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第30話 取り戻した日常
しばらくの間、理一郎は学校を休んだ。花村家から正式に学校と当該生徒に苦情を申し入れたことにより、事態が落ち着き収拾されるのを待つためだ。ただし、普段の理一郎の素行がそこまで良くなかったことも鑑み、花村家としてもそれなりに寄付を行ったようだ。所謂、袖の下というやつだ。それでも人の感情というのは測れないものなので、利吉は私的に人を雇い、ほとぼりが冷めるまでは夜間警備を徹底していた。実際に2・3人だがやはり悪さをしに来たらしく、後日その一家全員が夜逃げよろしく引っ越していったのは言うまでもない。
林の家で僕は宿題を終わらせていたし、寝るまでの間は貸本屋で借りた店主おすすめの本を読んで過ごしていたりしていた。「背伸びせずに年相応の物でも読んでおけ」などと言って『空想冒険譚』という本を渡してきた。年相応という割には『甘き恋』よりも知らない漢字は多いし、本当に年相応なのか甚だ疑問ではあった。
僕は『空想冒険譚』を閉じて、少し寝転がった。やはり知らない漢字が多いと、読むのにも体力を使う。座布団をつかんで半分に折って枕替わりにして、横向きに寝転がった。ぼんやりしながら、僕は自分の手を見つめていた。手首についていた痕は、もうすっかり消えてしまっている。
僕は林と腹を割って話したことを、聡一に伝えていなかった。林も僕のことを両親に伝えないでくれているのに、僕だけ話すわけにいかなかった。
林が襲われたのは、友人宅からの帰り道だったそうだ。その友人宅は林の家から繁華街を通っていくらしく、さすがにガラの悪い人もいるからと早めの時間帯に帰路についた。人混みがあまり好きではない林は、繁華街を大きく迂回するように歩いていたらしい。その話を聞いて僕は、僕の体力ではそんな道を選択することはできないな、と思った。林は普段歩かない道ということもあり、道に迷ってしまった。どんどん歩いても、人が通らない。林はとても焦っていた。そんな時に声をかけてきたのが、例の男だったそうだ。暗がりに連れ込まれ、犯され、道端に捨てられた。なかなか帰ってこないと両親が親戚たちと探しに出て、発見されたらしい。近所の医者を呼ぶとどこから話が漏れるかわからないと、親戚の開業医を夜中に呼びつけて診てもらったという。両親は毎晩泣いていたと言っていた。
一歩間違えれば、僕も同じ状況になったのだろうと考えると、気持ちがどん底に落ちる。林は良い奴だ。僕が受けた被害以上のことが無かったことを喜んでくれた。そして、聡一があの男に一発お見舞いしたと聞いて、今度是非会わせてほしいと言ってきた。事情を話すか話さないかは、林に任せることにしよう。それがきっと、一番いいのだろうと信じて。
林が学校に復帰したのは、僕が林の家に通うようになってからさらに2週間後だった。精神的なものではなく、単純に身体的な回復に時間がかかったのだ。教室に入ってきた林を見た瞬間に、僕と小田は立ち上がって喜んだ。その光景をみた林は、はにかみながら「ありがとう」と礼を言ってきた。授業中については、林がきちんと授業についていけているかどうか、家庭教師の真似事をしていた身としては気が気ではなかった。授業の合間に林は、自分の席から僕の方に自信たっぷりのいい笑顔を見せてくれたので、たぶん大丈夫だったのだろう。
昼休みに入ると、僕は鞄から取り出した『空想冒険譚3』を読もうとしていた。返す期限があるので、最近の昼休みの日課だったから普段通りの行動だったわけだが、その日は林が話しかけてきた。
「花村君ごめん! ここなんだけど、ちょっと教えてくれる?」
と今日やった単元を聞いてきた。どうやら林の勉強意欲は衰えていないようだ。家庭教師冥利に尽きるじゃないか。僕は笑って「いいよ」と答えてから本をしまって筆箱を取り出す。すると、隣の席の小田が首を突っ込んできた。
