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第19話 つないだ手に恐れを預けて

 声が枯れるぐらい久しぶりに泣いた。むしろ誰かに抱かれながら、泣いたのは初めてだったかもしれない。さっきまで触られていたものとは違う安心するぬくもりを感じながら、僕はしゃっくりが止まるまでそのまま聡一にしがみついていた。聡一の首筋に顔を埋めて、こっそり匂いを吸い込んだ。まるで嗅覚が洗浄されていくようで、安心していい場所だと刻まれていくような感覚がしみこんでいく。自然としゃっくりが収まっていく。 「あに様、もう大丈夫」 「……うん」 聡一が背中に回している手を離した。離れがたい気持ちは大きいが、さすがに心配されてしまう。聡一の表情は、まだ少し沈んでいる。 「ごめんなさい、濡らしちゃった」 「あぁ……大丈夫だ」 鼻がまだ詰まっていて、しゃべりづらさを感じる。聡一はまだ何かを考え込んでいそうだ。聡一の目尻も少し濡れていて、あぁきれいだな……なんて現実逃避した。聡一の目尻を拭こうと手を伸ばしたら、体重移動した瞬間靴下の下で小枝が割れた。そういえば靴を一個途中で落としてきたのだった。どこにあるんだろうと思ったら、どうやら聡一が鞄と一緒に拾ってきてくれたようで近くに落ちているのが見える。僕が歩いて拾いに行こうとすると、聡一が先に歩き出した。鞄と靴を持ってきてくれて、靴を自分の前においてくれる。 「拾ってくれてありがとう」 片足を突っ込んで、とんとんとつま先を詰めた。僕の言葉に返答がなく、やはりどことなく反応が鈍い。聡一の顔を黙ってじっと見つめていると、聡一とやっと目が合った。 「永太」 「はい」 聡一が名前を呼ぶので、僕は間髪入れずに返事をした。何かを言おうとしているのに、聡一はそれを口に出すことを迷っているようだった。しばらく待っても、聡一は何も言わない。さて、どうしたものか。 「あに様、参拝に、行きませんか?」 聡一は少し驚いたようだったが、すぐにいつもの優しい聡一の顔になった。あぁ、僕の好きなあに様の顔だ。 「そうだな。行こう」 「はい!」 聡一の同意を得て、僕たちは獣道を上って参道を目指す。僕は聡一の後ろを歩いているが、うまく足に力が入らない上に整備されているわけでもない道で、よろけながらなんとかついていく。前を歩いている聡一が少し立ち止まって僕に手を差し伸べてきた。僕は聡一の手を握って、また歩き始める。僕の歩調に合わせて、聡一もゆっくりと歩いてくれている。参道にたどり着いても、聡一はそのまま手をつないだままだった。誰かに見られたら少し恥ずかしいが、今日は人通りも少なくその心配はなさそうだ。  境内に入って、聡一が手水で手を洗い始めた。僕も聡一に倣って手を洗った。 「……あに様」 「ん?」 僕は聡一におずおずと聞いた。 「僕きちんと作法を知らないんだけど、これって口もゆすいでいいの?」 「あぁ、いいぞ。口をゆすぐときは……!」 聡一が説明をしようとして、はっと僕の顔を見た。本当にこういう時だけは勘が鋭い。僕はにっこりと笑って誤魔化してみたが、また聡一の顔に影が差してしまった。 「……口を、ゆすぐときは――」 聡一はそのまま続けて作法について教えてくれた。杓子に左手で水を受けて、口に含む。よくよくゆすいで吐き出した。できればもう一回したかったが、聡一が気にしそうなのでやめた。左手をもう一度洗ったあとにもう一度杓子で水をすくい、柄に水をこぼすように洗って杓子を伏せて置いた。  聡一の顔を見る。あの杉林の中で見た表情を浮かべている聡一に、申し訳なさが募る。僕は聡一の袖を引っ張って意識をこちらに戻そうとした。聡一とやっと焦点があったが、今にも泣きだしてしまいそうな顔をした聡一は、ぎゅっと目を瞑ってから気持ちを切り替えたように目を開いた。 「行こうか」 聡一が力なく笑う。胸が締め付けられそうになりながら僕は聡一の後ろをついていった。聡一の背中が愁いを帯びていて、見ていられなくて僕は聡一の影を見ながら歩いた。  聡一のやり方を横目に見ながら自分も参拝する。聡一と一緒に参ることができてよかったなと思いながら、無事に生きてここに来られたことを感謝した。手をおろして聡一を見る。