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第二十一話「愛を知る」
リョウは、次の寄港地でシャングリラ号を降りた。「日本各地、世界各地を旅して疲れた」と言っていたのだから、もう少し船内で羽を休めていけばいいのに。早々に村へと帰るそうだ。ナンバーツーに任せきりの「響音の郷」のことが心配なのだという。
リュウという男は、少年ハクに惨い修行を課し、無理やり合法ドラックとも言われる「神の歌声」を開花させた。そのことを、オレはやはり許せない。けれど今となっては、ハクが聴き心地のよい程度の歌声を持つ「ひびきさま」になって、あの村で静かに暮らすというもう一つの人生を、想像することはできない。
リュウは信者のために、教団を大きくするために、ハクを神に仕立て村に閉じ込めておきたかった。そう思っていたけれど、もしかすると少しだけ違ったのかもしれない。
御神木に操られていたという以外にも、ハクが神になることが例え苦痛や苦労を伴ったとしても、最終的にハクのためになると思い込んでいたのではないだろうか。
リュウが船を降りる日の朝。眺めのいいカフェレストランで、ハクとリュウとオレの三人で朝食を取った。ガラス窓の外は、空が青く晴れ渡り、海は穏やかで、港が近いからカモメがたくさん飛んでいた。
生ハムの挟まったクロワッサンを頬張るハクを見て、リュウが尋ねる。
「ハク。アナタは今、幸せですか?」
ハクはコクリと頷く。
「そうですか。それならば、よかった」
リュウはそう言って、安堵したような笑みを浮かべた。
母ユイコは、珍しく十日間ほど、シャングリラ号に滞在していた。とはいえ、ノートパソコンを持ち込み、部屋ではバリバリ仕事をしていたようだが。それでも「豪華客船って最高ね!」と快適さを称えていた。
とても天気のよい午後。そんな母に誘われ、三人でジェラートを食べに行った。
ハクは相変わらずガラスケースの前で悩んでから、マンゴーと抹茶とピスタチオのトリプルを選択した。
展望デッキに出て、あまりの強い日差しに皆がサングラスを掛ける。母を真ん中にし、三人並んでジェラートを食べるというのは、なんだかくすぐったい気分だった。
ミルク味のジェラートを口に運びながら、母が話し始める。
「ハクのお母さんは、私にとって村でできた唯一の友達だったって話はしたわよね?」
ハクと二人でコクリと頷く。
「ハクのお父さんのことは、誰かから聞いた?」
二人でブンブンと首を振る。
「ハクのお父さんは、本殿の建築に来ていた大工の見習いだったの。私たちと同い年でね。すごくいい男だったわ。彼のことを、うちの父親も気に入ってね。スカウトして教団で働くようになった。ハクのお母さんと恋人同士になったことは、村の人皆が知っていたけれど、とってもお似合いなカップルだったわ」
皆の手が止まりそうになるけれど、ジェラートは太陽の熱で溶けてゆく。慌てて口に運んでは、垂れるのを防いだ。
「出産時にアナタのお母さんは亡くなったけれど、お父さんは男手一つで、一生懸命に子育てをしていたそうよ。私もその時には村を出ていたから、人伝に聞いた話だけどね。ハクのことを本当に可愛がっていたらしいわ」
手がべとべとしてきた。すかさず、母がオレたちにウエットティッシュを配ってくれる。
「ハクが五歳のとき、事故は起きた。その日は、教団の神事みたいなことが行われる予定だった。父から私にも村に来るよう指示があったけれど、無視したわ。ルイも五歳だったし、私も仕事があったから。ジンは断り切れず、イツキを伴い村に出向いた。当時、当主だった父は神事の前に身体を清めると言って、滝行を行ったそうよ。前日の雨で増水しているから止めたほうがいい、という周りの声を無視してね」
話しながらも、母の声におじいちゃんへの嫌悪が滲む。
「そして父は、たくさんの人が見ている前で溺れ、流された。ジンも、リュウも咄嗟に身体が動かなかったって言ってた。ゴーゴーと川が渦巻いていて、恐ろしかったって。でも、勇敢なハクのお父さんは、川に飛び込んでくれた。私の父を助けるためにね。けれど結局、二人とも亡くなったの」
