22 / 58

第22話 自らに灯をともして

「オハヨウ」 僕は声をかけられてその場で凍り付いた。朝餉のために降りてきた居間で、先に身支度を整えていた理一郎が僕に挨拶をしてきたのだ。これに恐れおののかずにどうしろというのだ。ほらみろ、隣で征二も理一郎の顔を見ているじゃないか。 「おは、よう」 なんとか声を絞り出して、僕は自分の席に着いた。あとからやってきた聡一にも同様に理一郎が声をかけ、聡一が固まったのが見えた。僕は心の中で爆笑した。  昨日の一件のせいか、朝食の雰囲気がなんとなく変わった。主に理一郎と紀子、そして聡一が。理一郎は明らかに聡一を意識しており、聡一もそれをわかってか気を張っているように見える。そして、それを見る紀子の無表情が朝餉の場に緊張感を持たせていた。朝から手伝いに来ている三四が少しそわそわしていて可哀そうだ。征二は少しむくれながら静かに咀嚼している。なんだか奇妙な空気に、僕も朝から疲れてしまった。  気まずい時間が終わって、理一郎と征二が登校するために出発するのを見送った。理一郎が気まずそうに「一緒に行くか」なんて声をかけてくるもんだから、僕は必死に鳥肌を隠しながら「僕は歩くのが遅いので」と丁寧に断ると、理一郎も征二もほっとしたように先に行った。今日は二人よりも早く出る聡一の出発も遅いようで、敷地の門前で一緒になった。聡一と目が合って、優しい眼差しを向けてくれるのをうれしく感じながら、僕は昨日の聡一を思い出した。  昨晩、なんとなく目が覚めた時に誰かが廊下を静かに歩いていく音を聞いて、なんとなく襖を開いて覗いてみると、階段を下りていく聡一の姿を見た。その後ろ姿は今にも消えそうな蝋燭の灯のようだなと思った。僕は以前蔵の中で見た聡一の後ろ姿を思い出して、そっと襖を閉めて見送った。今追いかけるのは、きっと違う。追いかけたい気持ちを我慢して布団に戻った。どうかあの簪が聡一の火を掬い上げて、彼の中に渦巻く気持ちを燃やし尽くしてくれるよう願いながら。 「あに様、いってらっしゃい」 「おう! 永太も気をつけてな」 聡一が僕の頭をぽんと軽く叩いて先に門をくぐって行ってしまった。そのあとを追うように門を出て、僕が行く方向とは真逆の道を歩く聡一を少し見送っていると、突然聡一が振り向いた。目が合って僕が手を振ると、聡一が僕を指さした。まるで氏神祭の夜のようだと思いながら僕が笑っていると、聡一も笑って手を振り返し、前を向いて歩き出した。 * * * * *  放課後、部活動終わりまでの時間を俺は教室で宿題をしながら待った。小坂先輩に稽古をつけてもらうときは、さすがに部員でもない自分に部活動の時間をお願いするわけにもいかない。遠くの方で他の部が帰っていく声が聞こえて、俺は宿題を鞄にしまった。足早に柔道部の練習場に向かう。練習終わりの部員ががらりと戸を開けて出てきたので、俺は端によって礼をしながら部員が出てくるのを見送った。やはりといってはなんだが、個人指導を受けている俺をよく思ってない人もおり、舌うちをしながら去っていく人もいる。それでも俺はこの時間を失うわけにいかなかった。出てくる部員がいなくなったのを確認して、俺は練習場に入った。広く畳が敷き詰められたそこの中央に、柔道着姿の小坂先輩が立っている。 「来たか」 小坂先輩が俺を見て声をかける。俺は靴を脱いで練習場に上がり、小坂先輩の前で膝をついた。 「待て待て待て。お前が今何をしようとしているか大体察しはつくが、やめろ」 「そういうわけにもいきません」 呆れたように言う先輩に俺は応えて床に手を着こうとした時に、間髪入れずに先輩は続ける。 「妹は何も言ってこなかった。それが全てだ。強いて言うならお前がきっぱり振ってくれたと笑顔で報告されただけだ」 俺はぴたりと動きを止めて、小坂先輩を見る。先輩は、やれやれといったように俺の道着を投げてきた。 「俺の妹をなめるなよ? あんな器量よし、お前よりいい男をすぐ見つけて落とすさ。――さっさと着替えろ。時間が惜しい」 先輩の言葉に甘えて、俺は服を脱いで道着に手早く着替えた。練習時間としては本当に短く、本来であればけが防止のために軽く運動をしてからしなければならないのは重々承知ではあるが、自分には時間がないため、柔軟体操をしてから練習を開始する。  