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第15話 損な役回り

 待ち合わせの時間にぎりぎり間に合うか間に合わないかで、俺は全速力で走った。流石三四の着付けだ。これだけ走っても全然崩れることを知らない。ただ、待ち合わせ時間に間に合わないかもしれない状況を作った張本人たちでもあるわけだが。  隣町の料亭「季ノ路」は枝垂桜並木の川沿いにある。流石に秋なので桜は咲いていないが、春になると枝垂桜の花びらが川を流れ下っていく様がとても綺麗だ。今は祭りの期間のため、通りの店の名が入った雪洞がいくつも立てられている。もう少し暗くなったら雪洞に火が入れられ、祭り帰りの人が流れてきて飲み屋街に消えていくことになる。待ち合わせはその川にかかる橋の前、季ノ路からもよく見えるその場所である。走っていくが、すでに見知った体格の良い男性が待ち合わせ場所に立っている。高校で2つ上の先輩で、名を小坂という。小坂先輩は柔道部の主将をしており、俺はたまに練習に参加させてもらっている。もちろん家族には秘密だ。最近帰りが遅いのは、実は放課後に柔道を教えてもらっているからだった。生来体を動かす方が好きな自分が高校に進むにあたり、好きだった剣術道場を辞めざるを得なくなって鬱屈した日々を送っていた自分には、体を動かせる時間を作ってくれた先輩には頭が上がらない。 「遅れてすみません」 「なに、時間ぴったりだ」 息を切らしながら謝罪した俺に、小坂先輩は笑いながら俺の肩に手を置いた。そのまま少し俺に顔を寄せて小坂先輩は小声で続ける。 「悪いな、予定があるって言ってたのに――知ってると思うが、一応紹介だ。妹の弘子だ」 俺が大丈夫だと答えるよりも前に、むしろ遮るように小坂先輩は妹を紹介した。体格の良い小坂先輩の体で隠れていた妹が前に出てきた。葡萄色のよろけ縞と牡丹が描かれた浴衣を着た女性は、まっすぐこちらを見ている。今年の夏にあっているはずの女性の姿と重ねてみようと試みるが、正直に言うとこんな人だった気がするぐらいの認識で申し訳ない気持ちが勝った。 「弘子です。よろしくお願いします」 「花村聡一です。こちらこそよろしくお願いします」 お互いがお辞儀をして、顔を上げる。弘子が微笑みかけてくるので、つられて俺は笑顔を張り付けた。視界の端で小坂先輩が肩をすくめるのが見える。弘子が小坂先輩に向き直り、 「では、いってまいります、お兄様」 と声をかけた。小坂先輩が、小さく「おう」と応えたので、俺も会釈をして弘子と一緒に歩き始めた。周りにはすでに祭りから帰って飲みに歩いていく人もちらほら見える中、その流れに逆らうように。 「弘子よ、これは……望み薄だぞ……」 小坂先輩が独り言ちたが、笑い声やすでに出来上がった酔っ払いの声にあふれた川沿いの道では俺の耳に入ることはなかった。 * * * * *  氏神祭の参道が屋台で埋まっているのが遠目でもわかる。陽はもう暮れ始めているが屋台は明るく焼き物をしている湯気やら煙やらが照らされて昇っていく様が見える。俺は隣を歩く弘子を見る。疲れているように見えなくもないが、俺の視線に気付いて微笑む弘子から疲労感を読み取ることはできなかった。 「……疲れていませんか?」 「大丈夫ですよ。聡一さんは大丈夫ですか? お仕事をしてから来られたのでしょう?」 疲れたとは言わないだろうなとは思ったが、こちらを気遣われるとは思わなかった。女性と二人で出かけるという経験があまりないので、正直こちらはずっと気を張りっぱなしで仕事より疲れているとは口が裂けても言えない。 「大丈夫ですよ、ありがとうございます。どこから回りましょうか」 気遣ってくれたことにお礼を言ってこの後の目的地について聞くが、弘子は綺麗な笑みを絶やさないまま、 「お任せしますよ。今日は、お礼ですから」 と返される。こちらもなるべく笑顔を絶やさないようにしながら、さてどうしようかと屋台に目をやる。