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第31話 感謝を交わして

 帰宅してすぐ、極力軽く紀子に報告をすると、案の定紀子はお客様用の茶葉が足りているか茶菓子はどうするか茶たくの準備だと走り回り始めた。利吉はすっと立ち上がって、林工務店のことを調べ始める。大人の世界って嫌だなぁと思いながら見ていると、紀子が突然僕の方を見た。 「永太、聡一に声をかけて茶菓子を買ってきてもらって」 「え!? 聡一兄さん帰ってきてるの!? もう!?」 僕は思わぬ一言に驚いた。するとその問いには近くを通った三四が答えてくれる。 「今日、創立記念日で半ドンだったんですよ。先輩から古い自転車を譲ってもらったとかで、母屋の庭で磨いてると思いますよ」 「座敷から見えちゃうじゃない! それもどかすように伝えて!」 「わかった! ありがとう!」 僕は母屋の裏手へ走った。庭で錆が浮いている鈍色の自転車を、しゃがみこんでせっせと磨いている聡一が見えた。創立記念日万歳!毎日半ドンだったらいいのに! 「あに様ー!」 僕は走っていって聡一の背中に飛びついた。 「うおっ!? 永太、おかえり」 転ばないように膝をつく聡一越しに、僕は自転車を見た。自転車をこうやって間近で見るのは初めてだった。聡一がウエスを使って磨いているが、なかなかうまくいってはいないようだ。 「この自転車、動くの?」 「うーん、動くは動くんだがなぁ」 僕が背中から離れると、聡一がスタンドを外して自転車を押した。自転車はがたがたと揺れながら金属がこすれて噛んだような音を上げている。どうやらチェーンが引っかかっているようだ。 「ブレーキの点検とかもしないと危ないなぁ。ずっと雨ざらしだったらしいから、サドルのクッションも劣化してるし」 ぶつぶつと呟いている、なんだか嬉しそうな聡一を見ていると、こちらも嬉しくなる。もう少し聡一の姿を見ていたい気持ちはあるが、僕は紀子からの指示を聡一に伝えた。聡一はてきぱきと片付けを始めて道具箱を持ち上げ、自転車を押そうとした。 「僕が持つよ」 道具箱を聡一の手から貰おうとすると、聡一はちょっと考えてからそっと渡してきた。 「いいか? 重いぞ?」 「う、うん」 聡一が片手で持っていた道具箱を、僕は両手で受け取る。ずっしりと感じる重量に一度落としそうになったが、なんとか踏ん張った。その様子を見て、聡一は「ほらな」と笑った。  林が両親を連れて花村家にやってきたのは、聡一がちょうど『たばた』の芋ようかんを持って勝手口から入ってきた時だった。台所で三四がお湯を沸かし始めて、聡一は三四に「何か手伝えることはありますか?」なんて聞いていた。僕は初めて友人が来るという事実が落ち着かなくて、ずっと台所の隅に座ってその光景を見ていた。三四は聡一の申し出をやんわりと断っていた。聡一が勝手口から出て行こうとするので、僕もついていこうとしたら三四に止められた。 「いや、永太坊ちゃんはお座敷ですよ! 紀子さんと一緒にお客様をおもてなししなきゃ……そんな顔してもだめです! ほら!」 嫌だなぁという感情を出し過ぎたのか、三四が僕の背中を押してくる。助けを求めるように勝手口の前にいる聡一を見ると、薄情にも聡一は屈託のない笑みを浮かべながらこちらに小さく手を振っている。僕もむくれ面で手を振り返した。  座敷にはすでに林たちが通されていた。僕は廊下に座って「失礼します」と声をかけて座敷の襖を開いた。中にいる全員の視線がこちらを向く。僕にとって一番手前の場所に座っていた紀子が、 「永太、そちらへ」 と僕を紀子の向かい側に座るよう指示をしてきた。まだ利吉は来ていないようだ。まぁ、主人は最後か。僕は立ち上がって座敷に入り、襖を閉めて指示された場所に座る。角を挟んで隣の場所に座っていた林がちょっと緊張した笑みを浮かべながらこちらを見ていた。僕は林の気持ちがよく分かる。子供にとって、こういう大人の場所ほど息が詰まるところはない。  廊下を歩いてくる利吉の足音が聞こえて、林の両親も居住まいを正した。利吉が入ってきて、その後ろを盆を持った三四が続く。林の両親が腰を上げようとするのを利吉が笑顔で制止した。 「堅苦しいのは好きではなくて、どうぞ楽になさってください。私もそうさせていただきますから」 そういって利吉は客の前であぐらをかき始めた。利吉と林の父の視線が交差する。