23 / 58

第23話 好きじゃない

 この数日間は、僕にとって苦痛以外の何物でもなかった。理一郎がまるで聡一の真似をするかのように僕に構おうとし始めたのだ。そういうところが浅はかだと思うが、努力の仕方がわからないだけで期待をかけられたことに喜び、変わろうとする素直な性格というのは、ある意味魅力的に映る面があるのかもしれない。少なくとも今の僕には有難迷惑すぎて理解できないが。  理一郎に遭遇するかもしれないという理由で僕はまた二階の角部屋に引っ込んで過ごすようになった。以前はよく外で遊んでいた理一郎が、放課後に学校の運動場で遊ぶ姿が見えないのである。 宿題を終えて教科書を閉じ、僕は窓の外を見た。今日は風が強く、夕暮れで色付いた雲が速く流れていくのを見ながらため息をつく。聡一が帰ってくる時間はまだまだ後だ。流石の理一郎も、聡一が近くにいる時は僕のところには来ない。会いたいという気持ちと安寧を求める気持ちが合わさって、聡一の帰りを切に願っていた。 階段を音を立てながら上がってくる音が聞こえる。僕は身構えた。来た。来てしまった。最悪だ。あぁ逃げ出したい! 「永太、入るぞ」 有無を言わさず襖が開けられ、理一郎と征二が入ってくる。僕は自分の顔が引きつっているのを感じながら、笑みを張り付けた。 「どうしたの? 二人揃って」 「いや、何をしてるかなと思ってな」 理一郎がそんなことを言いながら、畳の上に座り始めた。征二は不躾に部屋の棚をじろじろと見始めた。居座る気満々の態度に僕は嫌悪感を覚えながら答えた。 「丁度、宿題が終わったところだよ」 「ほう? 宿題か。どれ見てやろう」 要らぬ世話過ぎて御免蒙りたいが、理一郎の優しいお兄ちゃん像ではきっとそうするのであろう。僕は机の上の算数学習帳を手に取り、渋々理一郎に渡した。  理一郎は僕が書いた最後の頁から遡るように数枚捲って、「ふーん」と声を上げながら見始める。まるで粗探しをしているようで、僕はひどく居心地が悪かった。ふと征二を見ると、棚の前に立ったまま僕の方を睨んでいる。はて、僕は何かしただろうか。 「――懐かしいな。今はこの範囲をやってるんだな」 言うことが見つからなかったのか、理一郎はそう言って学習帳を後ろ手で征二に手渡した。征二は僕を睨みながら、学習帳を眺める振りをしていた。さてさっさとご退場いただきたい二人に、僕はどう言ったら良いか考える。 「兄さんたちは、終わったの? 宿題」 一瞬で、空気が凍ったのがわかった。確かに答えが分かってて聞いたが、では何故遊びに来たのか。やらねばならぬ事から何故しないのか。呆れを面に出さないようにするのが精一杯だ。 「――さ、そろそろ飯時か。お前も降りてこいよ」 こちらの問いには答えずに、理一郎は立ち上がりそそくさと部屋を出ていった。征二は手に持っていた学習帳を僕に押し付けると、そのまま黙って部屋を出ようとする。 「征二兄さん」 僕が呼び止めると、征二は少し驚いたように振り返った。 「この前は、ありがとう」 先日の夜、座敷での会話を盗み聞きした時の件について、僕はやっと征二に礼を言うことが出来た。なにせ征二はいつも理一郎と一緒にいるので、声をかけられなかったのだ。 「……あぁ」 征二は簡単にそう応えて部屋を出ていこうとするが、また踵を返し僕に向き直った。 「オレは、お前が好きじゃない」 突然そんなことを言うもんだから、僕も正直に答える事にした。 「奇遇だね。僕も兄さんたちが好きじゃないよ」 「だよな」 言われた征二も、こちらがどう答えるか分かっていたようだ。お互い苦笑し合って、今度こそ征二は部屋を出ていった。 * * * * *  目の前で声を押し殺し抱腹絶倒している聡一を見ながら、口では「笑わないでよ」と言いつつ僕は幸せを噛みしめていた。