聡一はまだ手を合わせていたのでじっと聡一の横顔を見ながら待った。神様には見透かされているだろうが、僕の恋が叶うよう願ったりはしなかった。何故かと聞かれるとなんとなくとしか答えられなかったが、強いて言うなら僕の矜持としか言いようがなかった。  聡一が目を開けて、手をおろす。 「永太」 「はい」 さっきと同じようなやり取りとなりそうだったが、今度は聡一が意を決したように続ける。 「ちょっとそこに座って話そう」 境内の手水舎のすぐ近くにある縁台を聡一が指さした。今度は僕は先行して歩く。普段から後ろをついていくのに、聡一が僕の後ろをついてきてくれるのが、少しうれしかった。縁台の隅に座って、隣に聡一が座るのを待った。しかし、聡一は隣に座らなかった。僕の前に膝をついて僕の両手を握ってくる。突然のことに僕は聡一の意図を測りかねて困惑しているが、その様子を聡一はじっと見てきた。 「こんなことを聞くのは酷なのはわかってるんだが……怖くはないか?」 「あに様が?」 「いや……触られることが、だ」 聡一が何を言わんとしているに合点がいった。わかってるんだが――。 「あに様だと検証にならないよ……」 僕は呆れ声で答えた。それでも聡一は食い下がってくる。 「俺以外に触られたと思ったら? どこらへんまで大丈夫そうだ? 手をつなぐのも難しそうか? 話すのは?」 どんどんあふれてくる聡一の心配を聞いて、ない想像力を働かせて考えてみるが正直答えに困ってしまう。僕が困り顔で聡一をみると、聡一の声もどんどん暗くなっていく。 「……今回の件を、お前は両親に知られたいか? 知っていてほしいと思うか?」 聡一が真剣な面持ちで続けてくる。僕の意思を尊重しようとしてくれることはひしひしと伝わってくる。ただ、その質問については何が正しい答えなのか判断ができない。聡一が僕の両手を一度離して、今度は包み込むように握り直した。 「今回の件、もし母さんや義父さんの耳に入ったら、今日みたいに一人で行動する機会は制限されてしまうかもしれない。でもそれは心配だからだっていうこともわかるだろう? だがそれ以外にも、警察に相談という話になったら、どんな風に人に伝わっていくかもわからない。そうしたら、お前の今後の未来にかかわる話になってきてしまう」 まるで懇願するかのように聡一が額を僕の膝につけた。 「……こんな話をすると、お前は話さないこと選ぶだろう。でも、俺はそれを正しいことだとは思わない。お前の身に起こったことを親に隠すべきじゃないとも思っている。俺は――」 聡一が大きく息を吐いて、気持ちを落ち着かせようとしているのがわかる。当事者ではない聡一が、僕のことを考えて迷っているのがいたたまれない。 「俺は……お前にどう選ばせてやればいいのか、わからない……こんな、こんな兄ちゃんで、ごめんな……」  縁台に座ったから自分の姿が目に入る。服こそ破けていないが泥にまみれて、正直「何かがあった」ことを隠せそうにないということがよく分かった。陽が傾き始めて、あたりを橙色に染め始める。もうそろそろ帰らねばならない時間だ。だからこそ、聡一は焦って迷っている。すべては、僕のために。  僕は胸いっぱいに空気を入れて、腹をくくった。自分の好きな人がここまでさらけ出して聞いてくれたのだ。次は、僕が言う番だ。 「あに様、顔を上げて」 僕がそういうと、聡一は素直に顔を上げて僕を見る。僕は聡一の目をまっすぐ見ながら、僕が一番恐れていることを聞いた。 「あに様は……あんなことがあった僕が、気持ち悪くなった?」 聡一の目が見開いた。聡一が口を開いたが、僕はそれを遮って聞く。 「……嫌いになった?」 最後の言葉を吐き出した瞬間、僕の全身から冷や汗が吹き出た。言った自分の言葉が恐ろしすぎて身震いする。聡一の手に包まれている手が小刻みに震えているのが自分でもわかった。  聡一は大きく首を横に振って否定する。 「馬鹿! 嫌いになるもんか! 俺がお前を嫌いになるわけないだろう!」 その言葉を聞いて、安堵と猜疑心を胸に収める。僕は、聡一に微笑みながらこう答えた。 「僕は、あに様に嫌われなければ、それでいいんだよ」

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