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第29話 まだ癒えぬ傷

 次の日も僕は林家に勉強を見に行った。理一郎の「僕と仲良くなろう週間」は先日の一件で終わったらしく、心の平穏は保たれているので僕としては頻繁に林家に行く必要はなくなった。むしろ理一郎と征二が出す雰囲気が良くなったように感じ、以前よりも居心地が良くなったと言っても過言ではない。 それでも僕が林のところに行くのは、林がこの前の勉強会で理解できてなかったところが少し解消され、意欲的になっているからだ。  林家の前で大声で呼びかけるのも、二回目ともなれば恥ずかしさも湧かなかった。ただ、今日は出てきたのが男性だったのは少し緊張した。林の父だ。身長は低めだが丸太のような腕や足を持つ体躯の持ち主で、響く低音の声が余計に僕を委縮させた。  林の父は、僕を見るなり両手を広げて歓迎してくれた。僕は自分の体がへし折られないか不安になったが、さすがにそんなことは起こらなかった。 「やぁ、君が花村君だね。栗きんとん、おいしかった! ありがとう!」 「あ、え、はいっ」 つま先がぎりぎり地につかないレベルで抱きしめられ、僕は感動した。すごい筋肉だ。太くて堅そうなのに、むしろ靭やかで弾力がある。ここまでの筋肉はいらないが、僕は正直羨ましかった。 「倅が世話になってるね。本当にありがとう」 「え、あっ、だい、じょぶ、です」 そこまで言い終わると、僕はやっと地面に降ろされた。すごい体験だった。林家の歓迎ぶりに嫌な気持ちは全くないが、普通はこんなものなのだろうか。友達がいたことない上にもちろん家に呼んだことすらないのでわからない。  僕は玄関で靴をそろえて林の部屋に向かう。ふと振り返ると、林の父が朗らかな笑みを湛えながら僕の方を見ていた。相手が笑っているので僕もつられて笑いながら林の部屋の前まで行った。ドアをノックして、中から林が返答をした瞬間に部屋に入り急いでドアを閉める。 「どうしたの?」 林が少し驚いたようにこちらを見ている。林を見た。将来、林も父親のような巨躯の男になるんだろうか。 「林のお父さん、筋肉がすごい」 「ふはっ! いててっ」 僕が何も考えずに真顔で言った言葉に林は噴き出し、そのまま机に突っ伏した。 「え、大丈夫?」 痛がる林の隣まで行って僕は気付いた。林は座布団を段違いになるように半分に折って座っていた。ちょうど太ももの付け根ぐらいが高くなって尻が少し下がるような形だ。なんでわざわざそんなことをしているのかわからなかったが、あえて聞くようなことでもないので口には出さなかった。林は上体を起こし、「大丈夫、大丈夫」といって心配をかけまいとしてくる。 「無理はしないでね」 「わかってる。始めよう」 林が教科書を開いた。そこでノック音が聞こえた。ドアが開かれ、林の母がお茶を淹れて持ってきてくれた。 「花村君、本当にありがとうね。うちの子がこんなに勉強に打ち込んでるの初めて見たわ」 「余計なこと言わなくていいから……」 林が母親の言葉に不機嫌にそう言い放つ。林の母は「はいはい」と言いながら机の上に湯呑を置いて部屋から出て行った。開け放ったままのドアの向こうから、林家の母親と父親の声が遠くに聞こえる。  僕は林の家に初めて来たときから感じている、言葉にできない違和感。ただその違和感の正体がその時の僕にはわかっていなかった。  解説を聞く、覚える、問題を解き、間違いを修正し、また解いていく。結局のところ勉強はその繰り返しだ。たまにひらめきが必要だったりすることもあるが、少なくとも今の段階では、ひらめくための知識の母数があるかないかで充分補える。もっと難易度の高い学問になったらそれではきっと足りないのだろう。 小休憩を入れて、僕は厠を借りて林の部屋に戻ってきた。部屋のドアを閉め、机を挟んだ林の向かい側に座る。林はやはり少し疲れているようで、顔に元気がなくなってきていた。 「林のお父さん、どうやって鍛えてるの?」 「花村君、筋肉好きだね」 林の切り替えしに、僕は笑った。 「いや、ちょっとね。体鍛えたいんだ……さすがに、弱すぎるからね」 僕の一言に、林の顔が少し曇った。