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第28話 それはそれとして
これはいったい何事だろう。
帰宅して玄関の戸を開けると、中から紀子が大きな声を上げて叱っている。僕は珍しいなと思いながら居間を覗くと、聡一と理一郎が紀子の前で正座をして叱られているし、三四と征二が二人の顔にできた傷を消毒していた。僕が唖然としながら固まっていると、聡一がこちらに気付いたようで一瞬視線を向けるが、叱られている最中のためか、また目を逸らしてしまった。紀子がそれに気付いて僕の方を見る。
「あぁ、おかえりなさい」
「ただいまかえりました」
いつもの調子で僕に声をかけてくるので、応える。僕がそのまま何も言わずにつっ立っていると、紀子はもう一度二人の方に向き直った。言葉を続けようと大きく息を吸ったが、言葉が出てこなかったのかそのまま大きく息を吐いた。
「戻っていいわ」
疲れたように紀子がそう言い捨てて、僕の隣を通って居間から出て行った。治療が終わったのか、救急箱を閉じて三四も紀子を追うように足早に去っていく。僕はそのまま聡一の前に立って傷を見た。きれいな聡一の頬に大きな絆創膏が貼られている。理一郎の方は一番ひどそうなのは顎ので、こちらも大きな絆創膏が貼られている。
「……何があったの?」
僕が聞いても、聡一は理一郎の方を見るだけだった。当の理一郎はふんっと横を向いてしまっており、聡一から呆れたように薄目で見られている。続いて僕は征二の方を見たが、征二は罰が悪そうな顔して俯いてしまった。
本当に訳が分からない。自分だけが蚊帳の外のようだった。
理一郎が黙って立ち上がり、廊下に出て行こうとする。それに征二がついていこうとしたが、理一郎が小さく、
「一人にしてくれ」
と言うので、征二はそのまま寂しそうに棒立ちになってしまった。理一郎が去っていくのを見送って、僕はまた聡一の方を見た。聡一はため息をついて立ち上がり、征二の肩に手を置いた。
「征二、お前もやらなきゃならんことがあるだろ」
聡一が征二に声をかける。征二は僕に向き直って、頭を下げた。征二が黙ったまま僕に頭を下げるので、僕は困惑するだけだった。助けを求めるように僕が聡一を見ると、やれやれと聡一が肩をすくめた。
「とりあえず、永太の部屋に行くぞ。そこで事情を説明する」
聡一が征二の背中をぽんと押して、先を歩かせる。
さっきから思っていたが、なんだか二人の距離感が縮まっていないだろうか。面白くない。外套を脱ぎながら、僕は二人の後ろについて自室に向かう。階段を上がって、征二と聡一が僕の部屋に入っていくが、僕はふと思った。襖を開きっぱなしにして出て行っただろうか。その疑問は部屋に入ったらすぐにわかった。押し入れの中身が散乱し、部屋の面積を半分ほど埋めている。まるで家探しにでもあったかのような有様に、僕は開いた口が塞がらなかった。
「とりあえず……座るか」
「……えっと、はい」
僕は自分の部屋なのにまるで知らない部屋であってほしいと思いながら、三人で部屋の隅の方に座った。
「どこから話せばいいのやら」
と、聡一が切り出して、事情を説明してくれた。要約すると、全部理一郎の身から出た錆だし、僕の小遣いを盗もうとした征二は「後から返すつもりだった」とか悪びれもなく言ってくるし、聞いていても全部頭が痛くなるようなことばかりだった。
「とまぁそういうことだ」
僕がこめかみを抑えながら話を聞いていると、聡一がそう言って話を切り上げようとするので、僕は待ったをかけた。
「あに……聡一兄さんと理一郎兄さんの怪我についての説明がまだだよ」
征二の手前、普段の呼び方はあえて避けた。しかし聡一はにっこりと笑って視線を右斜め上に逸らして押し黙る。そんな可愛い顔をしても騙されてはやらないんだから!
