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第21話 縁側に耳あり、座敷に影あり
風呂から上がると、夕餉の時間だった。利吉から用水路に落ちたことを聞かれ、理一郎と征二に嗤われたが、悟られることなくきちんと隠し通せたことを喜んだ。
「理一郎」
利吉の一言で理一郎と征二は押し黙った。言い方は普段と変わらないのに、よくわからない圧力を感じた。
「食べ終わったら座敷に来なさい」
「は、はい」
理一郎は少しぎょっとしたようだが、返事をして飯を搔っ込み始めた。その姿を征二が少し心配そうに見ている。
「聡一も」
利吉が聡一に視線を向けて付け加える。僕は驚いて聡一の方を見た。聡一の顔は真剣そのもので、花村屋で働いているときのような部下の顔をしていた。
「わかりました」
応えた聡一と利吉の視線は交差したまま。まるで利吉の無言の指示を受けているような聡一の姿に、僕は心配することしかできなかった。
* * * * *
座敷は庭に面した場所にあり、縁側にからすぐ庭に出られるようになっている。床の間もあって、普段使わないにも関わらず毎日拭き上げられる一番上等な座敷机が置いてあった。
聡一と理一郎が座敷に入ると、紀子は座敷のありとあらゆる襖を閉め始めた。例にもれず縁側の障子すら閉められてしまった。理一郎と征二が叱られるときはそこまではしないのに。僕は縁側で聞き耳を立てようと忍び足で縁側に回ろうとしたが、いきなり後ろから寝間着を引っ張られてつんのめる。振り返ってみると征二が僕の寝間着をつかんでいた。
「馬鹿! 今は行くな」
片手に漫画雑誌を持った征二が小声で僕に話しかけてくる。征二から話しかけてきたことが珍しくて、僕は声が出なかった。しかし待っても何故行ってはいけないのかの説明はしてくれそうにない。僕の寝間着も放してくれないし、しびれを切らして聞こう口を開くと、征二は「シッ!」と人差し指を口に当てて黙るように指示してくる。征二はそのまま僕を引っ張って廊下の方まで連れてきた。後ろ歩きになる僕の都合とかはまるきり無視である。
「紀子が入ってからじゃないと話は始まらない。――お前もなんかもってこい」
と征二は手に持っている漫画雑誌をひらひらと振って見せてくるので、僕は急いで自室に戻って、棚から伝記本を引っ張り出した。縁側はきっと冷えるので羽織も片手にかけて征二のもとへ戻る。征二はさっきと同じ場所で待っていたが、廊下の奥を警戒しているようだった。なんだかよくわからないが、征二の手慣れた感じがとても頼もしく見える。
「――来た」
征二がそういって僕を物陰に押しやった。二人で廊下の方を見ていると、紀子が盆に湯呑と急須を乗せて座敷の方へ歩いていくのが見えた。征二が音を立てないように縁側へ移動していくので僕もついて行った。座敷の横に差し掛かったところで、征二が身振り手振りで「お前はここら辺にいろ」と指示をしてきたので頷いて立ち止まった。征二はそのまま縁側を移動して座り、僕と征二で座敷の両端に面した縁側にいるような形になった。征二は漫画雑誌を開いて紙面に目を落としている。僕も征二に倣って縁側に腰かけ、伝記本を広げた。広げて分かった。手元が暗すぎて普通の本だと読みづらい。なるほど、こういう時は漫画本の方がいいのか。征二はそれを見越していたのかとも思ったが、いや、単純にそれ以外持ってないのだろう。
背後の座敷から聞こえるぼそぼそとした声に全部の意識を集中した。
* * * * *
「花村屋の今後について少し話しておこうと思う。楽にして聞いてくれ」
紀子が盆から湯呑を置かれたタイミングで利吉は話を切り出した。紀子は俺と隣の理一郎にも同様に茶を出して、自分は利吉の角を挟んで隣に座る。利吉は紀子が座るのを確認して、口を開いた。
「俺としてはまだ後継者を定めてはいないことは最初に言っておく。まだ隠居するつもりもないしな」
