと考え、オレは布団に入って目を瞑った。身体は重くすぐに眠気に包まれる。  どれくらい眠っていただろう。すぐそばで人が言い争う声が聞こえて、目が覚めた。 「とにかく、ルイがどういう状態なのか、確認させてちょーだい!」  揉み合うように何人もの人間が部屋に入ってきた。 「母さん?」   母はオレを見て悲しそうに顔を顰める。顔にはまだ、殴られた痕が鮮明に残っているのかもしれない。 「とにかくハクは返さない。ルイ、それでいいな?」  母の後ろにいたジンに、唐突に問われる。 「はい。もちろんです。オレは大丈夫だから、どうかハクの安全を守って」 「分かった」  ジンが頷き、母が口を固く結ぶ。 「そういうことだ、リュウ。ルイはここに置いていく。手荒なことをしたら許さない。連絡係を送り込むから全ては筒抜けだ。いいな」  母の目が潤んでいることには罪悪感を感じる。  それでも二人は村を去り、オレはここで御神木と対話する日々が始まった。

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