存命だとは思っていなかったけれど、そんな形で亡くなっているとは思わなかった。
「だからね、ジンもリュウも、なんとしてもハクには幸せになってもらいたいのよ。ハクのお父さんの命を奪ったのは、自分たちの父親だから。あのとき、飛び込むべきだったのは自分だと、ジンもリュウも思っているから」
そこまで言って、母は立ち上がる。
「手を洗いたいわ。ウエットティッシュじゃどうにもならない」
もしかすると母は、この話をハクにするために、シャングリラ号に留まっていたのかもしれない。
翌日の寄港地で「また来るわね」と笑顔で下船していった。
時は瞬く間に過ぎてゆく。
オレが初めて、ハクの記憶リセットに立ち会った時。イツキがオレに渡してくれたファイルは、今もオレの手元にある。
スースーと穏やかに眠るハクの横で、久しぶりにそのファイルを捲る。
「髪色が黒から白になるのに要する時間は、歌唱時間累計が千時間程度と推測される」
ファイルを見返すこともなく、頭に入ってはいるが、改めてその一文を確認した。
ハクの髪色が真っ黒になったのは、三年前の十一月。オレをヘリコプターで迎えにきてくれたときだ。
翌年八月の落雷により御神木が焼失し、二年前の十一月の祭りに村へ行ったときには、髪色は戻らなかった。
リュウがシャングリラ号に乗船してきたのは昨年の二月。そこでオレが育てていた芽が御神木であると判明する。もう少し育てばハクの穢れを取り除いてくれるだろうと、オレたちは希望を持った。
船内のステージを一日一回に減少させ、千時間に達するのをできるだけ遅延するよう調整した。
昨年十一月の村祭りだって、オレとしては歌わせたくなかった。船の最上階のサンルーフで育てられている御神木の成長が遅いからだ。でもハクは「約束だから」と村に出向き、信者の前で歌った。
そして更に半年が経ち、いよいよハクの髪は白に近づいてきた。それでもステージは二日に一回のペースで行われていた。ステージ数が減ることで希少価値が高まって、VIP客が支払うステージ代金は高騰しているらしい。
ただそれも、本日のステージで一旦休止となった。計算上はあと数時間歌えるけれど、もう無理はさせられない。
ハクの髪は真っ白で、食欲も落ち、あまり動きたがらない。ただ、病気ではないからこれ以上悪くなることはない。死に至る訳でもない。
リセットは選択しないと二人で決めた今、あとはひたすら御神木の成長を待つ、ゆっくりとした日々が始まる。
朝の目覚ましアラームも掛けなくなった。ハクかオレ、どちらか先に目を覚ましたほうが「おはよう」と声を掛ける。
今朝はハクが先に目を覚まし、オレに触れるだけのキスをして、起こしてくれた。
唇に感じた柔らかい感触で目を覚ませば、目の前にハクの顔があった。真っ白い髪と宝石のような青みがかった瞳が、美しい。
「おはよう、ハク」
そう言うと「おはよう、ルイ」と笑ってくれた。
オレはベッドを降りカーテンを開け、バルコニーへ続く扉を開放する。部屋の中に潮の香りのする風が入り、ハクの髪を揺らした。
オレはハクに、薬草の茶を用意する。リセットのときに服用するような濃度ではなく、ごく薄いお茶。サンルーフで御神木と一緒に育てているフレッシュな薬草を使ったハーブティーのようなもの。
「これを飲むと少し元気になる気がする」
一度、ハクがそう言ってくれたから、その言葉を信じ続けていた。本当は好物の酸味の少ないコーヒーを飲みたいのかもしれないけれど、少しでも身体にいいものをと思ってしまうのは、オレのエゴだろう。
ヨタヨタとソファへと移動してきた白いパジャマのハクが、海と空を眺めている。ダルそうに手足を投げ出して、それでも「ルイ。ルイもこっちにきて海を見よ」と甘えたことを言って微笑んでくれた。
穏やかな時間が流れる中で、急に不安が押し寄せてくることもあった。
昼寝をするハクの横で、マユミに借りた小説を読んでいる午後。
ふとハクの顔をみると、寝息はスースーと規則正しくても、顔色はすぐれない。
