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第16話 俺を俺として
山車の上で祭囃子を奏でる太鼓や笛の奏者をしばらく見物してから、俺たちは花火を見るために移動を開始した。見晴台と呼ばれるその場所は、山から遠くを見るときに広く開けた場所というだけであって、その場所だけを見ると何もない広場としか言いようがない。昔、戦の時にはそこに陣を構えて戦ったんだとかなんとか誰かが言ってた気がするが、本当のことかどうか興味もないので記憶もあやふやだ。参道から外れた脇道に差し掛かり、丸太で押し固める形で作られた階段の前で俺は弘子の草履を見た。今のところは問題なさそうだが――。
「足の調子はどうです? 登れますか?」
「おかげ様で大丈夫です」
弘子がにっこりと笑って見せるので、逆に無理をしていないか気になった。花火を見終わったら季ノ路まで弘子を送って本日の任務は終了だ。今のところ草履の一件以外は何の問題もなく、弘子から不平不満もなく来ているが、ここで気を抜くわけにいかない。ここで何かあったら、小坂先輩に申し訳が立たない。
手をつないだまま、俺と弘子は階段をゆっくりと上がった。階段を上がりきるところで、子供を抱えた父親が見晴台のほうから走ってきたため、二人で慌ててよけたときにお互い階段の両端によけたため手を放してしまった。階段を降りていく親子を見送って、俺は弘子の方を見た。弘子も俺を見ていた。
「行きましょうか」
「はい」
つないでいた手は離れたまま、俺たちは最後の階段を上がる。見晴台にはすでにたくさんの人がいたが入れないというほどでもない。何とか視界が開けてそうな場所を探して弘子を連れて行く。
「大分歩きましたが、弘子さん疲れてませんか?」
「大丈夫です。聡一さんは?」
「自分は大丈夫ですよ。先輩に鍛えられてますから」
そうおどけて見せると、弘子はふふっと笑った。俺もつられて笑いながら、さすがに話すことがなくなってきてしまって、気まずさをまぎらすために空を見上げた。街中で見上げる空より、やはり視界が広いと星の瞬きすら普段よりきれいに見える気がするから不思議だ。
遠くで鳴っていた祭囃子が消えた。そろそろ花火があがる。永太はさすがにもう帰っただろうか。さすがに一人でこの時間までいるのはまずかろう。あの子は頭がいいからどんなことをしたら心配をかけるかというのはわかっているはずだ。いや、自分なんて心配されないと思っていたとしたら、突拍子もないことをしでかしてしまうかもしれない。
「聡一さん」
弘子がはっきりと自分を呼んだ。今日聞いた中で一番意思を感じる呼び方に、背中に一筋冷えた汗が流れた。俺は弘子の方を向いた。弘子は真剣な面持ちでこちらを見ている。緊張しているのか握られた巾着袋の紐が張っている。
「今年の神輿行列で助けていただいたときから、お慕いしておりました」
彼女の瞳が、まっすぐに自分を見てくる。純粋な好意なのだろうということも、頭ではわかっている。だが、どうにも思考に混ざってくる「花村屋の長男」という自分の立場だからでは? という雑音。この5年間で自分に近寄ってきた女性は、大体ご実家が何かを経営されている人だった。
俺がただの職人の子だったなら、もしかしたらそんなことはないのではないか。着せてもらっている雅な浴衣に帯、通わせてもらっている高等学校。期待の上に立って期待を着せられ期待を向けられる。――思い。重い。
空に花火が打ちあがる。返事をしなければいけないのに、なんて言うべきかわからない。どういったら傷つけないで伝えられるのか。何が正解なのか。声を――。
「すみません……お気持ちはうれしいですが、受け取れません」
弘子の唇がきゅっと結ばれて、うつむいてしまった。そんな顔をさせたいわけじゃないのに。なんでそんな顔をさせない男を選ばないんだ。俺みたいな、張りぼてなんかじゃない、もっと幸せにしてくれる人を選んでほしいのに。
俺は後頭部を掻いて、空を見上げた。はじけて消える花火を見ながら反省をする。絶対最適解ではなかった。でも、大切にできないのにとりあえず付き合うとかはどうしてもできそうにない。先の幸せをどうしても見いだせない。
突如、弘子が抱き着いてきた。弘子が声を殺して泣いている。思わず慰めそうになってしまうが、それはやってはいけないと理性でとどまる。すると視界の端に、見晴台の出入口に走っていく見慣れた姿を見た気がした。ぱっと目で追うと、やはり永太であった。まったくこんな時間まで一人で出ているなんて。心配するだろうに。自分が大切にされているということをもう少しわかってほしい。帰ったらまた言い聞かせないといけない。永太は俺とは違ってきちんと花村家の人間なんだから。
まずはこの状況をどうにかしないといけない。そう思って自分の胸に縋り付いている弘子に視線を落とすと、白いつまみ細工の簪が見えた。ふと脳裏に蔵の中にある白い小物入れがよぎった。薄紅色の珊瑚をつかったバチ型簪。本人にとっても死別した母親の大切な形見を俺に譲りたいと言った。俺をただの俺として一番懐の中に入れてくれているのは、永太かもしれない。
小さな嗚咽が聞こえなくなって、弘子が俺から離れた。俺はどう声をかければいいかわからなかった。何を言ってもダメな気がした。
「すみません。浴衣……」
弘子が謝ってきた。自分の浴衣を見てみると、確かに涙で濡れている。
「いえ、大丈夫です」
答えて、再び沈黙がおりる。二人とも何も言わずに空を見上げる。ただきれいに咲いては消える花火を見ていた。
* * * * *
あの後から、一言も話すことなく帰路についた。もう少しで季ノ路に着く。自分の一歩後ろを歩く弘子の顔からは、もう笑顔は消えていた。待ち合わせ場所だった橋の前には今は誰もいない。小坂先輩に申し訳が立たない。最後の最後まで、楽しいお祭りという形にすることはできなかった。
橋の前まで来て、俺は振り返る。弘子も一歩後ろで立ち止まった。見つめ合ったまま、弘子は動こうとしない。声をかけるべきなのか、弘子が何を考えているのか読み取ることができない。
「あの――」
口を開いた瞬間、弘子が歩き出した。まっすぐに俺に向かって。もう少しでぶつかるというところで止まるので、近すぎる距離にたじろいでしまって後ずさりしようとした瞬間、弘子に浴衣の左襟をつかまれた。驚いて固まっていると、弘子の顔が近づいてきてとっさによけてしまった。唇のすぐ横に、柔らかい感触を感じて、頭が真っ白になった。
弘子は俺の浴衣をつかむのをやめると、つま先立ちをやめて、屈託のない笑みを浮かべた。
「隙あり、ですよ。聡一さん」
ぽかんと弘子の方を見ていると、弘子は余計に嬉しそうに笑った。
「おやすみなさいませ、どうぞお気をつけて」
楽しそうに季ノ路へ入っていく弘子を見送って、俺はそっと左頬を触れた。触るとわかる口紅の感触に、手を見てほんのりつく紅色に、俺はめまいを覚えた。
「お、女って……わからん!」
思わず口をついて出た。困惑しながら、俺は帰路につく。もう何も考えないでおこう。理解しようと思ったところで、たぶんどれも正解じゃない。もうとにかく身も心もへとへとだ!
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