「え、ちょっとまって、そこ私も教えて」
「は?」
僕は筆箱を開きながら小田を見た。小田も教えてもらう気満々のようで、勉強道具を取り出し始める。仕方ないなぁと小田と机をくっつけて三人で勉強できる場所を確保した。教科書と僕の学習帳を真ん中に置いて、林が間違えた問題を中心に解説をしていく。きちんと昨日までの部分は理解していそうなので、僕としても少し誇らしかった。
「わかった?」
と言って顔を上げると、林の後ろに2人の男子生徒、小田の後ろに3人の女生徒が立って、僕の学習帳を覗いていた。驚いて周りを見渡すと僕の後ろにも何人か立っていた。いきなりこんなに大勢に囲まれて僕は声が出なかった。林は大丈夫だろうかと林の方を見るが、林は問題が解けたことでご満悦のようだ。
「え、ごめんもう一回説明して。今の一瞬で頭から抜けてった」
小田がそんなことを言うもんだから、僕は今度は小田の学習帳を指し示しながら説明しようとすると、周りを囲んでいた生徒たちがぱっと散っていった。
「小田よく言った! 花村ちょっと待て! 俺も持ってくる!」
「あ、俺も!」
各自勉強道具を持ってこようとするものだから、僕は眉間を押さえながら林をちょっと恨んだ。
帰り道、僕と林、小田の3人で歩いていた。こんな風に皆と帰ったことなんて無かったから、僕にとってはとても新鮮だった。小田と林とは氏神神社の参道までは一緒になるが、家の方向としてはそこで別れることになる。僕は何も言わずに二人の会話を一歩下がって聞いていた。そういえば林と小田は教科書を届けに行ったあの日以来顔を合わせてなかったのか。まぁ、世話焼きの小田としては、気になっていたのに勉強の邪魔になるからと我慢していたのだろう。
「ねぇ花村、くん」
「呼び捨てでいいよ。僕は最初から呼び捨てだし」
僕は思わず笑いながら答えた。すると何故か小田がポカンとこちらを見ている。僕は片眉を上げながら、
「なに?」
と聞くと、小田はため息をついて林の方を見る。
「ねぇ、勿体ないと思わない?」
「いや僕に言われても」
「だっていつも仏頂面なのよ? 笑った顔なんてもう貴重なんだから」
酷い言われようで、僕は「ちょっと」と小田に抗議をしたが無視された。
「林の前では笑うのねー? なんだか妬けちゃうわ」
小田がそんなことを言うが、意味がわからない。そもそもあの教室で僕と話す奇特な奴なんて林と小田ぐらいなもので、笑う機会なんてものは無いに等しいと思うが。
「いや、でも皆に笑顔を振り撒いてる花村を想像してみてよ」
林がそう言って、小田と二人でこちらを見てくる。僕は半眼で二人を見返した。
『…………罪だわぁ』
「何を言ってるのかもうちょっと分かるように言ってくれる!?」
僕の抗議の声は二人にどうしても届かないのだろうか。とりあえず揶揄ってきているのだけはよくわかる。僕は話題を変えようと林に話しかけた。
「で、なんだったの?」
「あ、そうそう。今日さ、この後って家にいる?」
意外な言葉に、僕は面食らいながら答えた。
「いる、けど……どうして?」
林はにっこりと笑った。
「この後、花村の家に挨拶に行かせてもらおうと思って」
「なんで!?」
思わず大きな声が出た。すると、林はさも当たり前かのように言ってくる。
「だって、勉強見てくれたし。お見舞いくれたし」
そう言われると、そういうものなのかもしれないと思えてくる。林がうちの親に会うのかぁ。なんだかまた紀子が頑張ってしまいそうな気がして嫌な予感がするなぁ。黙っておこうかな。なんてことを考えてしまった。
「えっと、来るのは林だけ?」
「いや、うちの両親も行くよ」
「……ソッカァ」
言わなきゃだめかな、言わなきゃだめだよなぁ。ため息をつきながら、僕は憂鬱な帰路を急いだ。
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