御神木の成長を待てば、穢れが浄化されるという確証はないのだ。そもそも成長というのが、三十センチなのか、一メートルなのかも分からない。今はまだ十センチ程度の背丈しかないのだから。
やっぱりハクの健康を優先し、リセットしたほうがいいのではないか。けれど、そしたらまた、ハクはオレのことを忘れてしまう……。そんなのは嫌だ。嫌だ。嫌だ。
涙を飲み込んだオレが深いため息をついてしまうと、ハクは決まって目を覚ます。長い腕を伸ばしオレの頬を撫でてくれる。
「どうした?ルイ」
「ごめん、起こしちゃった?なんでもないよ」
「そう?」
心配そうに、オレの手を握ってくれる。オレが心配を掛ける側で、どうするのだろう。
「歌ってあげようか?そしたらルイ、そんな悲しそうな顔をしないで済む」
ハクは優しい。
「ダメだよ。ハクはもう歌っちゃダメ」
「じゃ、ルイが歌えよ」
「え?オレが?」
オレが歌は苦手だと知っていて、そんなことをわざと言う。オレを笑わせようとしてくれる。だから、歌う代わりにギュッとハクを抱きしめた。温かいハクの腕が、オレの背中を何往復もさすってくれた。
「好きだよ、ルイ」
そんなとっておきの言葉も添えてくれるから、結局涙が零れ落ちてしまう。ハクに見つからないように、拭わなくてはならない。
シャングリラ号は、九月「メキシコ・カリブ海クルーズ」を航行していた。
小さな御神木の植わるサンルーフには、朝、昼、晩と様子を見にいっている。毎回写真を取り、見比べて、成長しているか検証しているが、目に見えるほどのスピードでは大きくならない。
管理は船内の観葉植物を世話している専門家がしてくれているから、オレにできることは、何もない。
ただ待つだけというのは、思いのほか辛い。
その晩も、ハクが眠りについたあとサンルーフへ行き、デッキチェアに座って御神木を眺めていた。暗く静かな空間で、ただただ小さな御神木に「ハクを助けてください」と祈り続ける。
いつからハクのことを、こんなにも愛おしく思うようになったのだろう。初恋のときから、もちろん好きだと思っていた。でも、今思えばばそれは自分勝手な「好き」という感情で、幼く拙いものだった。
リセットを繰り返し、困難を乗り越え、それは手放すことのできない愛情になっていた。
部屋に戻ると、ハクは目を覚ましていた。近頃のハクは、一日中うつらうつらしているから眠りが浅い。
「どこに行っていたんだ?ルイ」
ベッドで上半身を起こすハクの、細くなってしまった手を握りながら「サンルーフで御神木を見てきた」と伝える。
「ふーん」
ハクは目を細める。
「なぁ、ルイ。俺、まだ少しなら歌えるよな?」
「ダメだよ、ハク。もう歌わせられない」
愛するハクに、無理はさせたくない。
「ううん。一回だけ歌う。小さな御神木に、俺の歌を聴かせてやる。ルイにも、その場に立ち会ってほしい」
「オレも立ち会う?」
「俺が男巫で「ひびきさま」なのは、血筋なんだ。俺にはご先祖である大神様の血が、随分と薄まったけれど流れている。でもルイは?どうしてルイはこんな面倒なことに巻き込まれているんだろう?って最近ずっと考えている」
「面倒なんかじゃないよ!」
オレが強く否定しても、ハクは淡々と話しを続ける。
「ルイと俺では子が生み出せない。血筋はウミとソラに引き継がれた。だから大神様としては安泰のはず。ルイの役割は他のところにある。分かるルイ?」
ハクが何を言いたいのか、しばらく考えてみたけれど分からない。その間にハクは、再び布団へと潜り込んだ。そしてオレにも、隣に入るよう促す。
眠たそうに欠伸をして、目を閉じながらハクが言う。
「ルイに役割があるとしたら、俺に愛を教える係だと思う。好きとか、エッチしたい、とかそんなレベルじゃないルイの愛を知った俺は、これからもっと慈悲深い「神の歌声」を発することができる。だから、無事レベルアップしたぞ、もう試練は終わりだぞって、完成形の歌を御神木に聴かせてやるんだ」
「ハク……」
「なんか口にするとファンタジーで陳腐だな」
ハクはそう笑いながら、スースーと眠りに落ちた。
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