そういえば林も運動が苦手だったか。もしかしたら林も僕と悩みを抱えているのかもしれない。 そんな話をしていると、ノックの音がして、林の母親が入ってきた。 「お菓子持ってきたよ。ちょっと休憩したら?」 「ありがとうございます」 僕はお礼を言った。林の母親が煎餅を乗せた丸い木皿とお茶のお替りを持ってきてくれた。林の母親が出ていくのを見送って、僕は勉強会が始まるときにもらった冷めきった湯呑を持ち上げた。自分の部屋で勉強していたとしても、お茶なんか淹れてもらったことなどない。淹れてもらえるお茶と言えば、食後ぐらいである。それ以外でほしい場合、花村家では家長を除いて各自で淹れるのが暗黙の了解だ。僕はお茶を淹れたことがないので、喉が渇けば冬でも冷たい水を飲んでいた。今度三四に淹れ方を教えてもらおう。僕に淹れてあげたら、聡一は喜んでくれるだろうか。 「花村君は、向上心の塊だね」 「へ? あっ!」 僕は林がの一言に、思わず手から湯呑が滑った。湯呑は左掌の上で倒れ、胡坐をかいていた僕の足首の上に落ちた。慌てて湯呑を拾い上げて、畳が濡れていないか確認した。中身は半分ほどしかなかったので、ほぼ自分の袖に吸われてしまったようだ。 「だ、大丈夫?」 「大丈夫。もう冷めてたし」 林が驚いて声を上げたが、僕は冷静に返した。上着を脱いで、鞄から手拭いを取り出す。濡れたシャツの袖口をめくって濡れた腕を拭いてから袖に手拭いをあてがった。じんわりと手拭いに水分が吸われていくのを感じながら押さえていると、林が僕の腕をつかんできた。急なことに驚いたが、僕は自分の失態に気付いた。 林が、僕の手首の痕を凝視している。まずい、やってしまった! 言い訳を瞬時に考え始めるが、僕は林の顔が恐怖に染まっているのを見て思考が停止した。林が僕の腕を放し、震え始める。僕は濡れた袖を伸ばして痕を隠した。濡れている袖は不快だが、今はそんなことを言っている場合ではない。明らかに僕の手首についた痕が林の何かを刺激した。見えなくなってしまった方が絶対にいい。  僕は閉口して、林が落ち着くのを待った。林は薄く涙がたまった目で僕に何かを訴えかけている。林が震える人差し指を自分の唇に当てた後、ドアの方をそのまま指し示した。僕はドアの方を見る。ドアがまた開かれたままになっていた。林に視線を戻すとぎこちなく頷くので、僕はそっと立ち上がって、音を立てないように気を付けながらドアを閉めた。 「……どう、したの……それ」 僕が座るのを待って、林は聞いてきた。しかし僕は答えられない。そして、僕はこの林家を訪れてから感じていた違和感の正体に辿りついたように思った。 「林」 僕は林を呼ぶ。林の唇は恐怖で震えていた。僕の勘なんて外れていてほしい。そう思いながら、僕は濡れた自分の手首を握りしめた。 よく感じる視線。何かあればすぐにわかるようにドアを開けっぱなしにする家族。今思えば、僕がドアを閉めたらすぐにやってきてドアを開けていったように思う。わざわざ座布団に段差をつけて尻をつけないように座る林。そして、僕の手首を見たときの反応。 僕は目を閉じた。先週の出来事を思い出す。虫唾が走るあの杉林で、顎をつかまれ、神経を逆なでするあの男の声。 ――「へっ! 結構な上玉じゃねぇか。この前のガキなんかよりも」 僕は目を開けて、また林を見た。答えられなかった。そして、どう言えばいいかわからなかった。きっと僕なんかよりもあの屑に蹂躙されただろう林にどう声をかければいいのか。 「……怖かった、よね」 林が絞り出すように声を出した。目から涙が流れる。林も、僕がどんな目にあったのか見当がついている。だが、僕のことを思って、僕の身に起こったことが家族に知られないように配慮してくれた林に、応えないことを僕の矜持が許さなかった。 「そうだね、怖かった……とても」 僕の言葉に、林の目から涙が溢れ始めた。 「花村、くん、は、つよい、ね!……ぼ、くは……まだ、立ち直れそう、に、ないよ……」 嗚咽を抑えながら林が、僕を褒めて自分を蔑む。 違うんだよ、林。僕には、あに様がいたから、大丈夫だっただけなんだよ。

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