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第二十二話「新しい日々」

 その日。  太陽が昇る前に、ハクに揺さぶり起こされた。 「ルイ、ルイ、起きて」  ハッと目が覚め、ハクがどこか具合が悪いのではないかと、心臓がドキリとする。 「どうしたハク?大丈夫?どこか痛い?」  フフフとハクが笑う。 「心配性だな、ルイは」  その愛おしそうにオレを見る顔に、ホッと息を吐く。 「サンルーフに行こう。御神木に歌を聴かせる」  そう言ってベッドを降り、白いパジャマを脱ぐ。痩せてしまった身体が露になった。船内を移動できるような普段着への着替えを手伝い、オレも身支度を整える。 「歩ける?」 「もし、歩けないって俺が言ったら?」 「オレがおんぶしてあげる」 「うーん」と迷っていたが、余分な体力は使わないほうがいいと判断したのだろう。 「じゃ、そうしてもらおうかな」  筋力が落ちてしまったルイの、それでもちゃんと温かい体温を背中に感じながら、オレは部屋を出る。廊下を進み、エレベーターに乗り、最上階へと向かった。早朝すぎて誰ともすれ違わない。 「重くないか?」  オレは首を振る。ハクという存在の全てを背負って歩いているこの時間を、尊く感じていたから。    元はジンの部屋のバルコニーだった場所が、サンルーフに作り替えられたが、彼の部屋を通過しなくても辿り着けるようになっている。ここはガラス張りで、見晴らしがいい。  太陽はまだ昇っていないが、水平線の向こうが真っ赤に朝焼けしていて、恐ろしいほど綺麗だった。  サンルーフに置かれたデッキチェアの前で、ハクを背中から降ろす。 「ありがとう、ルイ」 「歌うの?本当に?」 「うん。歌う。愛を込めて、歌う」  ハクは、ヨロヨロと植木鉢に歩み寄り、御神木に話しかけた。 「よく聞いてろ。俺の歌の力が合格点だったら、もう試練は終わりにしてほしい」  スッと姿勢を正したハクが、大きく息を吸い込み、静寂ののちに歌い始めた。  この曲は、オレが中学のとき本殿で傷だらけのハクとイヤフォンで聴いた曲。オレが初めてこの船に乗りリクエスト曲として選んだ曲。四回目のリセット直前にハクがベッドの中で歌ってくれた曲。タロウとケンに拉致された駐車場で歌った曲。思い出が詰まった曲だ。  痩せてしまった身体から出ていると思えないほどの声量で、ハクは歌いあげる。オレの目からはポロポロと粒となって涙がこぼれ落ちた。歌が身体に染みわたって、ここに至るまでの全ての出来事を肯定できる、そんな気持ちになっていた。  目の前がじょじょに明るくなってきて、視線が海へと向く。日の出だ。ハクが歌う背後から強い光の塊が顔を出し、グングンと昇り始めた。  あぁ、夜が明けたんだ。  一曲が終わろうとしたとき、ハクの身体がグラリと傾いた。 「ハク!」  駆け寄って抱きかかえ、意識を失ったハクの名を何度も何度も呼ぶ。オレの耳元では、ザワザワザワザワと懐かしい声が、何事か話しかけてきた。 「あら、ハク。久しぶりじゃない!髪染めたのね。アナタの黒髪懐かしいわ。艶々で綺麗」 「うん。もう白くはしないことにしたんだ。これからはずっと黒」 「うん。とっても似合ってるからいいと思う。それで何味にする?今日のオススメは、ココナッツよ」  ジェラート屋のメアリはどれにするか迷うハクを、辛抱強く待っている。その間にオレとの雑談が始まった。 「ねぇ、ルイ聞いた?最上階のオーナーの部屋を移動させて、あそこに温室を作るんですって。素敵よねー。船の上に温室なんて。でも、マンゴーとかパパイヤを育てるんだと思ったら、日本の村を再現するらしいって噂よ。ちょっとイメージできないわ」 「へー。そうなんだ。メアリは耳が早いね」 「そりゃこの船は、私にとって地元みたいものですもの」 「抹茶とマンゴーのダブルで」 「はいはい。結局同じなんだから、迷わなくてもいいのに。ね、ルイもそう思わない?」 「覚えてはいるんだ、今まで食べた全ての味を。で、ダブルにするかトリプルにするかを、迷っているんだ」 「面白いわね、ハクって」  メアリは、何も頼んでいないオレに、ココナッツのジェラートをシングルで渡してくれた。 「おぉ、ハク、久しぶり。体調崩してるって聞いてたけど、元気そうでよかった」 「カール、ありがとう。もう元気になった。コーヒーとサンドイッチ。サンドイッチは、アボカドとシュリンプ。できればコック長のお手製で」 「了解。ルイも同じでいいか?」 「うん、よろしく」 「テーブルへ持っていくよ。座って待っていて」  オレたちは、眺めのいい窓の近くの席へ向かおうとする。 「あっそうだ、ハク!クルーの間で噂があるんだけど、今度俺たちも、ハクの歌を聴ける機会があるらしい。VIP客しか聞けなかったのにって、みんな喜んでる。