「……征二兄さんは知ってるの?」
僕は征二の方に問い詰める。征二はちらりと聡一の顔を見た後、口を開く。
「…………なんか、喧嘩したらしい」
「えっ!? なんで!?」
「そこまでは知らない。オレも知りたい」
弟二人の視線が聡一に刺さる。聡一は腕組をして目を閉じ、視線に気付かない振りをし始めた。僕は最後まで下手にごまかそうとする聡一の肩をしっかりとつかんだ。
「に・い・さ・ん?」
「ハイすみません喧嘩しました」
素直にかつ迅速にこたえる聡一。僕は胡坐をかいている聡一の隣にぴったりくっつくように座った。
「なんでまた」
「いや、だって……理一郎が『うるさい』とか言って殴りかかってきたから……とっさにいなして……」
聡一が唇を尖らせながら、もごもごと説明をし始める。
「何回も殴りかかってきて、避けてたけど、ちょっと嫌なこと言われたから頭にきて、手が……つい」
手が、つい。聡一がつい手が出てしまうほどのことを理一郎が言ったという他ないが、逆に今回の件を引き起こすぐらいのアンポンタンが、聡一を怒らせるようなことを言えたという事実に驚きを隠せない。その後の展開としては、聡一に突き飛ばされて逆上した理一郎が聡一に飛びかかり、公道で乱闘騒ぎを起こした。周りの大人が二人を引き離し、花村屋まで連れてこられたということらしい。聡一にしてはとても珍しく、そして恥ずかしかった一件なのだろう。
罰が悪そうに拗ねる聡一の顔を僕は包み込むように掴んで、僕の方に向けた。
「――もう怪我するようなことしないでね。心配するから」
「わ、わかった……」
驚いた聡一の顔が、みるみる赤くなっていく。そんな聡一の顔を見て、僕も顔に熱が帯びるのを感じて手を離す。心臓が大きく脈打つのを感じながら、僕は聡一から少し離れた。聡一も右手で顔の下半分を隠すようにしてそっぽを向いている。
「……帰っていい?」
征二がじっとりとした目でこちらを見てきた。僕は咳払いをしてから、征二に言った。
「とりあえず、事情は分かったけど。もう盗みなんてしないでよね」
「わかってるよ……。悪かったな」
征二が素直に謝るものだから、僕も聡一も思わず感嘆の声を上げて拍手してしまった。征二の神経を逆なでたのか、征二がキッとこちらをにらんでくる。
「~~~! じゃぁな!」
征二が肩を上げながらどすどすと足音を立てて出て行こうとするので、聡一が「あ!」と征二を呼び止めた。
「理一郎にもちゃんと謝るんだぞ。征二が理一郎のためにあんなことしようとしたなんて、絶対アイツは望んでなかったと思うからな」
征二は立ち止まって聡一の声を背中で受け、そのまま歩き出して部屋を出ていった。今度の足音はとても落ち着いて静かだった。僕はやれやれと散らばった部屋の荷物を拾い上げる。聡一も手伝ってくれるのか、立ち上がったのが気配でわかった。
「……永太」
「んー?」
少し間をおいて、聡一が僕に声をかける。僕が聡一の方を見ると、聡一は怒りを内包した笑みを浮かべてこちらを見ていた。僕ははっとして、誤魔化すように笑った。聡一の手に持って掲げているのは、一枚の肌着。――やばい、見つかった。
「血がついてんじゃないか!」
「わーんごめんなさーい!」
その日の夜、僕はまた背中を確認されたのは言うまでもなかった。
* * * * *
征二は理一郎の部屋に向かった。征二は独りにしてくれと言われた手前、正直入りづらいなと思っていたが、理一郎の部屋の襖は開いており、中の様子を伺うことができた。理一郎は、こちらに背を向けて座っている。そして征二は理一郎の性格をきちんと把握していた。自分が幼少からずっと追いかけてきた頼りない兄は、本当に一人になりたかったら襖を開けておくことはしない。
「兄さん、入るよ」
征二が声をかけて部屋に入る。理一郎は何も言わずに、背を向け続けていた。征二は理一郎のすぐ後ろに座って、頭を下げた。
「勝手なことをして、すみませんでした」
理一郎は何も言わない。征二はただ黙って理一郎の背を眺めた。窓から入っていた西日が遠くの山に隠れたのか、部屋が少し暗く感じる。理一郎が、大きく息を吸う音がした。理一郎が征二の方にゆっくりと向き直って、手の中の物を征二の前に置く。それは、征二が理一郎に渡した財布だった。
「……すまなかった。お前が俺を思ってやったことも含めて、全部。すまなかった」
理一郎が頭を下げる。征二は慌てて理一郎に近寄った。
「頭を上げてください、兄さん。オレはいいんです」
「しかし――」
理一郎が口をつぐんで、ため息をついた。
「俺は、俺が一番情けない。アイツに諭されるまでそれに気付けなかったことも」
理一郎の言葉に、征二はきっと聡一に何か言われたのだろうことはわかったが、何を言われたのかまではわからなかった。そして、諭されたことで頭に血が上って、聡一に手をあげたのだろう。そして、返り討ちにあった。征二はふと、あの温和そうな人が怒った一言とはなんだったのか気になり、聞いてみた。
「そういえば、聡一になんて言って突き飛ばされたんです?」
理一郎は一瞬ぽかんとした顔をしたが、思い出したのかつまらなそうに言った。
「別に。ただちょっと『お前なんか、あのもやし野郎と仲良く乳繰り合ってろよ』って言っただけだ」
そりゃ怒るわ。征二は思ったが、口には出さなかった。
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