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第26話 葛藤を抱えて
まず僕たちは、新しい教科書を開いて単元の確認をした。現在の進行具合と林が出席していた時の学習帳の記録を照らし合わせた。教科書を見ながら、林が眉間に皺を寄せる。
「結構進んでるな……」
「冬に向けて、なるべく進んでおきたいって走ってる感じはするよ」
「久保め……」
林が頭を抱えている。その気持ちは痛いほどよくわかる。
僕は教科書に沿いながら、授業でどんな事が話されたのか、自分の学習帳を頼りに話していく。林は難しい顔をしながら僕の話を聞いているが、今ひとつ反応に手応えを感じない。やはり人に教えるというのは自分に向いてるように思えなくて、人選を間違えていると思っていた。
「ここまでは大丈夫?」
「……大丈夫」
細かく理解しているか聞いてはいるが、林はその度に大丈夫と答える。でも正直大丈夫そうに見えない。
「林」
僕は意を決して伝えることにした。林は教科書から目を離して、僕の顔を見る。その顔にはありありと「怒られたくない」と書いてあった。
「僕が体が弱いの知ってるよね?」
「……え?うん」
林は突然何を言うんだと言わんばかりに頷いた。僕はそれを受けてから続ける。
「僕が学校に復帰したとき、勉強にもちろんついていけなかった」
林が黙って僕の言うことを聞いている。ただその顔は暗く、視線が下がってしまった。
「でも、有難いことに小田や林に勉強ができると思われているみたいで、僕も正直驚いてる」
「――いや、だって毎回小試験だって満点だし、2・3年学校に来てなかったなんて思えないよ」
「そうだよね、僕も奇跡のようだと思ってるよ」
僕の隣には、奇跡のように優しい男がいてくれたから。
「僕だって最初から全てを理解して学校に行ったわけじゃなかった。でも、家にいる時に、一番上の義兄が僕の勉強を見てくれた。文字の書き方から、全部ね」
今でも正直、自分の字が汚くて恥ずかしいと思う。でも他の人より2年ぐらい鉛筆も持ってなかったんだから、仕方がないと思っている。字が汚いと揶揄する人の気持ちは理解できるし、充分読めるからいいと言ってくれる人もいる。
「林は字がきれいだし、話してて他人に気を遣えるいい奴だってことは、あんまり他人に興味のない僕でだってすぐわかるよ」
林の視線が上がる。僕も林の目を見て言う。
「林、これは僕に勉強を教えてくれた義兄の受け売りだけど……聞くことは恥じゃない。迷惑じゃない。僕は小田みたいに気遣える人間でもないし、言ってもらわなきゃ分からない。聞かれたからって、林を嗤ったり蔑んだりしない。大丈夫じゃないのに大丈夫って言うんじゃない。──あとは、そうだな……僕は教えるのが下手くそだ。下手くそから習うんだから分からなくて当たり前だ。林が気負う必要はない」
矢継ぎ早に自分の思ったことを言って、僕の心は少し高揚した。真面目な顔をしてないと、恥ずかしさが襲いかかってきそうだった。
当の林は、少し泣き出しそうな顔をしながら、僕の話を聞いていた。林の手が震えている。
「……分かった、花村君。正直に話す」
林は怖々としながら、僕に打ち明けた。
「………………僕が休む前の単元からもう理解が追い付いてない」
そうだと思った。その一言は口には出さず、僕は新しい教科書を閉じた。
* * * * *
東通りの『たばた』は、来店した客にいつもお茶を振舞っている。俺も例に漏れず、出されたお茶を啜りながら、頼まれた栗きんとんの箱詰めを待っていた。そんな時だった、小坂先輩が店に入ってきたのは。
俺は驚いて、手に持った茶を置いて立ち上がった。
「先輩、買い物ですか?」
「おぉ。弘子に頼まれてな、芋ようかん買いに来た。今日友人が遊びに来るんだと。聡一は?」