聡一が遅くなった夕餉をとったあと僕の部屋にやってきたので、今日家に帰ってきてからの話をすると、どうやら聡一のツボに入ったらしく目の前で苦しんでいる。なかなか見ない聡一の姿に、僕もつられて笑っていた。 「はぁ、笑った! お前も言うようになったな!」 聡一が僕の頭をこねくり回すようになでた。それがまた聡一が嬉しそうに笑っているので、僕は少し得意げだった。 「しかし、ほんっとに仲悪いのな」 「よかったことなんてないよ……でも、あに様もでしょ?」 僕はげんなりしながら聞くが、聡一は少し複雑そうな顔をしながらどう答えるか迷っているようだった。 「――まぁ、俺はいいんだよ。一番兄ちゃんだからな。それに、嫌われる理由もわからなくない。ただ、俺が理一郎たちを嫌うってことはないかな」 「え゛っ」 聡一の答えに喉から変な声が出た。普段からずっと軽視され続けているのに、嫌ってないと言う。人が好いにも程がないだろうか。でも、僕には一つ思い当たる答えがあった。 「……それは、『兄ちゃん』だから?」 僕の問いかけに聡一は何も言わずに笑ってまた僕の頭をなで始めた。今度のなで方は、とても優しかった。この人はどれだけ自分の気持ちに蓋をしてしまうのだろうか。もう少し、せめて僕の前でだけでも蓋を外してもらえるようになれればいいのに、僕にも『兄ちゃん』の顔をする。もし自分が理一郎と同じ歳だったなら、もう少し聡一の気持ちを楽にしてあげられただろうか。すべてがもどかしい。 「――さ、今日も見せてくれるか? 誰にも見つかってないか?」 両手をこちらに出してくるので、僕は寝間着を腕まくりして聡一の両手の上に手を置いた。あの一件から聡一は毎日痣の状態を確認してくる。さすがに4日目となると、痣も大分薄くなっている。もう数日もすればきちんと消えてくれそうだ。 「今のところ誰にも言われてないよ。長袖でいられるのがよかったかな」 「不幸中の幸い……なんて言葉は使いたくないな」 聡一が痣をなでる。怪我の功名なんて言ったら、聡一の気持ちをないがしろにしてしまうだろうか。聡一が自分に触れてくれるという事実だけで、僕は毎日舞い上がりそうだ。あんな男の痕なんてさっさと消えてほしい気持ちもある。ただ、無くなったらこうやって触ってもらえなくなるのかと思うと複雑な気持ちになる。 「背中は?」 「え、背中、見る、の?」 僕はしどろもどろになりながら聡一を見た。背中は一緒に風呂に入った後から見せていない。聡一が訝し気にこちらを見てくるので、僕は思わず視線を反らした。 「……見せろ」 「え、えー……あに様の助平ぇ」 「茶化すな」 聡一が真剣な目でこちらを見てくるので、僕は仕方なく寝間着をおろして、肌着を脱ぐ。僕は諦めたように背中を聡一に見せた。 「あ! お前!」 聡一が背中に触れてくる。温かい手の感触に顔が熱くなる。ただ、触られる傷が少しチクリと痛んだ。 「搔きむしったな!?」 「だって痒かった――」 「痒くなるって言っておいただろうが」 後ろから心配されているのだけはよくわかるが、痒いものは痒い。というよりさすがに起きているときには掻いてない。寝てるときに掻いてしまっているのを含めて叱られるとなると、ちょっとどうしようもないではないか。 「肌着に血ついてないだろな……」 聡一が脱いだ肌着を確かめ始める。僕は閉口した。今朝爪に血が付いていて、慌てて肌着を着替えてすでに押し入れに隠していることだけは知られてはいけない。あとはどう処分するかを考えるだけだ。 「お前……本当に気をつけろよ?」 過保護が過ぎるのも、『兄ちゃん』の顔なのか持ち前の責任感なのか。受け取った肌着をかぶりながら、見せつけるように背中を掻いて僕は頭を軽く叩かれた。

ともだちにシェアしよう!