こんな時祭りが初めての永太と来たなら片っ端から回るというんだろうか、それなら楽なのになんて思ってしまって、7つも下の義弟と先輩の妹を比べるという失礼にも程がある有様だ。気を引き締めねばいけない。  人混みの中をかき分けて行かねばならぬが、こういう時は手を引いてもいいものなのだろうか。永太にならすぐ言えることですら、失礼には当たらないだろうか迷ってしまう。一度提案してみようと、もう一度弘子の方を見ると、俺の視線に気付いてまたぱっとこちらを笑顔で向き直る。だが、その一瞬前の弘子の表情がどうにも引っかかる。俺は子供の状態を確認する母親のように素早く弘子の全身に視線を走らせた。化粧をしているのでわかりづらいが顔色は悪くない。汗はなし。ということは――。 「すみません、ちょっとこちらへ」 そういって左手を出して手をつなぐよう促した。弘子は少し恥ずかしそうに俺の手を取る。人混みをかき分けて、参道の脇へ寄る。杉林のうちの一本の前まで弘子を連れてくると、俺は弘子の前にしゃがんで膝をついた。 「やっぱり」 弘子が履いている右の草履の鼻緒が、赤く染っている。親指と人差し指の間から血が出ていた。俺は懐から手拭いを取り出して、なるべく細くなるように割いた。 「弘子さん、草履を脱いで、俺の膝に足を乗せてください」 「でも」 「大丈夫ですから」 ぽんぽんと俺は浴衣の上から膝を叩いて載せるように指示を出す。弘子は蚊が鳴くような声で、 「失礼、します」 と言って杉の木に手をついてから右足を乗せてきた。俺は割いた手ぬぐいを親指と人差し指に巻いた。弘子が足を戻そうとするので、「まだ」と制止をかけた。俺は弘子が脱いだ草履を手に取り、草履の鼻緒を調整しようと上面を確認する。坪は割と伸ばされていたがまだ余地がありそうだ。底の減りもほぼなく、新しい草履であることが伺える。 「いつおろされたんですか?」 「……昨日です」 履き慣れてない草履で来たことで迷惑をかけてしまい、バツが悪そうな顔をする弘子に俺は悩みつつも伝える。 「伸ばしてしまっても大丈夫ですか?」 「お願いします」 この草履は鼻緒を伸ばすと戻せない。鼻緒の後ろの付け根二つに指を通し、伸ばしすぎないように気をつけながらぐっと力を入れて鼻緒を引き上げる。最後に坪を少し引っ張り出して、草履を弘子の前に置いた。弘子はそっと草履に足を差し入れて、 「ありがとうございます」 と頬を赤らめながら言った。 「まだ少しきついかもしれませんが、少しこれで様子を見ましょう。反対側も伸ばしますか?」 「……お言葉に甘えてもいいですか?」 恥ずかしそうにする弘子に、一瞬永太がお願いしてくるときの顔が重なって気が緩んだ。はにかみながら左足を膝の上に乗せるよう言うと弘子は、 「いえ、こちらは怪我をしてませんので」 と遠慮し始める。俺は肩をすくめた。 「怪我しているほうで支えるのは大変でしょうに」 「大丈夫ですから」 弘子が意地を張って草履を脱いで片足立ちをし始めるので、仕方なくそのまま草履を受け取り、手早く右の草履と同様に調整した。弘子の足元に草履を置くと、弘子はそっと左足を草履に差し入れた。 「大丈夫そうですか?」 「はい、ありがとうございます」 申し訳なさそうにする弘子を見て、俺は立ち上がって浴衣の裾を払った。 「せっかく来たんですから、楽しみましょう。腹が減りませんか? 何か食べましょう。ね?」 俺はまた弘子に左手を差し出す。弘子が嬉しそうにその手をつかんだ時、ふと永太が言った言葉が脳裏をよぎった。 ――『ほんとに? 相手が美人で、浴衣で、告白からの花火でも!?』 まさかそんな。くだらない考えを持つのはやめよう。弘子に永太の姿が重なって、何も考えずに出した左手に胸が少しちりついたが、過分な勘違いと早々に切り捨てた。

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