利吉が紀子が湯気が上がる湯呑を持ち上げるが、まだ口をつけない。俺は知っている。利吉は猫舌で熱い茶を飲むのが苦手だ。普段三四が淹れているお茶は、利吉については冬でも少し温めのもので出している。紀子が知らないわけないので、これは紀子から利吉への無言の圧力以外に考えられなかった。俺は紀子をちらりと見るが、当の本人はつんと澄ました顔で、目を瞑って利吉の話を聞いている。
「ただ声として、後継者教育を始めてもいいんじゃないかという話が方々から出ているのも事実だ」
ズズッと音を立てて空気とともにお茶の上澄みを口に含んで、利吉は湯呑を置いた。
「知っての通り、花村屋は現在8代続く地域に根付いた卸問屋だ。うちが傾くことはすなわち、この町すべての商家に大きな影響を与えることになる」
実際利吉の言う通り、7代目の時に花村屋は一時他県の問屋からの圧力で経営が危ぶまれた。八方手を尽くしたようだが、経営はどんどん悪くなった。心労がたたり体調を崩した7代目は、自分の子が中学を卒業した時に早々に引退。そして8代目当主の座に就いたのが、目の前にいる利吉である。もちろん当主の座に就いた瞬間すべてがうまくいったわけではない。右も左もわからない状態の利吉を救ったのは、前妻の実家である米問屋だった。問屋同士の横のつながりは侮れず、他県の問屋からの攻撃はぴたりと止んだ。その後、仕事を覚えた利吉の発展はすさまじく、大店としての花村屋が復活したのだ。
「その分、俺は血で簡単に継いで行くことについては反対だ」
利吉が俺を見る。俺は眉間に皺を寄せて紀子を見た。紀子は目を開けて座敷机の中央あたりを見ているが、その目に燃える野心の火が俺には恐ろしかった。利吉に視線を戻すと、利吉も顔はこちらを見ているのに目は紀子を見ており、口角がわずかに上がったのを俺は見逃さなかった。
「理一郎」
「……はい」
利吉が理一郎に視線を向けた。理一郎が居辛そうに返事をする。
「お前が本当に花村屋を継ごうと思っているなら、勝ち取れ。己の器を示せ。今のお前は少なくとも俺以外の者からは選ばれない。自覚があるな?」
理一郎がぱっと顔を上げる。紀子も利吉に視線を向けた。だがそれ以上の反応を俺は見ることができずに、自分の膝の上で握った拳に視線を逃がす。紀子からどのように利吉に伝わったかわからないが、少なくとも俺の意思は見透かされているだろう。だからこそ俺を山車にして理一郎に発破をかけて競わせる心算のようだ。花が開けばそれでよし、実のらねば摘み取って俺を当主に据えるつもりなのだろう。種を撒くその周到さが、花村家を盛り返したのかもしれない。
「話は以上だ。皆励めよ」
利吉はそう言うとまだ熱いだろう湯呑をあおって紀子の方を見る。湯呑を紀子の前に置くと意味ありげに紀子に笑いかけた。立ち上がって縁側の方に歩いて行くと、障子を勢いよく開いた。弟二人が庭の方を向いて座っていたが、突然のことにびっくりしてこちらの方に振り返っている。利吉が珍しく笑い声をあげながら、縁側を歩いて自室に戻っていった。理一郎も湯呑には口もつけずに縁側を通って自室のほうに向かうようだ。征二がそのあとを追っていく。紀子はというと、空になった利吉の湯呑と理一郎の湯呑、急須を盆にのせ始める。
「聡い――」
「永太、そんなところにいたら風邪ひくぞ」
紀子が俺に声をかけるが、俺はそれを遮って立ち上がった。縁側に座っている永太に声をかける。永太は紀子と俺の顔を交互に見ている。俺は紀子の顔を見ることはできなかった。しかし永太の表情を見れば、紀子が今どんな顔をしているのかわかるような気がした。
「――行こう」
永太に声をかけると、永太は静かに頷いて立ち上がった。俺が先に歩いて階段に向かっていると、
「おやすみなさい」
永太の声が聞こえる。振り返ると、永太が紀子に声をかけていた。あぁ、優しいな。お前は本当に。そうやってお前は、俺の心も救おうとしているんだろうな。
自分の幼稚さを再確認して、俺はまた歩き出した。
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