林の父はさっきまでの堅苦しそうな表情から、僕に見せたような朗らかな笑顔を浮かべて「では、遠慮なく」と足を崩した。一気に場の空気が緩む。花村屋と林工務店の長から、親同士の席へと変わった瞬間だった。三四がお茶とお菓子を出した。 「今日は突然すみません。息子の俊雄が、永太君に大変世話になったのでお礼に参りました」 「いえいえ、かえって気を遣わせてしまって」 林の父から菓子折りが出されて、利吉が受け取った。そこから始まる大人の世間話を僕はすべて右から左へと聞き流しながら芋ようかんを食べた。やっぱり『たばた』のお菓子はおいしいなぁ。ふと林を見ると、林もこちらを見ていた。利吉が僕に「二人で遊んできてもいいぞ」と声をかけてきた。僕は林に「行こう」と声をかけて座敷を出る。林も僕のあとについてきた。 「緊張した……」 座敷から少し遠ざかったところで林が深いため息をついた。 「わかるよ……正直面倒だよね、こういうの」 僕は林の言葉に完全に同意した。  さて、この後はどうしようかな。何の自慢にもならないが、僕は友人と遊んだ経験がない。こういう時にどうすればいいのかがわからない。聡一だったらどうするかな、と考えて、僕は気付いた。 「林、聡一兄さんに会いに行こう!」 「え、お兄さんもう帰ってるの?」 「半ドンだったんだってさ。こっち!」 玄関で靴を履いて僕は勝手口の方に回る。庭よりも作業するにはあまり広くないが、聡一はそこで自転車のチェーンを弄っていた。聡一がこちらに気付いて立ち上がった。 「永太、その子が林君か?」 「そうだよ。林俊雄」 林が聡一に頭を下げた。今度は林に聡一を紹介する。 「林、この人が聡一兄さん」 「永太が世話になってます」 「あ、いえ。むしろ僕が世話になってて……」 林は聡一がにっこりと笑っているのをじっと見ている。聡一はなんでそんなに見つめられるのか分かっておらず首を傾げている。僕も林が何故不思議そうな顔をしているのかわからず、林を見つめた。すると、林が僕の方を真顔で見る。 「……こんな細い腕で一太刀入れたってこと?」 その瞬間、林の父の巨躯を思い出して、たまらず噴き出した。  結局、僕たちは聡一に全てを話すことにした。錆びた自転車の前で、三人でしゃがみこんで小声で話す。聡一は林の話を頷きながら真剣に黙って聞いていた。話が進むにつれて、聡一の顔が辛さを帯びていくのを僕はじっと見ていた。 「――だから、僕はあなたに会いたかったんです。僕の友達を救ってくれてありがとうございます」 林がそう言って話を締めるもんだから、僕も胸が苦しくなった。聡一は手に持ったウエスをぎゅっと握りしめながら、 「永太の友達がこんなに良い子で嬉しいよ……。そして、その場に俺がいられなかったのが悔しい」 絞り出すようにこぼした。林は涙ぐみながら鼻をすすって、無理やり笑顔を作った。  その後、三人で自転車をあーでもないこーでもないと弄り回した。少しずつチェーンは動くようになったが、この状態の自転車に乗れるかと言われると難しいだろう。すると、勝手口が開いて三四が声をかけてきた。 「坊ちゃんたち、そろそろお帰りのようですよ」 「はーい」 僕たちは勝手口から台所に入り、順番に手を洗った。手にこびりついた黒くなった油はなかなか取れず、三人は諦めて玄関に向かった。林の両親はもう靴も履いて玄関の前で立っていた。 「あら、どうしたのその手」 林の母が林の手を見てそう言った。聡一が慌てて謝る。 「すみません。もらった自転車の整備を手伝ってくれてたんですが、なかなか手の汚れが落ちず……」 「ほぉ、自転車か」 林の父が興味深そうに言って、僕たちが来た方に歩いて行ってしまう。さすがにお客様をお通しする場所じゃないので、と追いかけるが林の父は止まらない。その巨躯からは考えられないほど軽快に移動する。そして先輩からもらった自転車を見て、豪快に笑い始めた。 「こりゃぁすごい! 久々に見る重症ぶりだ!」 聡一と紀子が恥ずかしそうにしている。林の父は自転車のハンドルを握ると、 「一日、お借りしてもいいかな?」 と言って、有無を言わさず自転車を押していってしまった。がらがらとけたたましい音を鳴らしながら林一家は花村家を後にする。その後ろ姿を僕は聡一と見送った。 「……すごい筋肉」 突然聡一がそんなことをぽつりと呟くものだから、僕は笑うのを我慢できなかった。

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