時間が少ないから仕方ないとは言え、まぁこれが全然うまくならないわけで。ただ、動きに集中し、体を動かして、頭を空っぽにする。それだけが唯一全てから解放される時間だった。手加減されているのは重々承知だが、先輩と組み合いながら技をかけられないように防ぐ攻防の時間が前より長くなったように感じる。 「……弘子は、お前の眼鏡にかなわなかったか」 突然先輩からそんな言葉がかかり、俺の意識が一瞬氏神祭の帰り道の記憶に持っていかれた。「隙あり、ですよ。聡一さん」そういう弘子の声が聞こえたような気がした。そして気付いた時にはあっという間に自分の体が宙に浮き、次の瞬間には畳の上に叩きつけられる。技をかけられた自分でさえ分かる、きれいな一本だった。先輩が道着を直しているときに、俺は片手で目を覆いながら情けないとわかりつつも愚痴をこぼす。 「先輩……今のはちょっとないですよ……」 「お前の弱点は、情に流されやすいところだな」 先輩がそんなことをいうものだから、俺は起き上がって先輩を見る。先輩は意地悪くにやりと笑って答えた。 「今日は何回投げられるかな?」 「~~~! おねがいしますっ!」 俺は苦笑しながらまた構えた。まぁこの後も投げられるわ投げられるわ。自分の集中がこんなに人の言葉で乱される人間だとは思っていなかった。何とか聞き流す努力をして会話しながら組み合えるようになった時だった。 「そう言えば、氏神祭の誘いを最初断って来た時の用事ってなんだったんだ?」 「――末弟を、連れて行って、やりたかったんですよ! 最近やっと、動けるようになってきたんで!」 また先輩が話しかけてきたので、息が上がっている自分には答えるのも文字通り息絶え絶えであったが、なんとか答える。先輩ばかり余裕そうで少し情けない。 「あぁ、あの生まれつき肺が弱いっていう」 「えぇ、そうです」 話しかけながら足をはらいに来たりするもので、全く油断できない。全神経を集中したいのに、答えるのに思考を回しながら組み合うのは本当に神経を使う。 「最近は元気なのか」 「はい、用水路に落ちても、風邪ひかなく、なりましたし」 「用水路……?」 「えぇ、昨日」 「昨日!? 大事がなくてよかったが」 こんな会話をしながら、技をかけてくるんだから本当にこの先輩は容赦がない。 「ちゃんと見てなきゃダメだぞ、おにーちゃんっ!」 「っ! ぅえ!?」 自分の体が軽く浮き上がったように感じた瞬間、目の前の先輩がいきなり視界の下へ消える。右腕が引っ張られ、先輩の体重が両の腕にかかるように前につんのめる。そのまま上体が曲げられ視界が回転し、肩の後ろ側から畳に落ちた。 あぁ、また投げられた。 「技のかけ方が分からないと言うよりは、かけてやろうという気迫が感じられん」 「防ぐので精一杯ですよ」 お互い乱れた道着を直しながら、立ち上がる。横分という技だったと記憶しているが、以前見せて貰ったはずの技だった。防ぐことが出来ないぐらい素早いかけ方だった。 「次はお前がかけて来い。時間までにかけられなかったら、俺がお前に技をかけて終わる」 お前になんていつでも技をかけられると言われている。何故だろう、剣術道場では出来たような心構えが、どうしてか今はできない。先輩が俺の闘争心に火をつけようとしているのはよく分かる。狙いがわかる分、出来ない自分が情けない。  小坂先輩と組み合うが、やはりなかなか技が決まらない。段々時間が迫ってきている。焦りが出て余計に体に力が入る。 「格上相手に挑めなくなったら、いつか大切なモンなくしちまうぞ!」 先輩の檄が飛ぶ。その言葉で脳裏に浮かんだのは杉林の男の下卑た顔。あの時、足元が固い地面なんかじゃなければ――! 体が自然と素早く動く。相手の左手を引いて前方に崩し自分は相手の下に潜り込んだ。相手の体格は自分より大きいので畳に膝を着き、そのまま背にいる相手を引き落とすように投げる! 重くたたきつける音ともに小坂先輩が畳の上に投げられた。 「お、背負落! いいね」 先輩が飄々としながら立ち上がった。明らかに最後は手加減された。それが分からない俺ではないが、それでも気持ちが少し高揚し、出来たことに達成感を得た。 『ありがとうございました』 お互いに礼をして練習が終わった。少しだけ、気持ちが上を向いた気がした。

ともだちにシェアしよう!