俺さ昔、ダンスパーティでハクの歌を聴いたことがあるんだよ。なぜか突然歌い始めてさ、覚えてる?歌い終わったら倒れちゃったんだよな、あの時」 「うん、覚えてるよ。カールが支えてくれたお陰で、怪我をしなくて済んだし、医務室にも運んでくれて、助かった」 「今度また、ハクの歌が聴けるの楽しみにしてるからな」  喋ってばかりいるカールを、厨房からコック長が呼びつけたので、話はそれきりになった。 「あのー」  十歳と八歳くらいの女の子と、三歳くらいの男の子を連れた夫婦に、呼び止められた。 「突然すみません。十年以上前の話なんですけど、この船のプールサイドで歌っていた人ですよね?俺たち、あのときケンカをしていたカップルで」 「あぁ、覚えています」  オレより先にハクが彼らを思い出す。 「あのあと、俺たち無事に結婚をして、今では三人も子どもがいるんです。仕事も必死で頑張っていて、またこの船に乗ることを目標にしていたんです」  ダンナさんが家族を紹介してくれた。 「お幸せそうでなによりです」 「全てはあの日、プールサイドで聴いた歌のお陰で、物事が好転したんです。ありがとうございました」  奥さんが深々と頭を下げる。  ハクは、男の子の頭を撫でてやる。彼はハクのことが気に入ったようで、「バイバイ」と見えなくなるまで、手を振ってくれた。  シャングリラ号の中の寿司屋の個室で、マユミと待ち合わせをした。長いこと休止していたハクのステージは明日から、再開される。 「マユミさん、これ借りていた日記帳、ありがとう」  ハクが何冊ものノートをマユミに返却した。 「どうだった?思い出せてた?」 「うん。記憶はかなり正確に戻ってるみたい。日記に書いてあったこと、ほとんど誤差なく覚えてた」 「そう良かったわ」 「だけど、それよりも毎日の出来事をこんな風に記してくれていたことに、感激した。全部オレとルイのことだったから。ずっと見守ってもらってたんだって」 「いつか、二人の役に立つ日が来るんじゃないかって思ってたのよ。日の目が見れてよかったわ」 「失礼いたします」  声とともに引き戸が開き、寿司下駄に乗った握り寿司のセットが運ばれてくる。とても豪華なネタばかりだ。一緒にあら汁と、だし巻き卵も注文してくれたようで、テーブルの上が賑やかになる。  以前にもこのメンバーで同じ寿司を食べたことあった。あのときは憂うことが色々あったけれど、今は何もない。明日からの日々は明るく希望に満ちている。  ハクはまずイクラ軍艦に箸を伸ばした。 「美味い!」  オレとマユミは顔を見合わせて笑った。  夜。二人で、最上階のサンルーフへ出向く。  御神木は、ここ一か月でみるみる大きくなり、オレたちの腰くらいの高さになった。ザワザワザワザワと何事か囁いているが、オレはもう聞こえないフリをする。それでも御神木が怒った様子はないから、これでいいのだろう。  外は暗く、御神木を囲むガラスの壁には、オレとハクが映り込んでいた。 「ハク」  名前を呼ぶと、「ん?」とこちらを振り向いてくれる。黒い髪がフワっと揺れて、目にかかり邪魔そうだ。数歩進んで、ハクの目の前に立ち、おでこにかかる髪を指で漉いて、耳にかけてやった。 「ルイ」  今度はハクが名前を呼んでくれた。「んっ」とキスをねだるように、あごを突き出してくる。だからふざけて、あごにチュッとキスしてやれば、クスクスと笑いだした。 「ハク」  何度でもその名を呼んでしまう。口角が上がったハクに、そっと唇を重ねる。触れるだけで一旦離れたけれど、すぐにまたキスしたくなる。下唇を甘く噛んで、唇の隙間から舌を滑り込ませる。ハクの肩を両手でガッチリと掴んで、舌を絡ませれば、ハクの息が甘く乱れ、目つきがトロンとしてきた。 「ルイ……ん」  熱い思いが込み上げてきて、キスはより深く、より激しくなってゆく。  そのとき、視界に何かが入った。目の前のガラスの壁には、オレたちではない二人が映り込んでいる。 「はっ。そんなエロいキス、どこで覚えたんだ、オマエら」  呆れたような声に、ルイが慌ててオレから離れ、濡れる口元を拭う。せっかくのムードがぶち壊しだ。 「どこって。そんなの一つしかないだろ?」  オレは大切な時間を邪魔され、怒ったように言い返す。 「一つ?」 「叔父さんとイツキさんだよ。オレたちだって、アンタたちみたいなエロいキスができるようになったってことだよ」 「ハハハハハハ」  大声を上げて笑ったジンは、さっとイツキの腰を抱き寄せ、食らいつくようなキスを始めた。イツキも戸惑いながらも、されるがままだ。  オレとルイは、見ていられないとばかりに、サンルーフをあとにする。あんなのに比べたら、オレのキスなどいつまでも子どもみたいだと、悔しく思いながら。

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