「俺も似たようなもんです。弟の友達が体調悪いらしくて、見舞いの品を買いに来ました」
「ハハッ! 兄貴の立場っていうのは弟妹に使われるもんだな」
先輩が俺が座っていた縁台の隣に腰をかける。俺も一緒に腰をかけたところで、店員が先輩にもお茶を出した。先輩は芋ようかんを持ち帰りで頼んでから、出されたお茶に口をつけた。
「そういえば」
小坂先輩がちょっと声量を落としながら話しかけてくる。俺は先輩の言葉を聞き漏らすまいと、先輩に少し身を寄せた。
「お前んとこのお家騒動、どうなってんだ?」
「お家騒動って……」
小坂先輩の意外な言葉を一蹴しようと思ったが、跡取り問題なのだからお家騒動と言えばお家騒動か、と思い直し口をつぐんだ。小坂先輩はため息をつきながら呆れ顔で俺の方を見る。
「お前なぁ。今、結構大事になってんだぞ」
「……どういうことです?」
俺が眉をひそめつつ聞くと、さらに小坂先輩は深いため息をついた。
「で・た・よ。当事者が把握してないやつ」
「茶化さないで教えてくださいよ」
小坂先輩はやれやれと茶を啜り、はぁと息を吐いた。
「……理一郎といったか? お前の弟。そいつ、あんまりよくない奴らとかかわってるみたいだな。気を付けておけよ」
俺はさすがに信じられなくて、絶句した。しかし小坂先輩がなんの裏付けもない状態でそんなことを言うとも思えない。小坂先輩は俺の表情を見てか、そのまま続けた。
「お前の弟が通ってる中学の非行少年共と、週末になると繁華街でたむろしている。聡一、お前が跡取りになると思っていたからこそ、周りが安心していた経緯っていうもんもあるんだ。お前自身が望んでなくてもな。それがどうだ。理一郎の行動がここ数日間おかしいっていうんで中坊の間で有名になってな。理一郎が素直に『父に期待された』と明かしたらしい。それを聞いた子の親たちが『花村家お家騒動だ』と騒ぎ始めたってわけだ」
俺は目頭を押さえながら押し黙った。そして中学生の弟妹がいない小坂先輩がその情報を知っているということは、つまり俺の関係者として事情を聞き出そうとされたということで、俺と先輩の関係がおそらく柔道部の部員から外に漏れているということだ。口止めをしていたわけでもないが、花村家の耳に入るのも時間の問題だろう。
「――ご迷惑を」
「謝るな。お前は悪いことはしてない。ちょっと隠し事があるだけだ」
俺の謝罪はぴしゃりと遮られる。ちょうどそのタイミングで俺が頼んでいた栗きんとんの準備ができたようで、店員が箱を持ってきた。俺は代金を払い、持参した風呂敷に手早く包んだ。
「先輩、教えていただきありがとうございました。また学校で」
小坂先輩に向き直り礼を言うと、本人は茶を啜りながら片手をあげて応えてくれた。俺は受け取った菓子が崩れないように気を付けながら、足早に花村家を目指した。
このことを誰に相談すればいいだろう。紀子はだめだ。躍起になって理一郎を排除する方向に動きかねない。利吉か? しかし理一郎への判断基準に影響を与えないか? むしろ利吉はどこまで把握している? 知っていてわざと放置しているのか? あぁもうどうすりゃいいっていうんだ!
なんの解決案も浮かばないまま、俺が花村家に着いたときはもう昼時だった。居間には理一郎と征二がいて、二人で何やら肩を寄せ合って話し合っている。
どうする。今ここで問い詰めるか。いや、理一郎の行動が変わり始めたのは今週の頭。週末の行動にも何かしらの変化があるかもしれない。だとしたならば――。
俺は踵を返して、花村屋へ向かった。午後の手伝いを休ませてほしいこと伝えるために。
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